| 未来航路Topへ | | メニューへ | | 前へ | | 次へ |

戦艦大和について考える16
戦艦大和について考えます。その実像とは?
 
「戦艦大和神話」確認 その13漂流者銃撃と「人種差別」3 
 人種差別?どういうことを問題としたいのか                 | このページの先頭へ |

 アメリカ海軍機による、沈没日本艦船の漂流者への銃撃の話から、いよいよ「人種差別」という、大きなテーマへと話を続けます。
 
 前ページで引用したように、戦艦大和の艦長、及び駆逐艦天津風の艦長、つまり当時の
日本海軍の軍艦乗り組みの士官にとっては、漂流しているアメリカ軍将兵を軍艦の兵器によって銃撃するのは、「常識」に反することでした。
 
 しかし、アメリカ軍は、漂流している日本人将兵を銃撃するのは当然の措置として、普通に行っていました。
 大和以下第2艦隊の沖縄特攻に関しては、日本軍将兵の残した資料だけではなく、イギリスのジャーナリスト、
ラッセル・スパーも、日本側・アメリカ軍側双方の証言を元に、次のように著しています。(以下の引用のうち、赤い太字と改行のあとの行間の設定は、引用者が施しました。)

「 艦長(引用者注 軽巡洋艦矢矧の艦長)は靴を脱ぎながら腕時計を見た。1405だった。指揮所の鉄の甲板を海水が洗っている。航海士の松田幸夫中尉は一隻だけある救命艇を降ろそうとした。しかし機銃掃射で救命艇は二つに折れ、よじのぼろうとしていた、多くは負傷者である12人を殺した。敵機は頭上で爆音を轟かせながら、沈みつつある甲板を掃射した。後部のどこかで一人だけ射撃を続けていたが海に呑まれた。海水がひざまで上がってきたので、上級の士官や乗員も海にとび込んだ。原はやっと5ヤードほど泳いだところで海中の流れに引き込まれ、頭が水中に浸した。アメリカ軍による最悪の事態を生きのびた。しかしそれが沈んでいく自分の艦によって溺れ死ぬためだったとはなんという皮肉だろう、と彼は思った。

 ブルュワーという名前の少尉は矢矧の断末魔の写真をとっていたが、生存者がボートを降ろそうとしたとき、傾斜した船体に機を降下させ短い一連射でポートを粉砕し、乗っていた乗員を海にはねとばした。巡洋艦はたちまちにして転覆、海中で爆発を起こしたらしく巨大な黒い煙が吹き上がった。まもなくして残ったのは油条と浮いている破壊物の残骸と、浮かんでいようともがいている乗員の頭だけだった。フークは磯風に急降下して炎上中の甲板に爆弾を命中させてから、
海上の生存者に村して丹念に機銃掃射を浴びせた。他のパイロットたちも機銃掃射に加わった。機銃弾の長くて白い曳痕が大洋のうねりを切り裂き、油の中で上下している頭の数は急激に減じていった。

 
アメリカ人は絶望的になっている敵国人を殺戮することに気がとがめなかった。彼らは太平洋において人種戦争を常に派手に戦ってきた・・・・日本人もそうだった。新聞の大見出しになる種を探している高官連中は公然と、日本人を殺すことはシラミを殺すより悪いことではないと言明した。アメリカ人は、捕虜に対する日本軍の残虐行為についての報告に、神風の異常な狂信主義までが加わったため、日本人は人間のでき損ないであり、慈悲をかけるにはほとんど値しないと信ずるようになったのである。この残忍性は4カ月後に広島でその頂点に達することになる・・・・。」 

ラッセル・スパー著左近充尚敏訳『戦艦大和の運命 ジャーナリストのみた日本海軍』(新潮社 1987年)P295

 
 ラッセル・スパーは、第2艦隊の漂流者に対して行われたアメリカ軍機の銃撃のみにとどまらず、このことが一般的に行われていたこと言及し、さらに普遍化して、アメリカ軍の遂行した戦争中の行為について、「太平洋において人種戦争を常に派手に戦ってきた」と表現しています。

 実は、このアメリカ軍機による漂流者銃撃は、単に、アメリカ軍将兵個人の意識のレベルによるものではなく、軍としての意志でした。
 第二次世界大戦期と戦後の日本の研究で大きな業績を残している、
ジョン・W・ダウアーは、次のように説明しています。(以下の引用のうち、赤青の太字と改行のあとの行間の設定は、引用者が施しました。)

