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街道を歩く10
 江戸時代の街道を歩いてみました。由緒ある街道の今昔、エピソードです。
 
 生麦事件7 薩英戦争2  07/09/23作成 
 戦争の経過                                      | このページの先頭へ |

 イギリス艦隊は、1863年6月27日(旧暦)の夕刻に鹿児島湾内に入り、夜遅くなって、鹿児島の町から12km程南に離れた、谷山村平川の沖合にある七ツ島付近に投錨しました。

 鹿児島湾は、噴火によって形成されたカルデラが沈下してできた湾ですから、沿岸からすぐに深い海となり、碇を入れる手頃な水深の場所はそれほど多くありません。
 このことは、湾内停泊中のイギリス艦隊にとって不利に働きました。理由はおわかりですね。
投錨に適した水深の海域を求めて湾岸に近づくと、薩摩側が構築した砲台(陣地)に近づいてしまうからです。
 
 さて、このあと戦闘の経過はどのようなものだったのでしょうか。


 現代の衛星写真に1863年のイギリス艦隊の航路をトレースしました。例によって精密ではなく、イメージ図とお考えください。
 現代の地形と当時の地形は当然異なっています。
 大きなものだけ言えば、
鹿児島市街地は当時の城下よりは拡大しました。桜島は、大正時代の噴火と大正溶岩によって大隅半島と陸続きとなりました。喜入には、日本石油の原油備蓄基地が映っていますが、当時はそんなものはありませんね。

上の地図は、グーグル・アースGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真から作製しました。

 
  表 イギリス艦隊の動き

七ツ島沖停泊以降のイギリス艦隊の動きです。(月日はすべて旧暦です。)

