宗教3
<解説編>
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 808 金比羅様はもともとインドの神様の伝承です。その神様はどういう動物の化身だったでしょうか?|問題編へ

 まずは、金比羅神社の基礎的な学習です。公式サイトの「由緒」によれば、その起源は次のようになっています。
  ※
金比羅神社(金刀比羅宮)の公式サイトはこちらです。→http://www.konpira.or.jp/

「金刀比羅宮には主たる祭神の
大物主神(おおものぬしのかみ)とともに、相殿(あいどの)に崇徳(すとく)天皇が祀られています。大物主神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の弟、建速素盞嗚命(たけはやすさのおのみこと)の子、大国主神の和魂神(にぎみたまのかみ)で農業殖産、漁業航海、医薬、技芸など広汎な神徳を持つ神様として、全国の人々の厚い信仰を集めています。
 古伝によれば、
大物主神は、瀬戸内海の海水が深く湾入し、潮が常に山麓を洗う、湾奥に横たわる良き碇泊所であったこの琴平山に行宮を営まれ、表日本経営の本拠地と定めて、中国、四国、九州の統治をされたといわれています。その行宮跡に大神を奉斎したと伝えられています。
 
崇徳天皇は御名を顕仁と申し上げ、第75の代天皇でしたが、永治元年(1141)には故あって譲位され、保元(ほうげん)の乱に際し、讃岐国松山に遷られました。 その後9年間の寂しい生涯に、当宮を深く崇敬され、長寛元年(1163)には親しくこの山に参籠なされたといわれています。
今もその旧蹟である「御所の尾」と称される地が残っています。 長寛2年(1164)、崩御なされるや、翌永万元年(1165)7月、当宮との深い由縁をもって相殿に合わせ祀られました。」

 つまり、一応、神社の「正史」では、主祭神は、大物主神(おおものぬしのかみ)であり、後には
崇徳天皇をも祀ったとされています。崇徳天皇というのは、高校の日本史の教科書にも登場する、保元の乱で敗れた上皇です。乱後、讃岐に配流され、その地で亡くなりました。落語でも有名な、「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末に逢わむとぞ思ふ」の和歌を詠んだ方です。

 しかし、金比羅神社には、このような正史とは別に、日本古代の宗教史の中での、遠く
インドに起源を発する「金比羅信仰」が存在しています。
 
 別の文献には次のように書かれています。
「『こんぴら』とは、仏教の12神将の一つである
宮昆羅(くびら)の転化したもので、金比良・琴平・金刀比羅などと書く。」
  ※参考文献1 大島建彦・薗田稔・圭室文雄・山本節編『日本の神仏の辞典』P538「こんぴら【金比羅】」の項

 そこで、このクイズ問題が登場したわけです。
 上記の引用の「仏教の12神将」とは、もともとインドの神々であったものが、仏教世界に取り入れられて、仏を守護する神となった12神を意味します。
 もともと、宮昆羅(くびら)とは、インドにいるある
動物の化身の神のことなのですが、その動物とは一体なんでしょうか。


  ※黒板の上にマウスを置くと、正解が現れます。

 先に引用した参考文献1、『日本の神仏の辞典』の続きを引用します。

「宮昆羅は、サンスクリット語の
クンピーラにつながるが、これはインドのガンジス川に生息するワニを神格化した河の神であり、仏教の日本渡来とともに海の神、航海の神として祀られるようになったと考えられる。この神を祭神とする金比羅神社は全国に700社あまりあるが、その本社が讃岐国(香川県)仲田郡琴平町の象頭山に鎮座する金比羅権現(金刀比羅宮)である。象頭山はもともと霊山であり、山麓の村落の氏神であったとともに、海上交通の守護神として崇められてきた。近世以降これが金比羅信仰として全国的にひろまり、各地に代参講ができて多くの参詣者が訪れることになる。同時に、海上安全・大漁祈願のみならず、厄除けを含めた流行神としての性格を帯びて今日に至っている。」