「 ブーゲンビルで投降しようとして殺された負傷兵の場合のように、日本兵殺害の中には上官の命令下に行なわれたもの、あるいは少なくとも上官が事後承認を与えたものがあった。たとえば日本の輸送船を沈め、その後一時間以上もかけて何百、何千という生き残り日本兵を銃で撃ち殺したアメリカの潜水艦副長は、この虐殺をその公式報告書に記録し、しかも上官たちから公の賛辞を与えられている。海軍の同僚たちの多くは、この事件に反発を感じてはいたものの、結局、副長がとがめられるどころか高く評価されたということで、こうした行為が潜水艦の最高司令部によって支持されたものと解釈された。同じように陰湿な殺人が、ビスマルク海戦の三日後の43年3月4日に起こっている。アメリカとオーストラリアの飛行機が、海戦を生き延びた日本兵を捜索し、見つけしだい筏や救命ボートを機銃掃射したのである。「決して男らしいやり方とは言えなかった」と第五爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告している。
「隊員の中には気分が悪くなる者もあった。しかし心に刻んでおかなければならないことは、敵はわれわれを殺すために、そしてわれわれは敵を殺すために、こうして戦っているのだということだ。戦争は遊びではない」。

 ビスマルク海での虐殺は二つの理由で特に興味深い。第一に、その場所が日本人の「野蛮さ」に対する怒りを呼び起こす引き金となった連合軍航空兵の首斬り事件の起こったニューギニアのすぐ近くであったということ (偶然にも、海戦も首斬りも同じ月に起こっている)。そして第二には、日本生存者の殺害はすぐに報道されたということである。連合国側の報道機関は軍部の検閲規則を忠実に順守しており、したがってこの事件に関しては、明らかに厳しい規制はしかれなかったのである。「タイム」誌は、これも旧約聖書を思い出させる一つのよい例であるが、1943年3月15日号でこう報じた。

「低空飛行の戦闘機が生き残りのジャツプでいっぱいの救命ボートを血の海に変えた。ジャツプに浴びせられたこの残忍さは、かつて彼らがしばしば示したものである。今回の攻撃の結果、岸にたどり着くことができたジャツプはほとんどゼロに近かった」。
その二週間後、「タイム」誌は、そうした「冷血殺人」に関する道義に疑問をなげかけた一通の投書を掲載したが、それをきっかけに当面の戦いにおける「友愛」の概念を鼻で笑う読者からの投書が殺到することになる。ある手紙は日本軍が行なった一連の残虐行為を列挙し、そして最初の手紙の主は「『毒』を使いきったガラガラヘビを殺すことも嘆かわしい」というのだろうかと反問している。別の手紙には、「自分は『冷血殺人』の報道を読んで、まったく満足した。できるならばもう一つ、あらゆる屋外便所のドアにジャツプの皮を釘づけにするという、古き良きアメリカの慣習をまたこの日で見たいものだ」と書かれていた。さらに別の手紙には、もしも日本兵に対し向こうがすると同じくらい手荒い扱いをしなければ、「こつちの顔がつぶれる」という意見が述べられていた。

ジョン・W・ダウアー著猿谷要監修 斉藤元一訳『容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別』(平凡社ライブラリー版 2001年)P137−138。(この著の英語オリジナル版の発刊は1987年、日本語初版は1988年)

 
 ジョン・W・ダウアーは、ラッセル・スパー以上に、より具体的にアメリカ軍やアメリカ国民の日本に対する差別意識を指摘しています。
 
 日本軍(特に陸軍)の中国や東南アジアにおける残虐行為については、これまでもずいぶんと書かれています。では、太平洋戦争中に、アメリカは、日本をどう見ていたのでしょうか。
 それが、このテーマで明らかにしたいことです。 

今回のテーマについては、ジョン・W・ダウアー、マサチューセッツ工科大学教授の書物から、多くの示唆を得て書いています。
教授は、1980年代後半、日本が自動車の輸出攻勢等でアメリカ経済を圧倒し、バブルの絶頂期にあった時期に、日米の「人種差別」に関して、実証的な資料と深い考察とによって名著『容赦なき戦争 太平洋戦争における人種差別』を著し、高い評価を得ました。
 その後、その続編とも言うべき著書、『敗北を抱きしめて』(オリジナル版は1999年発刊、日本語版は、三浦陽一・高杉忠明訳によって、岩波書店から2001年出版)はさらに高い評価を受け、ピュリッツアー賞を受賞しています。

