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各地の鉄道あれこれ09
 全国各地の鉄道の話題あれこれについて紹介します。

 地下鉄、地上に出る その1 渋谷(続)08/11/30 11/06/20改訂 

 銀座線渋谷駅の続きです。
  ※銀座線渋谷駅が東急東横百貨店の3階部分にできた点について、記述を改訂しました。10/12/07↓
  ※2011年6月の取材の結果、複数の写真の追加を行いました。↓


 現在の地形を細かく分析すると

 まずは、現在の地形を地図で詳しく確認します。
 渋谷駅には、多数の鉄道路線が集まっています。
 
JR各線(山手線、埼京線、湘南新宿ライン)、東急東横線東急田園都市線京王井の頭線地下鉄銀座線地下鉄半蔵門線です。
 一時は、地下鉄銀座線を東急との乗り入れによって西方へ延長する計画がありました。しかし、銀座線の混雑緩和線として建設された
半蔵門線が宮益坂を下り渋谷川をくぐって東急田園都市線と接続した結果、銀座線の方は、渋谷終点の現在の形が維持されました。
 前ページで見た、渋谷の谷底の渋谷駅を周りの台地が取り囲むという地理的構造は、現代も変わりません。 

| 地図08 地下鉄銀座線の路線と標高へ | | 地図09 渋谷の地形 明治へ | | 地図10 渋谷の地形 現代へ |

 ※地図をクリックしてください。各地点に標高が現れます。


 標高数値を見れば、現在に於いても、渋谷の谷の形状がお分かりいただけると思います。
 では次に、念のために断面図を掲載します。 

 銀座線開通時(1938年)の技術では、1978年開通の半蔵門線のように、渋谷の谷底深くを掘り進んでいくのは現実的ではなかったと思われます。ただし、百貨店の3階部分に入ったため、通常の高架よりは高いところに駅を作ることになりました。この地表から12mという高さは、地下鉄の駅中で最も高い駅となっています。(通常の高架駅は高さ7〜10m程)


 かくて、今でも次のような景観を見ることができます。
 写真09−01  トンネルを出る銀座線電車          (撮影日 08/10/25)
 宮益坂横のトンネルを出て東急百貨店へ向かう銀座線電車。下の道は渋谷駅東口の東側を南北に通る明治通りです。 

 写真09−02  トンネルを出る電車と入る電車          (撮影日 08/10/25)

 上の写真のアップです。渋谷行きの電車がちょうどトンネルを出るところ。また、浅草行きの電車がちょうどすっぽりトンネルに入り、その尾灯が見えています。
 さて、この写真はどこから撮影したのでしょうか。
 実は、東急東横百貨店の屋上(8階)にあるちびっ子プレイランドから撮影したものです。東京の百貨店は今でも屋上にこういう子どもが遊ぶ場所があるのでしょうか?
 岐阜にも昔はいくつも百貨店があり、それぞれに屋上の「遊び場」がありました。今では百貨店自体が1店になってしまい、その屋上にはあがれません。(--;)

 写真09−03 7階の階段です(撮影日 08/10/25)

 写真09−04 プレイランドです(撮影日 08/10/25)


 2011年新取材による追加情報 11/06/20改訂

 2011年6月16日に東京出張に出かけ、昼休みに久しぶりに渋谷に行ってきました。再取材に出かけたきっかけは、先月、このページを見た東京の一読者から、「渋谷の地下鉄出口の様子も随分変わりつつあります。」というメールをいただいたからです。


 追加写真09−11 地下鉄銀座線、明治通り上の高架部分           (撮影日 11/06/16)

 銀座線渋谷駅を出たばかりの地下鉄の先頭車両の窓から、これから入る地下部分を撮影しています。


 追加写真09−12・13 地下から出てきた渋谷駅行き電車  (撮影日 11/06/16)

 上の写真の次のシーンで銀座線渋谷駅行き電車が地下から出てきたところです。
 ここで、写真09−02(↑)と比較すると、写真右手のあたりが随分違っていることに気がつきます。何か緑のシートが見え、大きなものが建造中のようです。
 これを確かめるには、また、東急デパートの8階に上がってみなければなりません。