 ガンジス川の河の神様が転じて海の神様となり、次第に守備範囲を広げていったと言うことですね。
 以下の説明は、主に次の二つの参考文献をもとに記述しました。
  ※参考文献2 大崎定一著『こんぴら物語 4版』(金刀比羅宮社務所 1965年)
  ※参考文献3 近藤喜博著『金毘羅信仰研究』(塙書房 1987年)


 ※日本全国の神社については、クイズをご覧ください。
  →クイズ日本の文化:「現在の日本の神社を信仰(祭神)によって分類すると、一番多いのはどの神様か。」


 以下に、讃岐の金比羅様に出かけた時の写真を紹介します。
  ※詳しくは、旅行記:「讃岐香川・備前岡山旅行2」をご覧ください。

 写真808−01  琴電琴平駅前から眺めた象頭山             (撮影日 11/02/27)

 正面の山が象頭山です。この山は、北の高い峰は標高521mです。山の一部で南の低い峰は琴平山とも表現されます。
 古くから霊山とされ、裏山は禁則林(入山禁止の森林)となっています。山全体が信仰の対象となっていることについては、大和の三輪山の大神神社(おおみわじんじゃ)と同じような信仰と言えます。

 金比羅神社の本宮は、この写真では左手の山の中腹、方角で言うと南東側にあります。
 
象頭山については、江戸時代のかの有名な外国人シーボルトも、江戸参府の途中に船上から見て、その印象を書き残しています。
琴平山は孤立した円錐形の山で、讃岐の鵜足郡の内陸数里のところにある。山は遠く海上から見え、近づくと樹木が、こんもり茂っているのがわかる。なぜなら常緑の森が、山頂までおおっているからである。神殿・境内の森および庭園、およそこの山の全域が魅するような美しさだという。」
 ※参考文献3 近藤喜博著『金毘羅信仰研究』(塙書房 1987年)P9−10から引用

 この写真は、
琴電琴平駅前からの撮影ですが、手前の金倉川にかかる橋は、現在架け替え中のため、仮橋です。


 写真808−02  金比羅神社から見た琴平の町               (撮影日 11/02/26)

 手前のホテルの後側が琴平電鉄の琴平駅、中央の白いホテルの両側に電車が見えています。
 また、右上の赤茶色の屋根の建物が
JR土讃線琴平駅です。JRは写真を真横に横切って、写真左手、方角で言うと北側の多度津方面に向かいます。JR琴平駅からまっすぐ参詣道路がホテルの方角に向かい、その途中に琴平電鉄琴平駅があります。道は駅のすぐ西で金倉川を渡ります。


 写真808−03・04 (撮影日 11/02/26) 左:参詣道  右:最初の階段 

 左:いかにも神社の参道といった感じの風情のある表参道です。金比羅神社への参詣者が増えたのは、江戸時代になってからです。お伊勢参りと同じように、庶民の信仰の対象となりました。『東海道中膝栗毛』で有名な十返舎一九も、『金毘羅参詣続膝栗毛』を書いています。
 右:この階段が、本宮までの
785の階段の最初です。


 写真808−05・06 (撮影日 11/02/26) 左:シンボル色は黄色   右:本宮到達 

 785段を上り終えて、やっと本宮に到着です。ただし、785段の階段があると言っても、階段がずっと続くわけではありません。坂道も平坦な道も所々にあります。よほどの高齢者の方には大変ですが、年配の方でも、下から1時間ちょっとあれば、十分往復できます。 


 写真808−07 本宮横の高台(展望台)からの眺めです              (撮影日 11/02/26)

 785段を上りきった本宮の標高は、海抜251mです。この金毘羅山の海抜が521mですから、ほぼ中間の高さです。
 正面左手の美しい景観の山が飯野山、別名讃岐富士です。左手奥に、瀬戸大橋の白い橋脚が見えます。橋の左手(西側)が丸亀、右手(東側)が坂出です。その向こうは瀬戸内海です。


 【金刀比羅宮クイズ 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

大島建彦・薗田稔・圭室文雄・山本節編『日本の神仏の辞典』(大修館書店 2001年)

大崎定一著『こんぴら物語 4版』(金刀比羅宮社務所 1965年)

近藤喜博著『金毘羅信仰研究』(塙書房 1987年)


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