月日

時刻

イギリス艦隊及び薩摩藩軍の動き

1

6/27

22時頃

 七ツ島沖停泊

2

6/28

早朝

 薩摩藩役人を乗せた小舟が旗艦ユーリアラス号接舷。艦隊の来意を確認。

3

午前

 艦隊、鹿児島城下沖合に移動。

4

昼頃

 薩摩藩役人が旗艦へ来艦、ニール、薩摩藩への要求書を提出。

5

午後

 薩摩藩役人来艦、ニール、キューパー提督の上陸を要請。

6

6/29

午前

 薩摩藩役人来艦、再びニール等の上陸を要請。イギリス拒否。

7

不明

 薩摩藩、少人数による襲撃を計画。英国各艦への乗り込みと、艦上の切り込みを企図するも、形勢不利と見て中止。

8

不明

 艦隊、桜島の小池・袴腰沖に移動。

9

 薩摩藩、艦隊に要求書の回答を送付。英国の要求を拒否。

10

7/01

早朝

 ニール、薩摩藩使者に、要求に答えないので強硬手段を取ることを表明。

11

7/02

早朝

 英国艦5隻、重富沖に進航し、薩摩蒸気船3隻を拿捕。

12

9時頃

 5隻が泊地帰還。

13

12時頃

 薩摩藩軍、英国艦隊に向け砲撃開始。ユーリアラス、パーシューズ、袴腰砲台から砲撃を受ける。天候は荒天。

14

不明

 艦隊、拿捕船3隻を焼却。ハボック号はこの場所で待機。

15

不明

 艦隊中6隻(ユーリアラス、パール、コケット、アーガス、パーシューズ、レースホース)は北上。祇園洲砲台北で300度転回。鹿児島城下砲台を北から順に砲撃。

16

14時頃

 旗艦ユ号、砲撃開始。

17

不明

 艦隊、祇園洲砲台を破壊。レースホース号砲台前で座礁。砲撃を受けず。艦隊、レ号を救出。

18

不明

 ユ号、単艦で南下。新波戸砲台、弁天波戸砲台を砲撃。

19

不明

 ユ号、一度湾中央へ向けて左回頭。360度転回し、再び単艦で南下。新波戸、弁天波戸、南波戸砲台を砲撃。

20

15時頃

 ユ号被弾、艦長ジョスリング大佐、副長ウィルモット戦史。

21

15時過

 ユ号、大門口砲台前通過。パシ号、ロケット砲で市街地を攻撃。市街地炎上。

22

15時半頃

 ユ号、天保山砲台を砲撃せずに左回頭。その後、湾中央から、桜島小池沖に進み停泊。

23

19時頃

 パシ号、ハ号、磯に停泊中の琉球船等を砲撃。集成館等を砲撃。

24

7/03

早朝

 艦隊、戦死者を水葬。

25

15時頃

 艦隊、南下。桜島の横山砲台、赤水砲台等を攻撃。また、鹿児島側の天保山砲台、市街地を砲撃。
 艦隊、沖小島砲台からの砲撃に応射。

26

17時半頃

 艦隊、谷山村平川沖に停泊。

27

7/04

15時頃

 艦隊、横浜へ向け出発、鹿児島湾退去。

28

7/05

不明

 薩摩藩主島津茂久より、全藩士に、「英国艦隊撃退、満足」の旨が通達される。

<参考文献>

元綱数道著『幕末の蒸気船物語』(成山同書店 2003年)P66−72

萩原延壽著『薩英戦争 遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄2』(朝日新聞社 1998年)P25−P47

岩堂憲人著『世界銃砲史 下』(国書刊行会 1995年)P700−P714


薩英戦争に参加したイギリス艦隊の軍艦の行動
 

艦 名

排水トン数 砲数 戦死 行動

ユーリアラス 3,125 46 10 7/02午後3時頃、艦長副長戦死。

パール 2,187 21 0 薩摩3蒸気船を拿捕。

パーシュース 1,365 1 袴腰砲台から砲撃を受け、錨鎖を切って離脱。集成館を攻撃。

アーガス 1,630 0 薩摩3蒸気船を拿捕。拿捕船を焼却。

レースホース 877 0 薩摩3蒸気船を拿捕。拿捕船を焼却。祇園洲沖で座礁。

コケット 不明 2 薩摩3蒸気船を拿捕。拿捕船を焼却。

ハボック 284 0 薩摩3蒸気船を拿捕。集成館を攻撃。

上記参考文献より作製


 細部については想像の部分も多くあります。あくまでイメージ図です。

上の地図は、グーグル・アースGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真に上記文献に掲載の図をトレースして作製しました。

 
   上の表 イギリス艦隊の動きをアニメ化すると、以下のようになります。

 アニメは、4分割されています。まず、下の事前解説を読んで、次に以下のT〜Wをクリックしてください。

T 6月28日−7月1日

U 7月2日早朝− 14時

V 7月2日14時以降

W 7月3日

 アニメは、約4秒ごとのコマ送りです。

<上図の補足説明>

 上の作品は、
   ○萩原延壽著『薩英戦争 遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄2』(朝日新聞社 1998年)P39
   ○岩堂憲人著『世界銃砲史 下』(国書刊行会 1995年)P704
の地図等を参考に作図・アニメ化しました。
 もとより正確な航路図が残されているわけではなく、全体的に文字資料を基にした推定と言うことになります。実証的な作品と言うより概ね事実に基づいた「イメージ図」としてとらえてください。
 鹿児島市街地、桜島の海岸線も、現在のものではなく概ね江戸時代のものにしてあります。


 薩摩の主張                                            | このページの先頭へ |

 この戦闘の経過の中からも、戦後の薩英和解の実現にいたるいくつかのポイントを指摘することができます。 
 まずは、
薩摩側が戦後の交渉でイギリスに断固として譲らなかった点です。それは戦争はどちらが仕掛けたかという点についてです。

 喧嘩も戦争も、先に手を出した方は必ずそれなりの理由を求められ、往々にしてその説明は苦しくなるものです。
 一方、攻撃を受けた側は、「相手が攻めてきたから反撃した」という簡単明瞭な理由ですみます。

