産業の発達・経済成長2
<解説編>
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601 製造業における「セル生産」とは何か?                             |  問題編へ |    

 この問題は、自動車産業とは直接関係はありませんが、上述の流れ作業と人間性の問題とは大いに関係があり、今後の生産現場の動向を占う重要な語句となると思います。
 
 正解、
「セル生産」とは、大量生産の代名詞となってきたベルト・コンベヤによる流れ作業生産とは対極的な生産方式です。コンベヤが一人あたり数秒から数十秒程度の短時間の単純作業を多数の作業者で分業するのに対し、セル(英語で「細胞」の意味)は少人数が一人あたり数分から数十分にも及ぶ複雑で高度な作業を分担し、それぞれが大きな責任を負うという生産方式です。
  ※『日本経済新聞』2001年12月20日朝刊「PEC産業教育センター所長山田日登志寄稿
    「中国と競う 日本の復活、現場から」より
 
 セル生産の究極の姿は、、一人セル、つまり、最初から最後まで一人の組み立てる方法です。一人セルの現場は作業員がそれぞれ独立した屋台のような作業台を使うため、「一人屋台生産」とも呼ばれています。

 この生産方式は、ソニー、キャノン、NEC等の工場で実現が進んでおり、これらの工場では、数年前からベルト・コンベヤが撤去されつつあります。

 では、このような生産方式は、なぜ、今の日本で採用が拡大しているのでしょうか。 
 単純に考えれば、100年前、フォードの工場から始まった生産方式をもとへ戻すことになると考えられます。

 基本的な背景のうちの最大の要因は、上記の問題にも書いた、中国の存在です。
 市場も労働力も巨大な中国に対抗するためには、過去に日本が得意としてきたベルトコンベアによる大量生産方式では無理であるということが大きな要因です。
 日本は、バブル経済の時期に製造業でも大きな失敗をしました。

  • 投資できる資本があったこととそれがコスト削減につながると信じ、製造ロボットの導入など、工場の自動化(FA、ファクトリーオートメーション)をむやみに進めた。

  • 同時に人件費の低い中国に相次いで生産拠点を移した。

  • 企業の新製品研究部門は製造部門から離れ、製品を手に取るより、コンピュータを使ったバーチャルな開発・研究に走った。

  • 結果として、企業全体の製造・再生産の能力は低下した。

 そして、時代は、かつてのような大量生産(少品種大量生産)の時代から、消費者の細かいニーズに対応した、多品種少量生産の時代になりました。ここで日本の労働者の優れた技術と生産意欲(モチベーション)を発揮する生産の方法として、また、日本の製造業が中国の前に為すすべを知らないという状況から復活できる秘策として、今、セル生産が注目されているのです。

 これを取り上げたのは、何も、経済の学習という意味だけではありません。
 ものにたとえて失礼ですが、今の生徒諸君を育てるにも、同じ発想が必要と思っています。

 2000年度、
総合学科の学校の進路指導部長をしていた時、企業の人事担当に自分の学校の姿勢をわかりやすく説明する表現として、「私の学校は、他校の大量生産方式とは違って、いわば、多品種少量生産で生徒を育てています。その分苦労もかかりますが、できあがりの付加価値の高さにも自信があります」と言い続けました。

 進路指導部長は、企業で言うと営業部長のようなものです。この発言は大いに理解を早めていただけたと思っています。
 この話は、また別の所で、書きたいと思います。  
 


602 1913年にフォードが労働者の日給を2倍に上げた理由は何か。?    |   問題編へ |   

 これは、前の問題と比べると、はるかに難しい問題です。
 授業中に出題した場合は、いろいろヒントを出さないと正解はでてきません。

 少し思慮のある生徒は、「自分の会社の車を労働者が購入して、さらに自動車が売れるようにする」という答えをだしてきますが、正解ではありません。

 ヒントとしては、「資本家はそう簡単には賃金は上げない。上げざるを得ない理由があったのだ。」「やむを得ず賃金を上げざるを得ない理由とは何だろう。」
 そして、変なヒントとしては、「チャップリンの映画を見たことはあるかい。その一つに描かれている。」(意外なことにチャップリンは英語の教材に取り上げられていてりして、生徒も少しは知っています。)

 正解は、
工場が機械化されればされるほど労働者の離職率が高まり、1913年には転職率は380%にもなってしまったため、労働者の定着化を図るための日給の倍額アップだったのです。380%ということは、1年に同じポストの労働者が3。8人交替すると言うことです。
 
