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街道を歩く12
 江戸時代の街道を歩いてみました。由緒ある街道の今昔、エピソードです。
 
 神奈川宿と横浜2 神奈川宿 07/10/07作成
 旧神奈川宿・現横浜駅航空写真                          | このページの先頭へ |

 ここでは、横浜駅青木橋ばかりではなく、もう少し、神奈川宿全体を説明しましょう。
 下の、地図02の中から、次のものがどこにあたるか、あててみてください。

@

 旧東海道 C  本覚寺(旧アメリカ領事館)

A

 青木橋 D  横浜駅

B

 京浜急行神奈川駅 E  高島屋

 ※下の地図をクリックしてください。答えが現れます。

上の地図は、グーグル・アースGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。

 写真の州崎神社の位置は、旧神奈川宿の中央やや西よりに当たります。
 現在の
横浜駅のあたりは入江でしたから、東海道と神奈川宿は、現青木橋の位置で屋や北に上がって、高台の麓の台町を通って西の方、程ヶ谷宿へと繋がっていました。
 


 青木橋と本覚寺 古写真その2より                        | このページの先頭へ |

 前ページで引用した青木橋本覚寺の写真(右に再引用)とは別に、本覚寺そのものから青木橋を撮影した古写真が存在します。
 それが下の写真です。
 中央の緑色の草の生えた土手の下が鉄道線路で、その右の白い電柱の立っているところから右手が青木橋です。

 上手には、「対岸」の
横浜の町と横浜港沖に浮かぶ船が望見できます

長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。

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 上の写真と似たような角度から撮影した現在の青木橋です。
 手前の階段は、下を通る
国道1号線から本覚寺山門へ登る石段です。樹木の下に見える白い建物は、京浜急行線神奈川駅、線路を京急の快速電車が走っています。(撮影日 07/08/11) 



 
本覚寺へ上がる石段の下からの撮影。
 
 
本覚寺は、鎌倉時代の臨済宗の開祖、栄西によって創建されたと伝えられています。
 しかし、戦国期には戦乱に巻き込まれて荒廃してしまいました。
 天文年間に陽慶和尚によって曹洞宗の寺院として再建されました。(撮影日 07/08/11) 

 

 
 開港地横浜に乗り込んだアメリカ
領事ハリスは、本覚寺を見て領事館として借用するに最適と判断しました。
 高台にあること、
宮之下河岸の船着き場に近いこと、横浜港を一目で見ることができることがその理由でした。
 
生麦事件の時は、斬られたあと逃げ延びたマーシャルクラークがこの寺に避難し、ヘボン博士の診療を受けました。(撮影日 07/08/11) 

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 横浜ランドマークタワーから見た本覚寺方面です。本覚寺は、写真ほぼ中央やや下に木々の緑に囲まれてその屋根が見えます。(撮影日 07/08/11)

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 神奈川宿の説明                               | このページの先頭へ |

 横浜市は、市内の史跡を観光客や歴史学習目的の旅行者に分かりやすく説明するため、かなりの予算をついやして案内標識を整備しています。
 
旧神奈川宿の説明板は、京急神奈川駅の隣、青木橋の北東詰めに設置されています。


 京浜急行の神奈川駅です。
 1992年の駅舎の改修の際、旧東海道に面した建物と言うことで、京急の協力を得て、和風で瀟洒なデザインの外観を持つ建築物となりました。(撮影日 07/06/13)


 写真中央の青いフェンスの手前に神奈川宿の案内板が立っています。

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 「神奈川宿歴史の道」のシリーズ案内板です。(撮影日 07/08/11)

 

 上の案内板の街道の古絵図の部分を拡大してみました。
 この案内板が立っている位置、つまり、青木橋の位置は、絵図
の東海道が屈曲している部分です。
 この部分をちょうどのちに鉄道が通ることになり、
青木橋は、それをまたぐ橋として建設されました。

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 旧東海道の
洲崎神社前は、現在宮前商店街通りとなっています。
 写真のゲートの向こうが国道1号線、右に曲がると青木橋です。
 