 これは、戦後の交渉において、自分の立場を強くする大事なポイントとなります。

 では、薩摩側は、何と主張したのでしょうか。上の「表 イギリス艦隊の動き」、もしくはアニメ「薩英戦争に参加したイギリス艦隊の軍艦の行動」から考えてください。



 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 6月29日の時点で、イギリス艦隊に薩摩側の回答が届けられ、薩摩はイギリスの要求には何一つ応えないことが分かりました。

 これを受けて代理公使ニールは、7月1日の時点で、薩摩への報復措置をキューパー提督へゆだねます。提督は、本国から裁量権を与えられていました。
 そこで提督は、要求が貫徹されるまでの「補償」として、薩摩側が、鹿児島湾の北部に密かに停泊させていた
藩所有の蒸気船3隻の(天祐丸、青鷹丸、白鳳丸)拿捕を命じました。蒸気船3隻は安々と英国艦隊の手に落ちましたが、これは、薩摩藩の解釈では、イギリスの武力発動でした。
 この考えには、妥当性があります。
 
 英艦隊はあくまで薩摩を脅す手段(蒸気船3隻の購入費用は30万8000ドルと莫大なものであり、事実上薩摩の貴重な財産であった)として考えており、薩摩が、貴重な蒸気船を失ってまでも、「開戦」してくるとは考えていませんでした。

 それが証拠に、7月2日正午に、薩摩藩各砲台からの砲撃が始まってからも、艦隊は、すぐには反撃できませんでした。5隻は安全な小池村に停泊していましたが、とりわけ、旗艦ユーリアラスとパーシュースは、横山砲台の射程距離にいたため、的確な砲撃を受けました。それでも、ユーリアラスは反撃しませんでした。いやできなかったのです。

 
理由は、横浜を出る前に、イギリスは生麦事件その他の幕府からの賠償金11万ポンドを受け取っていましたが、その賠償金の入った箱を、そのままユーリアラスの弾薬庫の前に積んで来てしまったため、砲撃開始にはまずそれを移動しなければならなかったということです

アーネスト・サトウ著坂田精一訳『一外交官の見た明治維新 上』(岩波文庫1960年)P108


 イギリスの強硬な態度と、その反面、薩摩藩の「強い意志」を見くびった行動は、この薩英戦争を考える際の一貫したポイントです。


 イギリス側の事情                                     | このページの先頭へ |

 イギリス側は、艦砲の砲撃で薩摩藩側の砲台を沈黙させました。

 
アームストロング砲の威力は素晴らしく、薩摩側の旧式の大砲の射程距離がせいぜい1000m程であったのに対して、ア砲3000〜4000m距離から有効弾を撃ち込むことができました。
 
 7月2日の本格的戦闘の日は、台風と思われる低気圧の接近で風雨波浪ともひどく、イギリス艦隊は、十分な操船と正確な砲撃ができませんでした。
 
 このためアーガス号のように座礁する艦がでたり、砲台に近づきすぎた旗艦ユーリアラス号は、数発の命中弾を受け、艦長・副長の両方が戦死するという手痛い損害をこうむりました。

 しかし、7月3日は、天気も回復したため、イギリス艦隊の航行には余裕があり、
鹿児島城下・桜島沿岸の双方の砲台の射程距離外の湾中央を航行して、前日の戦闘で被害のなかった両岸の砲台に的確に打撃を与え、沈黙させました。 

 鹿児島湾の城下沖は、対岸桜島との距離が3000m程あり、薩摩側の大砲の射程距離が1000m程度でしたから、上手に航行すれば、相手の砲撃は届かない、こちらの大砲のみが一方的に打ち込める、いわゆる「
アウトレンジ攻撃」が可能だったのです。



 薩摩藩の新波戸砲台です。湾内に琉球船、防波堤の外側には、蒸気船が停泊しています。
 うっすらと桜島が見えます。

 

 この写真は「長崎大学付属図書館幕末明治期日本古写真メタデータ・データベース」から許可を得て掲載しました。

 