 重要なのは、労働者が離職する原因です。
 その理由を、ハルバースタムの前掲書P124からP125より引用します。

  • フォード社の初期の労働者たちは、熟練した職人であり、働きながら設計図をいじくり回すような人たちだった。よくしられているように、フォード工場での仕事は遣り甲斐があった。なぜなら、ヘンリー・フォードは、テクノロジーの最先端にあり、いつも工場を改善しようと試みていたからである。質のいい仕事をしたいと考えている労働者たちは、フォードの仕事の一翼を担いたいと願っていた。だから当然、彼はデトロイトでも選り抜きの人たちを雇っていた。しかし製造工程の機械化によって作業場は変わった。機械化された新しい仕事はさほど熟練は要求されず、仕事で与えられる満足感も少なくなった。生産を最大限にしようとする圧力は、情け容赦ないものになった。自分の熟練した腕に誇りを持ち、機会とともに働くことを愛していた人たちは、突如、機械の奴隷になっており、熟練などお呼びでないことを悟ったのである。腹立たしいことに、機械の方が自分たちよりはるかに重要であることを、思い知らされたのだった。会社も、彼らのことよりも機械の方をよほど気遣っているようだった。工場が機械化されればされるほど、ますます労働者の工場離れが起きたのである。

 チャップリンが映画『モダンタイムス』を1936年につくり、工場で機械の奴隷となって働く人物を描く20年以上前、流れ作業が導入されると同時に、生産現場における「人間の創造性の発揮」と「生産の効率化」という相矛盾するものの対立が始まっていたのでした。
      
603 フォードモデルTの価格は初発売時の850ドルから10年後には何ドルになったか?    |  問題編へ |     

 フォードモデルT(T型フォード)は、1908年に発売されました。
 その価格の推移は、次の通りです。

 
1908年  850ドル
 1914年  440ドル
 1918年  290ドル

  ※『朝日新聞』2001年12月31日朝刊16面フォード社の全面広告「創立100年を迎えるフォードの新たな挑戦」より
 
 このクイズは、自動車産業またはベルトコンベアーによる大量生産、つまり、20世紀型の資本主義の幕開けという授業を展開する場合の、暴騰の導入の部分に使う予定のものです。
 何もヒントを出さないと、850ドルから上昇するという答えもでてくるかもしれません。どうしてそうなったかの理由を聞くと、これまた、授業の内容をうまく引き出せるかもしれません。

 どうして価格を当初の3分の1近くにできたのかを詳しく説明します。いつもながら、話はちょっと大回りします。
  ※以下の説明の多くは、デイビット・ハルバースタムの名著から勉強しました。
    デイビット・ハルバースタム著(高橋伯夫訳)『
覇者の驕り 自動車・男たちの産業史 上
     (1987年日本放送出版協会)の第1部・第2部

 20世紀初頭、自動車はいろいろな意味で、まだ人々が便利と思い満足して利用できる代物ではありませんでした。
  ※T型フォードの模型は、現物教材「自動車産業発達史解説セット」をご覧ください。

 まず高価でした。自動車工場の熟練労働者が平均日給2.5ドル(年収は、300日働いて700ドル)の時代に、その年収の2倍から3倍以上の価格のものが普通でした。
 もうひとつ、当時のほとんど舗装されていない悪い道では、自動車は、高速で走るもの故によほど頑丈でないと、故障ばかりしている代物でした。

 そういった自動車を世界にさきがけて大衆のものにした人物が、ヘンリー・フォードです
 
 彼は、困窮して大陸に渡ってきたアイルランド移民の夫婦の子として、1863年、南北戦争の最中に、ミシガン州の片田舎で生まれました。1879年に17歳でデトロイトにでたヘンリーは、機会の修理工として働き始めました。機械の修理で卓越した才能を発揮する一方、内燃機関や電気について独学で学び、1890年代後半には自動車の製造に挑戦するようになりました。
 当時デトロイトは、新興の工業都市であり、自動車を手がけようとする会社も年間数十社あり、競争は熾烈でした。彼は、1901年に行われた自動車レースに自ら製作の車で優勝し、デトロイトでの名声を高めます。

 1902年フォード社の基礎となる会社を設立し、自分の理想とする車の製造にかかりました。彼の理想とは、
 @ シンプルで耐久力があり、無用な飾りがない車
 A 農民が使え農民が買える車
でした。

 彼は、自分の車をできるだけシンプルな設計とし、このころちょうどイギリスで発明された強度の高いバナジウム鋼を車体のフレームの原料に加え、さらに、科学的産業管理の発想を製造工程に採り入れて、早く製造できて頑丈・安い車を目指しました。こうして、一応の成功作として、試作から20番目の車の本格的製造販売が始まりました。1908年のことです。この20番目の車が、T(Aから数えて20番目)型フォードです。