 追加写真09−14 地下鉄トンネル出口の巨大な建物           (撮影日 11/06/16)

 東急百貨店屋上の遊園地は、今も健在でした。この場所がないと、上の写真のレポートはできなくなります。貴重な場所です。東急東横百貨店には、いつまでもここを維持していたいただきたく思います。

 さて、屋上の撮影ポイントに行くと、そこからは、トンネル出口横(南側)に、写真に収まりきらない巨大な建物が存在していました。建築中のため、主要部分は緑色のシートにおおわれています。
 この場所には、1956年会館の東急文化会館があり、映画館・プラネタリウム・結婚式場その他を備えた複合施設として有名だったそうですが、老朽化にともない2003年には完全閉鎖され、その後解体されていました。それが写真09−01(↑)の線路右手の部分です。
 
 ではこの新しい建築中の巨大ビルは何かというと、将来の渋谷の街のシンボルタワーとして期待される、高さ182.5m地上34階地下4階の超高層複合ビルです。つい最近このビルの名称が、「
渋谷ヒカリエ」と決定されたという発表がありました。
 ※以下の内容は、「渋谷経済新聞」のHP、2011年6月19日から。http://www.shibukei.com/headline/6829/

 渋谷ヒカリエ」とはまたどういう意味の外国語かというと、実は日本語でした。  
 この名称は、東京急行電鉄と東急文化会館跡地の隣接街区の権利者で組織する「渋谷新文化街区プロジェクト推進協議会」が決定したもので、名称には「
渋谷から未来を照らし、世の中を変える光になるという意志を込めた」とのことです。つまり、「光へ」から生まれた日本語の名称ということです。
 この中の中核となる商業施設は、東急電鉄のミュージカル劇場で、その名称は「東急シアターオーブ」と決定されました。この劇場は、渋谷ヒカリエの11階〜16階部分に建設され、2000席の大劇場となるそうです。
 17階以上は、オフィスフロアーです。
 個人的には、34階に展望フロアーを期待したいところです。(^_^)

 ※追加写真はあと2枚あります。追加写真09−12・13(↓)です。


 なぜ百貨店の中に駅ができたのか、渋谷駅の開発の問題

 現在は銀座線を経営する東京メトロと東急東横百貨店はまったく別のものです。
 しかし、創業当時は、以下に示すような、両者の経緯がありました。 

1885(明治18)年

 日本鉄道会社品川線開通。(現在のJR山手線)

1907年

 玉川電気鉄道線、渋谷駅進出。(玉川−渋谷間)

1917(大正6)年

 のち日本の地下鉄の父とよばれた早川徳次(のりつぐ)が経営する東京軽便地下鉄道(のち1920年、東京地下鉄道と社名変更)が、鉄道院に対して、浅草−高輪(品川)間の地下鉄免許を申請。

1920年

 東京軽便地下鉄道、鉄道院から地下鉄建設の免許を得る。
 他に3社が別路線で免許を得るも、資金不足のため着工できず、1924年失効。

1923(大正12)年

 3月、専務五島慶太が率いる目黒蒲田電鉄(のちの東急)、目黒−丸子間の営業を開始。
 11月、同丸子−蒲田間開業。目黒−蒲田間全13.2km開通。

1924年

 目黒蒲田鉄道、武藏電気鉄道を傘下におさめる。武蔵野電気鉄道、東京横浜電鉄と社名変更。

1926年

 東京横浜電鉄、東横線の神奈川−丸子多摩川間を開業。

1927(昭和2)年

 東京横浜電鉄、渋谷進出。渋谷−神奈川間直通運転開始。
 
東京地下鉄道浅草−上野間2.2kmに日本最初の地下鉄を開業。 

1934年

 6月、東京地下鉄道、路線を新橋まで延長。(浅草−新橋、8km)
 9月、五島慶太東京高速鉄道を設立。
10月、目黒蒲田電鉄が池上電気鉄道を併合。
11月、渋谷駅東に
東急東横百貨店開業。(地下1階、地上7階)