 かくて、相手の戦力を殺ぐという点では、一方的に「勝利」することができ英国艦隊でしたが、薩摩へ上陸し、陸戦を敢行するという決定的な打撃を与えることはできませんでした。

 十分な訓練を積んだ薩摩藩軍との陸上における戦いは、イギリスには分の悪いものと考えられたからです。
 近代的な武力に於いては圧倒的な優越性を誇るイギリスですが、日本を武力で「植民地化する」というコストがどのくらい莫大なものになるかは、十分に理解していました。
 
 逆に、このことは、薩摩側にとっては、戦力大半を失いながらも、「イギリス艦隊を撃退した」という「勝利」の思いにつながりました。


 イギリス本国議会とジャーナリズムの対応                   | このページの先頭へ |

 もう一つ、日本側が想像していなかったことが、戦後のニール代理公使とキューパー提督にふりかかっていました。
 リチャードソン殺害そのものにおいては、新聞紙上に掲載されたイギリスの世論は、日本の武士階級の「攘夷」を非難するものでした。

 しかし、この薩英戦争そのものについては、なんと、
事件の一部始終を知ったイギリスの議会や国民は、ニールやキューパー提督の行為の一部を非難したのです。

 アヘン戦争をやって中国を屈服させたイギリスです。英国艦隊が日本相手に何かをして、どこを非難するというのでしょう?また、上の「表 イギリス艦隊の動き」、もしくはアニメ「薩英戦争に参加したイギリス艦隊の軍艦の行動」から考えてください。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 イギリス議会やジャーナリズムの反応についての解説です。
(赤字・青字部分、行間調整は引用者が施しました。)


「 イギリス外務省が公表した外交文書は、前年の1862年12月24日付のラッセル外相からニ
ールに送られた訓令、つまり、生麦事件にたいする幕府および薩摩藩の双方への要求事項と、要求に応じない場合の措置として艦隊の出動もあり得ることを示唆した訓令にはじまり、鹿児島で戦端が開かれる直前の薩摩藩との交渉にいたる経過を網羅するものであり、海軍省に送られたキューバー提督の公式な戦争報告書(1863年8月22日付)は、「鹿児島への遠征」と題して紙上に発表された。
 
 後者は、
他の欧米諸国の新聞にも転載されて、厳しい批判をよんだが、イギリス国内でも、鹿児島の町を焼いたキューバー提督の措置は、非難の対象となった。

 たとえば、『ザ・タイムズ』紙(1863年11月4日付)は、下院議員のチャールズ・バクストンによる「日本における最近の交戦状況」と題する投書を掲載している。その中で、バクストンは、
「鹿児島の火災」は偶発的なものではなく、キューバー提督が故意に意図したものであると非難し、非武装の一般人の家をこのように破壊することが、今後の戦争における先例となれば、人類にとって想像もできない恐ろしいことほなるであろうとし、キューバー提督のとった措置は、イギリスの名声を汚すことになる「恥ずべき犯罪行為」であると糾弾した。

 さらに、1864年2月9日、バクストンは、薩英戦争において鹿児島の町を焼きはらったことについて、それが、「文明諸国民のあいだで遵守されている戦争の慣例に違反する行為であり、下院はこれを遺憾に思う」という趣旨の動議を、下院議会に提出したのである。
 この日のイギリス下院議会での討議内容は、翌日の2月10日付の『ザ・タイムズ』紙に、「鹿児島の火災」と題して掲載された。」

萩原延壽著『薩英戦争 遠い崖ーアーネスト・サトウ日記抄2』(朝日新聞社 1998年)P50−51


 このあたりのイギリス議会や国民の感覚は立派なものです。

 以上、通常の教科書の記述には現れてこない、「薩英戦争」のポイントに対する解説でした。


 生麦から鹿児島湾へ、思えば遠くへ来てしまいました。次は、また、神奈川宿と横浜へ戻ります。(^_^)
 


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