 フォードのアイデアのうち科学的産業管理の発想が、T型の価格を革命的に引き下げることになります。
 ヘンリーは、その道の第一人者であったフレデリック・テーラーの理論を実践化し、いわゆる「流れ作業」による生産を始めました。
 但し、1908年からいきなり組み立て工程を流れ作業としたわけではありません。
 まずはじめは、磁器コイルの生産が流れ作業化が図られました。
 それまで一人の熟練工すべてをつくっていたものを、29人の工程に分けて29人の労働者に分担させたのです。それによって、熟練工一人あたりの1日の生産数35個から40個は、未熟練工一人あたり54個から61個へと拡大しました。

 フォードは、この原理を他の工程、つまりモーターやトランスミッションの組み立てにも適用していきました。そして、1913年夏、最終の組み立て部門の工程も流れ作業に変えたのです。
 これが、世界で初めての自動車の組み立てラインの出現でした。つまり、T型フォードは長さ75メートルの工場の床を巻き上げ機でゆっくりと挽かれ、その間に、それぞれの場所で労働者が部品を取り付けるという製造方法が初めて実施されたのでした。

 これによって、それまで1台の自動車に製造に13時間を要していたものが、5時間50分に短縮されました。
 さらに、1914年には初めての自動ベルト・コンベヤが設置され、1台の車は、最速1時間30分で組み立てられることが可能となりました。この大量生産が価格を下げ、さらに新しい需要を拡大し、またさらなる大量生産と低価格を促しました。
 
 この間に、フォードの自動車産業におけるシェア(市場占有率)は次のように拡大しました。
  1908年  9.4%
  1911年 20.3%
  1913年 39.6%
  1914年 48.0%
 
 こうして、T型フォードは、大きなモデルチェンジをせずにひたすら大量に生産され、1927年の生産中止まで、19年間に1500万7033台の生産記録を残したのです。


604 日本人の□□□□の講義を聴かなくてすむ?                   |  問題編へ |     

 正解、フランス人とアメリカ人と日本人が、一人ずつアラブゲリラの捕虜となった。3人とも殺される前にひとつずつ最後の願いを叶えてもらえることになった。フランス人は、国歌『ラ・マルセイエーズ』を歌わせてくれと頼んだ。
 日本人は
品質管理について最後の講義をしたいと言った。
 アメリカ人の番になった。彼の願いはこうだった。
「日本人より先に殺してくれ、そうすれば、日本人の
品質管理の講義を聴かなくてすむ。」
  ※デイビット・ハルバースタム著(高橋伯夫訳)『覇者の驕り 自動車・男たちの産業史 上』
     (1987年日本放送出版協会)P51

 オイルショックが日本の自動車の急激な対米輸出をの増加につながった直接の理由は、アメリカの自動車メーカーが、ガソリン価格が上昇したにもかかわらず、それまでと同じような感覚で燃費を無視した高価な大型車を作り続けたのに対して、日本の自動車メーカーが、燃費のよい安価なそして品質のいい小型車を販売し、これがアメリカ人のニーズとマッチしたからです。

 ここで重要なのは、自動車をはじめとする日本企業が、1960年代以前の日本製品のイメージ、「安かろう悪かろう」とは違った「よい品質」というイメージを、アメリカ人に持たせることに成功している点です。

 また、クイズ出題上のポイントとしては、生徒諸君は、品質がいいこと、つまり、販売された製品中、欠陥品が極めて少ないこと、性能がいいこととの区別が付かない場合が多いので、説明の必要があります。特に、あまり、自動車にこだわると、性能などの方へ思考が向いてしまって、正解が出にくくなります。

 では、日本的経営と品質管理について、解説です。

 自動車・家電製品などの日本製品は、技術、性能の高さもさることながら、品質の良さによって、1970年代後半以降アメリカなど欧米の諸国から圧倒的な信頼を勝ち取りました。
 1979年ハーバード大学のヴォーゲル教授は、『Japan as Number One』を出版して、日本の成功を日本的経営の面から分析し、アメリカ企業への教訓・警告としました。
 ※
エズラ・ヴォーゲル著広中和歌子・木本彰子訳『ジャパン アズ ナンバーワン』(1979年TBSブリタニカ)