1936年

 玉川電気鉄道、東京横浜電鉄の傘下に入る。

1937年  山手線渋谷駅西側に4階建ての玉電ビル建設開始。玉電ビルの建設にともない、それまで平面にあった玉電渋谷駅は玉電ビル2階に移り、玉電と東京市電との連絡線を撤去、市電乗入れは中止。

1938年

 東京横浜電鉄、玉川電気鉄道を合併。
 東京高速鉄道、地下鉄
渋谷−虎の門間を開業。東急東横百貨店の横及び玉電ビル(渋谷駅西側)3階地下鉄渋谷駅開業。玉電渋谷駅は、玉電ビル2階となる。

1939年

 東京高速鉄道、地下鉄虎の門−新橋間開通。渋谷−新橋間全線.3km開通。
 東京高速鉄道五島慶太、京浜電気鉄道株を買い占め、同社を傘下に。京浜電気鉄道と提携して品川方面への地下鉄路線延長を企図した早川徳治東京地下鉄道の計画は挫折。
 東京地下鉄道側が承諾し、渋谷−浅草間直通運転開始。
 東京横浜電鉄
目黒蒲田電鉄が合併。新東京横浜電鉄となる。

1940年

 東京高速鉄道東京地下鉄道の最大株主に。早川徳治東京地下鉄道を辞職。

1941年

 帝都高速度交通営団法成立。東京高速鉄道と東京地下鉄道の2路線は、帝都高速度交通営団の経営となる。

1942年

 東京横浜電鉄が京浜電気鉄道・小田急電鉄を合併。東京急行電鉄に社名変更。

1945年

 5月25日のアメリカ軍の山手方面大空襲により、渋谷一帯は焼け野が原に。東横百貨店も内部は炎上。しかし、銀座線渋谷駅は車庫の建て屋の焼失と停留してあった5両の故障車両のみが被害を受けたにとどまった。
 被害が少なくてすんだのは、この時期は、空襲に備えて車庫には故障車両のみを停留させ、使用していた車両は地下部分に停留させていたため、車庫が焼失しても大きな被害とならなかったのであった。

1951年

 山手線渋谷駅東側に東横百貨店復興される。まもなく百貨店屋上と駅西の玉電ビルとの間に遊技物としてロープウエイが開通。

1954年

 旧玉電ビルのあった山手線渋谷駅西側に、新しい東急の百貨店、東急会館完成。(その11階建てビルは当時としては日本一の高さ)  


 大正後半期から、昭和前半期の東京の私鉄や地下鉄を巡る経営上の争いは熾烈でした。
 その中で、勝者となった一人は、戦後も東急電鉄の会長として君臨した
五島慶太氏です。彼は、目黒蒲田電鉄東京横浜電鉄の路線を敷設し、また玉川電気鉄道池上電気鉄道などを併合して、東京南西郊外の鉄道の覇権を握っていきます。
 その彼のもう一つの野望が東京の地下鉄道の支配でした。ここにおいても
五島慶太は、早川徳治東京地下鉄道との覇権争いに勝利し、渋谷−浅草の路線を牛耳ります。
 また、彼の鉄道事業構想の中には、
渋谷における百貨店経営やそれを核とする自社による渋谷のターミナル化も含まれていました。
 私鉄のターミナル駅に自社の百貨店を作り集客するという手法を最初に実現したのは、大阪の箕面有馬電気鉄道(現在の阪急電鉄)の創始者、小林一三です。彼は、1929年に大阪梅田に阪急デパートを作りました。
 小林を師と仰ぐ
五島慶太は、彼に倣い、東横線の終点渋谷に東横デパートをつくりました。
 こういう経緯から、五島慶太が主導権を握っていた
東京高速鉄道の渋谷駅が、渋谷の地理的な条件とあいまって、東横百貨店の3階に入り込むという、他には例のない形となったのでした。  