 東海道は、橋を渡って西に曲がります。
 写真では、そのまま正面の白いビルの方向が東海道の道筋です。坂を上がると
台町です。(撮影日 07/08/11)

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 台町の関門                                      | このページの先頭へ |

 上の案内板の古絵図のから西の部分で、東海道は、海に沿ってちょっとした高台に上がります。ここが台町です。

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 台町を東から西へ、坂の頂部に向かって写した写真。
 
 右手の丘が現在の
高島台です。

 
 

長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。


 
  上の、宮前商店街のゲート下の横断歩道から、青木橋とその向こうの旧東海道筋を遠望した写真です。

 右手の
高島台の丘は、昔と変わらず続いています。

 

 神奈川宿には、横浜開港後、2カ所の関門が設置されました。
 開港後、ハリスの通訳ンヒュースケンの殺害やイギリス公使館となった東禅寺の襲撃事件など「攘夷」事件が頻発したため、諸外国の公使等は幕府に対応を要求しました。
 このため幕府は、横浜に最も近い
東海道神奈川宿の治安を保ち、不審人物をチェックするため、1859年、関門や番所を設置しました。

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神奈川台町の関門
坂の頂部にある関門を東から西へ向かって撮影したもの。
 右手の木々は、
高島台

 横浜のベアトの写真館を受け継ぐことになる、スチルフリードの撮影のよるものです。

 このあと、1870年−71年の鉄道建設の際には、右手の崖が一部削り取られ、埋め立て用の土砂に使われました。

長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。


 
 現在の台町の坂。坂の下、東から西を撮影したもの。
 道路右手の赤い標識(防火用水の標識)の右側の部分に、下の石碑が設置されています。
(撮影日 07/08/11)

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 関門跡を示す石碑。
 碑文には、
「神奈川台関門跡
袖ヶ浦見晴所」
とあります。

 石碑の後の坂を上っていくと、
高島台の頂部を東西に走る道に出ます。
 少し戻って東に行くと、下で説明している
望欣台にたどり着けます。5分ほどです。

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 左の写真は、台町関門跡から旧東海道西側部分を撮影したものです。
 東海道は、このあと坂を下って西へ向かい、坂を下りたところで南西へ向きを変えます。浅間神社、追分、橘樹神社を経て、
程ヶ谷宿へ至ります。この写真の地点から約2.2kmです。

 右の写真は、
台町下の道路から台町へ上がる階段を撮影したものです。横浜駅北西口から台町下までは、平坦な道です。ところが、ここから台町へ上るには、写真の階段(途中で右に曲がって、さらにこの2倍はあります)を、ぜいぜいと息を切らして上らなければなりません。
 横浜駅のあたりからこの階段下までの平坦地は、明治時代前期までは袖ヶ浦と呼ばれた入江でした。旧東海道はその上の高台を通っていたわけです。
 地理的な専門用語を使えば、台町のすぐ南の海岸線は、海蝕崖(海の浸蝕ででできた崖です

長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。
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 望欣台から横浜を臨む                                | このページの先頭へ |

 台町の上の丘、高島台の頂上には、望欣台と呼ばれる展望台があります。
 そもそもこの高島台(高島山ともいう)の名前の由来は、鉄道用地埋め立て事業(後で説明します)などで横浜の発展に功績を果たした
高島嘉右衛門が別邸を営んだことにあります。

 彼は横浜の発展が一望に見渡せるこの場所に立ち、港内の発展をみて喜んだ(欣喜した)ことから、
望欣台と呼ばれるようになりました。

 左の写真は望欣台の全景。右の写真は石碑部分の拡大。「望欣臺」と刻まれています。(撮影日 07/08/11)

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 高島嘉右衛門が生きていた時代には、望欣台から横浜港が一望に見渡せたでしょう。現在はどうでしょうか?比較する写真があると一目瞭然です。
 捜したら・・・・、ちゃんとありました、ありました。えらいもんです。

 下の大きな写真は、たびたび引用している長崎大学の図書館の所蔵写真です。
 台町または高島台から写したものと推定されます。
 
 
中央の埋め立て地は、新橋−横浜間の鉄道を通す際に、高島嘉右衛門によって横浜村北、神奈川台正面の入り江を、袖ヶ浦を埋め立て築造されてものです。高島は、1870(明治3)年5月に工事を請け負い、翌年71年2月には完成にこぎ着けました。1年足らずの突貫工事でした。