 彼や、その他の研究・分析によって、日本の企業の成功の秘密を次のように指摘されています。
 終身雇用制・年功型賃金体系・企業別労働組合の三つの特色あるシステムを持つ日本企業は、株主への利益配当至上主義の経営方針を持たず、むしろ経営者と社員の運命共同体として、利益を社内留保し、また、雇用の確保を優先する経営を行ってきました。
 これは、労働者に、会社に対する極めて強い忠誠心・帰属意識、労働への高い意欲を生じさせ、日本伝統の儒教的規範意識に支えられて、極めて効率のよい生産システムのもとで、性能のよい技術力のあるしかも品質の高い製品を生みだしました。

 具体的には、オイルショックによって企業の存在が危うくなり、減量経営、省エネルギー化を積極的に押し進める必要が生じた時は、日本企業の多くは、欧米企業のようなレイオフ(首切り)は実施しませんでしたし、また、従業員も、自主的に組織するQC(品質管理)サークルやTQC(全社的品質管理)活動に積極的に参加して、企業の立て直しを下から支え、さらに、組合も、賃金引き上げを自粛し、企業の業績の回復に貢献しました。

 とりわけ、品質管理は、欧米的な常識では、不良品を取り除くための膨大な検査人員を必要とし、その分にかかるコストがが増大し、時間を消費させ、結果的に生産性をむしろ引き下げるという危険を持つものでした。しかし、労働者の企業への帰属意識が高い日本では、品質管理は不良品をチェックするのではなく、設計から、生産・在庫管理・搬出まで、すべての面において全員参加で不良品を出さないという視点で進められ、QC運動等を通して、労働者の手によって実現されていったのです。

 本来、品質管理は、アメリカのデミング博士の指導を受けて、戦争直後の日本が企業を挙げて取り組んできたものでした。しかし、いつの間にか、本家本元のアメリカではデミング博士の名前は忘れ去られ、日本がその主役となってしましました。
 次の文章がその理由をうまく説明しています。

  • 1960年代に入ってトヨタの工場を訪れたヘンリー・フォード2世はQC活動が盛んなのに驚く。
     「すべてフォードさんに学んだのです」との説明に、彼は「フォードの提案箱は錆びついて使っていない』と答えたという。」
     フォードでは、工員が「アイデアの提供者にはそれによって利益を得た会社が相当の報酬を払うのは当然」として対価を要求したが、何万件にも及ぶ提案にいちいち報酬を出していたらコストダウン効果があっても減殺されてしまうため、QC制度をやめてしまった。これに対して、トヨタでは年間一万件近い提案があるが、よほどコストダウン効果がない限り、褒賞金は払わない。対価を要求しない従業員気質が日本のQCを支えている。
     日本経済新聞社編『ゼミナール 現代企業入門』(1990年日本液剤新聞社)P99


605 本田宗一郎の失敗とは何か?                             |  問題編へ |

 日本の自動車産業の話をする場合、トヨタよりも日産よりも、ホンダに熱い視線を送ってしまうのは、私だけでしょうか。
 
 本田宗一郎は、自らの技術とエネルギーで、一代にしてホンダ、つまり、本田技研工業をつくりあげた立志伝中の人物です。彼の手には、自らハンマーを握って仕事をした時代にできたキズが15カ所あったそうです。これは、若い日に彼がいかに勤勉な「鍛冶屋」であったかの証明です。
 城山三郎氏は、本田宗一郎との対談の様子を次のように書いています。

  • 「ほら、左は削れてしまって」
     両手を合わせてくれた。カッターで削ったり、ハンマーで叩きつぶしたりして、日本の指が、右手のそれより5ミリから1センチ短くなっていた。
     どの傷に対しても、ほとんど傷口を吸うだけ。ひどいときにはオキシフルをかけたが、次の日はそのまま仕事していた、という。
     意地が人一倍なのか。生命力が強いのか。そのまま無形文化財にでもしておきたい手である。
     城山三郎著『人間紀行 本田宗一郎との100時間』(1984年講談社)P36

 彼は、他の立志伝中の人物は往々にしてそうですが、小学校時代は腕白で、おとなしく地道に勉強するといった子どもではありませんでした。当然ながら、成績は悪くなります。
 第二次世界大戦前のことですから、小学校の成績表は、甲・乙・丙・丁・戊の5段階で記述されており、戊は落第でした。本田は、さすがに戊は取りませんでしたが、多くの科目は、丁(5段階で2)でした。これでは母親には見せることはできません。そのため、問題にあるように、ハンコを自作して自分で押印して提出したのです。

 その技術を悪友に信頼されて、その分まで作ってやったわけですが、担任には簡単にバレてしまいました。
 これは簡単ですね。
正解は、友達の分は、ハンコの印面が全部左右反対だったのです。そうです、本田は、左右対称で普通にハンコを彫っても何ら問題がなかったため、彼は、ハンコは文字を左右逆に彫らなければならないことに、気が付かなかったのです。(城山前掲書P134
 