  ※上記の年表及び説明文は、前ページの参考文献一覧の、1・2・3・4・6を参考にしました。


 渋谷駅 その他の話題

 このページの本編は以上で終わりです。
 次の
3ページ目渋谷駅(続々)では、
 以下は、渋谷駅周辺で撮影したその他の写真です。オマケです。

 銀座線渋谷駅の西側には、同じくビル3階の高さで、銀座線車両の車庫があります。東急東横百貨店の西側にある
渋谷マークシティの3階部分です。 


 追加写真09−12 渋谷駅西口           (撮影日 11/06/16)

 東急東横百貨店内の渋谷駅と、その西の電車庫は高架で結ばれています。西側には、渋谷マークシティおよび東急エクセルホテルが建っていて、銀座線の車両は見えません。写真中央を銀座線が通っています。手すりのように見えるのは車両の窓です。後にそびえるのは東急エクセルホテルです。


 追加写真09−13 渋谷駅西口です            (撮影日 11/06/16)

 右:東急東横百貨店と左:渋谷マークシティを結ぶ高架部分を地下鉄銀座線車両が渡ります。

 写真09−05  銀座線渋谷駅西側車庫                      (撮影日 08/10/25)

 追加写真09−12・13の写真を電車サイドから見たのがこの写真です。
 渋谷駅の出発ホームに停車中の浅草行き電車の最後尾車両からの撮影です。駅の西側には、銀座線の車庫があります。ホームの西側から先の部分にまだ線路が続いています。左側の電車は、渋谷駅に到着してこれから車庫に向かおうとしている回送電車です。
 上の写真の電車の先の屋根がない部分は、東急東横百貨店の西のバスターミナル部分です。その先の建物は、渋谷マークシティです。その建物の中に、電車の車庫があります。というよりは、
始めから車庫があった場所に渋谷マークシティが建設されました


 下の航空写真は、1989(平成元)年のものです。
 渋谷マークシティは、2000(平成12)年にオープンしましたので、この写真の時はまだできていません。今は渋谷マークシティの中に入っている銀座線車庫や
京王電鉄井の頭線渋谷駅がはっきり見えます。

上の地図の元写真は、国土交通省の国土情報ウェブマッピングシステムのカラー空中写真閲覧から引用しました。こちらです。→国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)


 写真09−06         (撮影日 08/10/25)

 写真09−07         (撮影日 08/10/25)

 上の写真09−05の回送電車が渡り線を通って出発線側に移動していきます。私が乗車して撮影している電車が出発した後、この電車が出発線にやって来ます。銀座線は、昼間でも3分起きに出発します。

 写真09−08  銀座線渋谷駅西側車庫その4                     (撮影日 08/10/25)

 上の航空写真から想像すると、この奥かなり遠くまで、車庫や検査場が続いているようです。


 おまけその2 郊外電車地下に潜る

 おまけその2です。
 この写真は、
京王電鉄井の頭線の神泉駅です。
 京王井の頭線は、渋谷駅の西側の丘陵を越えるため、渋谷駅を出るとすぐに地下に潜ります。そして、道玄坂をくぐって神泉駅の東の踏切でほんの少し地上に出て、またすぐに地下に潜り、渋谷から700m程西の目黒川の渓谷でやっと地表にでます。この路線は、地下鉄銀座線とは反対で、「
郊外電車、地下に潜る、渋谷編」です。

 写真09−09  京王電鉄井の頭線神泉駅                      (撮影日 02/06/21)  

 写真09−10  京王電鉄井の頭線神泉駅その2                    (撮影日 08/12/11)  

 下の写真は、京王井の頭線渋谷駅と再びトンネルをでて目黒川の渓谷に入って駒場東大駅に向かう部分までの写真です。神泉駅はどこでしょうか?ほとんど解答不能な難問です。(元写真は、1974(昭和49)年の航空写真です。) 

 ※写真をクリックしてください。京王井の頭線神泉駅の場所が示されます。

上の写真は、国土交通省の国土情報ウェブマッピングシステムのカラー空中写真閲覧から引用しました。こちらです。→国土交通省ウェブマッピングシステム http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/)


 これで、「地下鉄地上に出る その1 銀座線渋谷」の本編は終わります。次のページは、銀座線開業時の東急百貨店の状況について、続編を書きます。


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