 右下の写真は、前ページから何度も見ている
青木橋方面から袖ヶ浦の鉄道線路(埋め立て地)を写したものですが、この写真では埋め立て地はまだ鉄道線路の幅しかできていません。

 下の写真の方では、すでに、鉄道線路の外側(南側)に幅広く埋め立て地が形成されています。埋め立ての功労者
高島嘉右衛門とその共同出資者に土地利用の権利が認められ、高島遊郭などの町並みが形成されました。町名もそのものズバリ高島町と名付けられました。現在の横浜駅南に、高島町1丁目・2丁目という地名が残っています。

 この埋め立て地の工事には、上の神奈川台町の写真の高島台の山土が削られて利用されました。
 当時の
横浜駅(現在の桜木町駅)は、埋め立て地のカーブを曲がって横浜に入った地点に設けられており、この写真からははっきり確認できません。現在の横浜駅は、この写真の時点では、まだ海でした。写真の線路のカーブのさらに外側(西側)に当たる部分です。
 
 写真の背景の小丘陵は、現在の野毛山です。

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長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。

 上の埋め立て地建設の詳しい事情を説明します。

 政府はこの埋め立て地建設を進めるにあたって、経費節減のためまったく民間資本に頼る方式としました。
 1870(明治3)年、神奈川県庁を通して、次のような告示をしました。
「横浜石崎より神奈川駅迄海中長さ七百七十間(約1.4km)、幅42間(75.6m)を埋め立て、其の中幅五間を鉄道敷地として献納し、尚幅六間を公道として提供せば其の余り(私有地三十一間)は埋め立て者に貸し下ぐべきに由り希望者は出願すべし」

 これに応じたのは高島嘉右衛門ただ一人でした。
 埋め立てに使った泥は、横浜方では戸部にある伊勢山、神奈川方では、神奈川台西裏に当たる飯綱山から採取されました。

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 現在の望欣台からみた横浜駅方面です。
 高層ビル群の一番左端が
横浜ランドマークタワーです。正面の「タクエー」の看板の上の赤字のマークは、そごう百貨店のマークです。こちらは横浜駅の南東側にあります。
 写真の一番右端の赤いのマークは、もちろん
高島屋百貨店です。こちらは横浜駅の北西側にあります。


 上の写真の中央部、高速道路の橋脚の下をアップすると、横浜駅手前の鉄道線路が見えます。京浜急行線の普通電車が横浜駅に到着するところです。(撮影日 07/08/11)

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 横浜ランドマークタワーから現在の横浜駅方面を撮影した写真です。
 写真中央のビルに囲まれた部分が
横浜駅です。赤いマークはもちろん高島屋です。

 駅から左手前に伸びているのが
JR根岸線、写真には映っていませんが、この方角とは反対側のランドマークタワーの南西すぐ隣に桜木町駅(初代横浜駅)があります。JR根岸線に並行している道路が高速道路横羽線です。写真手前中央から右手にカーブしている道路は、みなとみらい大通りです。

 上で話題していた
本覚寺は、右手前のビルの上に立っている塔の上から3段目の右隣奥の緑の部分です。
 また、
JR根岸線高速道路横羽線の間の高層ビルが建っている部分が高島町2、横羽線の右の緑色の空き地の部分が高島町1です。 

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 神奈川宿歴史の道「望欣台」の説明。
 説明の上部には、地図が掲載されています。

 北の方角が斜め下向きですからちょっと見ずらいですが、地図の右半分にある、
袖ヶ浦とそこに作られた鉄道線路の埋めて地が理解いただけると思います。

 当時の横浜駅は地図の中央にありました。
 
 


 さて、神奈川宿、とりわけ、神奈川台町とそこから見た新橋−横浜線の鉄道埋め立て地について新旧の写真を比較してその変遷を説明してきました。
 
 次ページ、この「神奈川宿と横浜」シリーズの最後、その3は、
横浜駅と横浜の町そのものについて説明します。 

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