 このクイズはほんの座興です。
 
 自動車産業史の中で、本田宗一郎やホンダの話は、やはり特別な思いこめてしてみたいと思います。他の所で説明していますが、私自身は、自動車あこがれ派ではなく、鉄道心酔派です。そんな私でも、大学生の時初めて買った車は、ホンダN360でした。

 ホンダの魅力は、車のコンセプト、会社の姿勢、そして、それを作った本田宗一郎の人柄と人生そのものでしょう。
 特に、2輪車時代からの無謀とも思えるレースへの挑戦は、本田の夢でありホンダの技術とエネルギーの源だったでしょう。
 また、これだけの会社を、本田は、決して自分の子どもや一族に継承させようとは考えませんでした。これたったひとつ取っただけでも、この人物を語るだけの価値はあるというものでしょう。

 もう一つエピソードを紹介します。
 浜松で成功した彼は、少々財をなします。
 ある時彼は、 自分でモーター・ボートを作って浜名湖で友人を乗せて遊びました。ところが、調子に乗りすぎて途中でガス欠になってしまいました。彼はどうしたと思います?
 なんと、「ちょっと待ってろよ」と友人に言い残すと、岸まで泳いで渡ってしまいました。さらに、店で一升瓶を借りるとそれを持ってガソリンスタンドへ行き、一升瓶にガソリンを詰めてもらいます。それをそのまま自分で持って泳いでボートに戻ってきて、ボートを動かしたというのです。まさに、すごい人物です。(城山前掲書P115)

 ホンダと本田宗一郎については、F1レース・CVCCエンジンなどの項目でまた詳しく説明します。
 ここでは、とりあえず彼の年譜を掲げます。

  • 1906(明治39)年静岡県磐田郡光明村(現在の天竜市)で鍛冶屋の長男として出生

  • 1922(大正11)年東京の自動車修理会社、アート商会へ就職

  • 1928(昭和03)年21歳で独立、浜松アート商会を設立(ダイナモの巻き替えで繁盛する)

  • 1936(昭和11)年全日本自動車競争大会にフォードを改造した車で出場(コースアウトして重傷)

  • 1946(昭和21)年本田技術研究所を浜松に創立(ホンダの前身)

  • 1948(昭和23)年本田技研工業株式会社設立

  • 1949(昭和24)年本格的オートバイドリーム号(98cc2サイクル)発売

  • 1954(昭和29)年イギリス・マン島ツーリング・トロフィーレース(T・Tレース)に出場宣言

  • 1959(昭和34)年マン島T・Tレース初出場

  • 1961(昭和31)年マン島T・Tレース、125cc・250ccの両クラスで、1位〜5位を独占

  • 1964(昭和39)年ホンダ、F1レース初挑戦

  • 1967(昭和42)年初の軽乗用車N360発売(前輪駆動方式による広い車内空間を実現)

  • 1968(昭和43)年この年を最後に、F1レースから撤退、5年間35レースで優勝2回に終わる

  • 1972(昭和47)年ホンダ、CVCCエンジン開発、初めてマスキー法をクリア

  • 1973(昭和48)年本田宗一郎、67歳で社長を退任、CVCCエンジンを積んだCIVIC1500発売

  • 1983(昭和48)年ホンダ、F1グランプリに再挑戦

  • 1986(昭和51)年ウィリアムズ・ホンダ、初めてF1コンストラクターズ(製造者)チャンピオンとなる

  • 1987(昭和52)年ウィリアムズ・ホンダのドライバー、ナイジェル・マンセル、F1チャンピオンとなる、ホンダ、コンストラクターズとドライバーズの両チャンピオンとなる

  • 1991(平成02)年8月5日本田宗一郎永眠(84歳)。この年を最後に、ホンダ、F1から撤退

    • ここまで、Hondaエンジンを搭載したマシンは6年連続のコンストラクターズタイトル、5年連続のドライバーズタイトルを獲得、通算203戦のGPに参戦し、71勝、74回のポールポジションという記録を残す

  • 2000(平成12)年ホンダ、BAR(ブリティッシュ・アメリカン・レーシング)にエンジンを供給し、F1へ3度目の参戦

  • 2001(平成13)年ホンダ、2年間未勝利

  ※詳細は、ホンダF1の公式ホームページへ
  ※1986年から1991年のF1マシンの模型は、現物教材「自動車産業発達史解説セット2」


606 20世紀の優秀技術車に唯一選ばれた日本車何か?                   |  問題編へ |

 正解は、ホンダ・シビックCVCCです。アメリカの巨大自動車メーカービッグ3が達成不可能とされていたアメリカの改正大気汚染清浄法(提案した議員の名を取って別名マスキー法)を世界で初めてクリアーした車です。
 
