まずは、集団就職と就職列車についての説明です。
次の参考文献によれば、集団就職者とその人員を運ぶ列車は、戦前にも運行されたことがあるそうです。
※参考文献1 浅野明彦著『昭和を走った列車物語 鉄道史を彩る十五の名場面』P136−144
その元祖は、1939年4月4日に秋田から上野まで運行された列車で、旧制の高等小学校の卒業生584人を京浜工業地帯の軍需工場へ運ぶためのものでした。
戦後は、1951年3月に鹿児島県から大阪を経て京都まで運行された列車が最初とされています。当時はまだ輸送事情が悪く、鹿児島県出水の職業安定所長が奔走した結果、通常列車に特別の車両を1両付けて運行にしてもらったものでした。
1954(昭和29)年になると、3月に大阪労働部の斡旋による特別列車が徳島から大阪まで運行され、また4月には、青森県によって青森発上野行きの臨時列車が運行されました。
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集団就職や集団就職列車の最初がどれであるかは、各参考文献でいろいろな説が採られています。
『朝日新聞』(2011年7月2日夕刊 参考文献2)では、東京都世田谷区の桜井新町の商店街が、中小企業や商店が新潟県高田公共職業安定所(上越市)に対して合同求人を行い、これによって1955年3月に15人の就職が新潟県からやってきたのが、集団就職の始まりとしています。そして、1956年度からこの桜新町の方式を労働省が全国的に本格化させたとしています。
また、就職者を専用に運ぶ臨時列車(=就職列車)そのものは、朝日新聞も上記の1954年4月の青森からの列車がその最初であるとしています。引率の教員の旅費を節約するため、青森県が考え出したそうです。
また、岩手県からは、1955年3月に初めて特別編成の臨時列車が運行されました。
※参考文献3 NHKアーカイブ番組プロジェクト編『NHKアーカイブ@ 夢と若者たちの群像』P12−13 |
第二次世界大戦によって大打撃を受けた日本社会は、1950年代前半には、ようやく復興へ向けて進み始め、『経済白書』にかの有名な「もはや戦後ではない」という文言が記されたのは、1956(昭和31)年のことです。
それ以降、日本は15年余にわたる高度経済成長の時代を迎えます。
その成長を支えたのが、地方出身の中学卒の若年労働力です。
成長を続ける大都会には慢性的な労働力不足が発生し、一方で、戦後の復員やベビーブームなどによって、地方農村には大量の余剰労働力が発生していました。
この両者のギャップを埋めるのが集団就職であり、彼らを運んだのが、就職列車でした。
経済成長時代、中学校卒業者に対する求人倍率は、平均3倍を越えており、引く手あまたの彼らは、「金の卵」とも呼ばれました。昭和30年代後半には、毎年50万人から80万人の方が、中学校を卒業してすぐに就職され、のちしだいに高校進学率が上昇して対象者が減少すると、その希少性から、「ダイヤモンド」・「月の石」とも呼ばれました。
最近の映画でいうと、2005年公開の『always 3丁目の夕日』(続編は、2007年の『always 続・3丁目の夕日』)で堀北真希が演じる、星野六子(青森県出身)の世界が、その象徴的な姿を示しています。
1963(昭和38)年の春からは、就職列車が各県別から国鉄や日本交通公社の手配で統一的に運用されるようになりました。運賃は所定の2割引とされました。この年の中卒就職者数は全国で約46万人、このうち他の都府県へ就職した人が約24万人、そして、そのうち78,407人が就職列車に乗りました。
※参考文献1 浅野明彦著『昭和を走った列車物語 鉄道史を彩る十五の名場面』P138
岩手県からは、1955年3月から1975年3月までの21年間に76本の列車が運行され、合計およそ46,800人が京浜地区へ向かいました。
しかし、1970(昭和45)年代後半になると、経済成長の時代は終わりを告げ、また日本の産業構造も変化し、「金の卵」の時代は終わりを告げます。
そして、1975(昭和50)年3月24日に、岩手県盛岡から上野まで運行された列車が、すべての方面からの就職列車の中で、最後の就職列車となりました。岩手県からの列車には、最盛期には1列車に4000人もの生徒が乗っていましたが、この最後の列車に乗った生徒は、僅か370人あまりでした。
※参考文献3 NHKアーカイブ番組プロジェクト編『NHKアーカイブ@ 夢と若者たちの群像』P17
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