 1960年代に入ると、モータリゼーション全盛のアメリカで、排出ガスの規制の動きが具体化します。その結果、1970年には上院議員マスキーの提案によって、自動車の排気ガスのHC,CO,NOxの排出量を5年間で90%以上削減することを目標とする大気浄化法改正案が成立しました。これがいわゆる、マスキー法です。

 アメリカでは、GM・フォード・クライスラーの3大自動車メーカーがこぞって実施の延期を要求。日本では、この法律を基準にした排気ガス規制を1973年から3段階に分けて実施することとなり、日本の自動車メーカーに新エンジン開発の拍車がかかりました。

 当時、ホンダは、1968年の初の4輪車N360の大成功の後、1971年には、そのN360が欠陥車の指摘を受けて売り上げ台数が前年の5分の1に落ちてしまうという大ピンチの状況でした

 ※城山三郎著『人間紀行 本田宗一郎との100時間』(1984年講談社)P228
 
 他社より早く1966年から大気汚染研究室(Air pollution 研究室)、通称AP研を設置して、「いかに排気ガスをださないか」に取り組んできたホンダは、会社の生き残りをかけて、「低公害車」の開発をAP研に命じました。
 

 そのプロジェクトのリーダーとなったのは、のちに本田技研の3代目社長となる久米是志です。彼は語っています。「やっぱり、これは会社のためだけではできない。社会のために自分たちはやってるんだって、皆で言い合って・・・」
 ※NHKプロジェクトX制作班今井彰著
  
 『プロジェクトX リーダーたちの言葉』(2001年8月文藝春秋)P30

 1972年3月、AP研は、低公害エンジンの年内の完成を目指して、開発を突貫作業で進めました。400人ものメンバーが、都合100台以上のエンジンを試作して、完成品を目指したのです。

 この時開発が進められたCVCCエンジンとは、普通のエンジンの燃焼室(右の絵のB)の上に、小さな副燃焼室(右の絵のA)を持ったものでした。低公害を実現する方法のひとつは、燃料のガソリンをできるだけ薄くすることです。ところが、ガソリンを薄くすればするほど、当然ながらプラグの火花がでても発火しない状態となり、エンストとなってしまいます。

 この矛盾を解決するのが、副燃焼室です。まずこの副燃焼室に普通の濃さのガソリンを少量送り込んで普通の爆発を起こさせ、その火焔を主燃焼室に送り込んで、薄いガソリンに点火しようという原理でした。
 
 苦労の結果、1972年の晩秋にCVCCエンジンは完成します。そしてこの年の暮れ、ミシガン州の環境保護庁の試験場で、シビックCVCCが見事テストに合格するのです。世界で初めてマスキー法をクリアーした車の誕生でした。
 驚いたフォードとクライスラーは、相次いでホンダに技術供与を申し込んだのでした。

 1973年、本田宗一郎は本田技研の社長を退きます。その挨拶でこう語りました。
「CVCC開発に際して、私はビッグと並ぶ絶好のチャンスだといった。その時、若い人たちから、自分たちは会社のためにやっているのではない、社会のためにやっているだ、と反発された。いつのまにか、私の発想は、企業本位に立ったものになってしまっている。若いということは、何と素晴らしいことか。皆がどんどん育ってきている」
 ※
『プロジェクトX リーダーたちの言葉』(2001年8月文藝春秋)P331
 本田宗一郎は、技術者としても、経営者としても、その感覚は卓越していました。

 このシビック自体は1972年に登場していましたが、CVCCエンジンを搭載したことで、画期的低公害車としての地位を確立しました。このCVCCエンジンの効用については、有吉佐和子著『複合汚染』の中でも詳しく紹介されて名声を高めたました。アメリカ環境保護庁の燃費テストでは、CVCCエンジンは1974年から4年連続で第1位を獲得しており、シビックCVCCは、3年連続日本カーオブザイヤー(1972-74)、73年のヨーロッパ・カー・オブ・ザイヤー3位(国産車初)などを受賞しています。

 また、おりしも1973年はオイルショックの年となり、石油価格がそれまでの4倍に上昇した結果、アメリカ国民の高級車嗜好が一転して、ガソリンの消費効率(燃費)のよい小型乗用車購入へと転換します。CVCCエンジンは、もともとガソリンを薄くして燃焼させる工夫の結果生まれたエンジンですから、燃費は抜群です。こうして、ホンダシビックおよびアコードは、1970年代後半以降、特に北米自動車市場でめざましい売れ行きを示すことになります。
 
 ※実物教材「自動車産業発達史説明セット2」
 ※写真など詳細は、本田技研工業のサイトのCVCCエンジンのページへ
 


607 フォード社を動かした経理畑の人々の呼称は?                |  問題編へ |

 リー・アイアコッカは、フォード社長を解任されたあと、1978年11月にはライバルの自動車会社クライスラー社に入社し、瀕死の状態にあった同社を立て直し、一躍勇名を馳せます。その彼が、1985年に出版した本に、フォード時代の話が出てきます。
  ※リー・アイアコッカ著徳岡孝夫訳『アイアコッカ わが闘魂の経営』(ダイヤモンド社1985年)P59

 正解は、「豆を数える人(bean counter)」です。

 
 さて、フォード社の失敗の話を語ります。
 長くなりますが、「教育を考える 16 民間人校長その2 数値目標」
に重大にかかわる話なので、とことんやります。
 
 話は、「フォードT型」で大成功を収めたヘンリー・フォード初代フォード社社主の後半生から始めます。
  ※フォードT型については、このページの「フォードモデルTの価格」のクイズへ
 
 フォードT型は売れに売れ、ヘンリー・フォードが1920年代半ばにデトロイトに作ったルージュ工場は、1100エーカー(445ヘクタール)の敷地に93の工場・建物群が立ち並び、ベルトコンベアーの総延長は43.2キロメートルにもなり、輸送用になんと149キロメートルに及ぶ鉄道線路がしかれていました。
 ※デイビッド・ハルバースタム著高橋伯夫訳『覇者の驕り 自動車・男たちの産業史 上』(1987年日本放送出版協会)P119

 ところが、1920年代後半から、フォードT型の売れ行きが減少を始めます。アメリカ市民の所得の向上と車文化の進化は、ただ安くて武骨なT型ではなく、もっと付加価値のあるもへと、その嗜好を変えつつありました。
 GMのシボレーは、ショック・アブソーバ、標準的な変速機、燃料計、速度計などT型には取り付けられていないものを標準装備し、売り上げを伸ばしていきました。
 
 フォードは、1927年、それらの新技術を装備したA型フォードを発表し、一時的な成功をおさめます。しかし、ヘンリー・フォードの新しい技術への無理解は、これ以後もフォードの進歩を妨げました。
 
 彼の息子(後継者)、エドセル・フォードは、シボレーが次々と送り出す、カラフルな車体カラー、サーモスタット、改良ブレーキ等の投入を父ヘンリーに進言しましたが、ヘンリーは、それらを「くだらない付属品と小物」をさげすみ、市民のより豊かな車へのニーズを読み誤り続けました。
 エドセル・フォードは、フォード社の神ともいうべき父ヘンリーとの葛藤に疲れ、1943年失意のうちに49歳の若さで父より早く世を去ります。

 第二次世界大戦が終了した1945年の9月、エドセルの子、初代社主の孫、へンりー・フォード2世が、28歳で会社を引き継ぎます。(初代ヘンリー・フォードは、1947年に死去)
 その時のフォード社は瀕死の状態にあり、経理は杜撰で、「毎日100万ドルの赤字を出す」と誇張していわれるほどの状態でした。

 ヘンリー・フォード2世が取った会社救済の策のひとつは、のちに社内で「神童たち」と呼ばれた一群の若者の採用でした。
 彼らのリーダーはチャールズ・ベーツ・ソーントン。
 彼は、戦前の陸軍航空部隊に採用されたあと、全米のビジネススクールの最優秀の人材を集め、数値と統計を駆使して、むだのない合理的な管理システムを作ることを実践して来た人物です。

 たとえば、1945年5月、ドイツの降伏によってヨーロッパで戦争が終わった時、連合軍基地にはドイツの都市や工場を爆撃して戦果を挙げた数百機のB17爆撃機が残っていました。軍の首脳は、この爆撃機を、まだ戦いの続いている太平洋戦線において利用することを考えますが、ソーントングループの結論は違いました。
 移動コスト、移動の時の損耗、移動してからの利用価値、などを計算し、B17はこのままヨーロッパに残し、太平洋戦線では、今国内で生産が続いているB29を増産して配備をする方が、合理的であると進言しました。

 陸軍首脳は仰天しました。これでは、ヨーロッパ戦線で手柄を立てた愛機B17を、飛行場で野垂れ死(スクラップ)にさせることになるからです。それでも、その進言は実行されたのです。当時の日本では考えようもない合理性でした。

 軍隊の組織の中で成功をおさめた彼らは、戦争終結にともない次の働き場所を探しました。彼らの思いと、ヘンリー・フォード2世との願いが一致し、彼らは集団でフォード社に採用されます。
 ソーントン自身は、すぐにフォード社をやめますが、そのグループは、1950年代にかけて、フォード社で揺るぎない地位を築いていきます。
 その代表者が、ローバート・マクナマラです。1960年に社長になる彼は、その座にいたこと自体は短く、すぐに政治家に転身します。年輩の方には記憶があると思いますが、ケネディ大統領、後継者ジョンソン大統領の民主党政権の国防長官を務めた、あのマクナマラです。

  アイアコッカ自身は、次のようにマクナマラを評しています。
「ビジネスの世界では、経理をやかましく言う連中のことを軽蔑して「
bean counter」と呼ぶ。マクナマラは、真の意味の「豆を数える人」で、その長所と短所を十二分に備えていた。豆をマスで計らず粒で数える連中の長所は(マクナマラがまさにそうだったが)、会社の状態をゼニ勘定でスパッと分析してくれることである。彼らの頭脳は、コンピュータのない時代のコンピュータだった。」(アイアコッカ、前掲書P59)

 マクナマラは、政治性も卓越していて、数字に対する強さで社内で揺るぎない権力を作り上げていきます。結果的に、「彼とその仲間はアメリカで最悪の経営をしていた大企業を建て直したのである。神童たちが来る以前は、浪費や会社を食い物にすることが、フォードでは日常的だった。マクナマラはこれを一掃し、浄化したのだ。」(ハルバースタム前掲書P295)

 ところが、やがて、神童たちは、会社にとってマイナスの存在になっていきます。
 彼らの最大の欠点は、車づくりについては何も知らないこと、つまり、車の製造に関しては、理屈も、技術も、製造業者としての夢もロマンも、何も持っておらず、ただ、数字、言い換えれば財務上の利益だけを追求する存在だったことです。
 このため、新しい技術の開発という冒険を、膨大な資金を投じて追求する製造部門・技術畑の要求は、おおむね斥けられました。フォード社は、技術者と労働者の誇りを押さえ込み、数字で利益を追求する会社へと転じてしまったのです。

 財務部門の数字の要求に屈服した工場は、今度は、自分たちの失策が表面化しないように、「自衛の手段」を図り始めます。
「またモデルチェンジが近いのにまだ多くの旧モデルの部品が余りすぎている時、デトロイト(の本社)がjこれを嫌がったので、毎年(ペンシルバニア州チェスターの)工場は本社に、ある部品はたったの61個、別の部品はたった48個しか残っていないと、いかにももっといもらしい報告していた。そして、『すべてはお望みどおり効率的に進んでいます』と本社に報告する一方で、何千という役に立たなくなった部品を、近くのデラウエア川に捨てていた。デトロイトはいかに無駄がなく、数字がぴったり合っているかに満足し、チェスターでは『デラウエア川は泳いで渡る必要はない。1950年と51年型のフォードの錆びた部品の上を渡り歩けばよい』という冗談が交わされていた。」(ハルバースタム前掲書P310)
 
 フォードは、1964年にアイアコッカが売り出したムスタングによって、一時の回復を見せますが、また長く、低迷衰退期に入ります。
 1982年の時点で、フォード社はこう酷評されました。
「ヘンリーフォード2世が28歳の社長の座に着いたのは、会社を救うためだった(中略)。当時、フォード社は毎日100万ドルずつ赤字を出していた。ヘンリーフォード2世は会社を救った。そして37年後のいま、会社は毎日300万ドルずつ失っている」(ハルバースタム前掲書P58)

 「bean counter」の行きすぎた数字への信仰は、会社から、物作りの情熱も夢も奪ってしまったのです。


608 クロヨンの建設工事の時の殉職者は何人ですか?                 |  問題編へ |

 黒部川第4ダムと発電所の建設に関して、関西電力のホームページには、次のように記されています。

  • 「世紀の大事業」といわれた黒部川第四発電所、通称「くろよん」の工事は昭和31年7月、着工されました。電力を急激に必要とした昭和30年代、発足したばかりの関西電力は社運をかけてこの難工事に挑みました。厳しい自然条件の中、最新の技術を駆使して工事はすすめられ昭和38年6月、7年間の歳月をかけてようやく完成したのです。

 正解、この工事の犠牲者は、171人にも上りました。詳しくは、旅行記・海外事情「立山黒部アルペンルート」をご覧ください。

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