 上記の引用文の舞台。ニューギニア、ソロモン諸島。NASAのWorld Windの画像から作製。 


 残虐行為を生む背景                              | このページの先頭へ |

 戦争において、いわゆる、非人道的な行為は、どこの軍隊でも見られることです。そもそも戦争は人を殺すことですから、「ルールに則った人殺し」などというのは、期待する方が無理かもしれません。

 しかし、一般に、戦闘力を失ったものへの殺戮、将兵ではない一般市民への殺戮、つまり、常識的に不必要な殺戮が行われる場合、その残虐性の発露には、加害者の何らかの意識が存在しています。

 日本軍が中国大陸などで行った南京虐殺のような残虐行為は、戦勝による驕りとか、頑強に抵抗する敵に対する過剰な敵愾心の現れとかもその要因でしょう。しかし、この行為の基盤には、当時の日本人の中国民族に対する蔑視観が存在していることは、明白です。

 大日本帝国は、中国・朝鮮や東南アジアの諸民族に対して、確かに大東亜共栄圏の「共栄」を強調しました。大東亜共栄圏は、英米からの植民地支配からの自立と、各民族の繁栄を謳いました。1943(昭和18)年になって、ビルマやフィリピンの独立を承認し、同年11月には東京で大東亜会議が開かれ、大東亜共同宣言が出されました。
 しかし、これが目指す体制は、あくまで、日本民族の優越的で指導的な立場を実現するものであり、また、経済的には日本を中心とする自給自足体制の樹立によって、英米勢力と対峙するためのものでした。

 上左の写真は、ビルマ独立を宣言する、同国首相バー・モウです。壁には、日の丸も掲げられています。
 上右の写真は、フィリピンの小学校での日本語の授業です。日本語こそが「日本精神」を実現する基盤であり、このため大東亜共栄圏諸国では、日本語の教育が盛んにおこなわれました。
 この2枚の写真は、いずれも、戦時中の「写真はがき」からの複写です。このページは他に掲載する写真がありませんので、本題とはあまり関係ありませんが、賑やかしに掲載します。(^.^)  


 「鬼畜米英」 日本人の英米人観                        | このページの先頭へ |

 差別意識があるからこそ、朝鮮半島で、満州国で、中国戦線で、そして東南アジアで、虐殺や不当な労働による酷使によっておびただしい犠牲者を出すことになったわけです。

 では、
日本人は、欧米人をどのように思い、また、欧米人は日本人をどのように思っていたのでしょうか。
 高校の日本史の学習内容としては、上記のような、大東共栄圏についてはその概略を学習しますが、実は、このこと、つまり、、日本人の欧米人観、欧米人の日本観のいずれも、深くは学習しません。
 政治史、具体的には事件中心の歴史学習では、その背景にある文化論については、通常では取り上げられないわけです。

私自身は、このあたりが、「現在の歴史の教育は『自虐史観』」に基づいている」と批判される原因となっている部分であると思います。
もちろん、私は、特に新自由主義史観にくみするものではありません。しかし、ただ「受験」とか、ただ「これまで漫然と教育されてきたから」の視点だけではなく、これからの社会を担っていく生徒に何を教えるべきかという視点から、どんどん見直しをかけるべきであると思っています。

 まずは、日本人の意識です。
 政府は、アメリカ・イギリスとの戦いを進めるために、いわゆる、欧米の文化、とりわけアメリカ文化、アメリカ人の生活スタイルについて、否定的なキャンペーンを行いました。
 当時の価値観によれば、大日本帝国が誇るべき優秀性は、

  • 天皇を中心とし、同一の価値観に貫徹された単一民族国家

  • 欲得にとららわれない清浄なる精神など崇高な「日本的精神」

 に集約されました。

天皇制国家の是非はとりあえず置いておきます。「日本的精神」に含まれるものは、他に「公に奉じること」「私利私欲を捨てること」「敗者、劣者への共感といたわり」などがあります。これこそまさしく武士道であり、日本が最も大事にすべき精神であるという主張は、2005年から06年にかけてのベスト・セラー、藤原正彦著『国家の品格』(新潮新書 2005年)でもなされています。
 藤原氏の主張に即して考えれば、
漂流者銃撃が「武士道に反する」という考え方は、武士道にある「惻隠の情」(敗者への共感、劣者への同上、弱者への愛情」ということになるでしょう。簡単に言えば、「弱いものいじめは卑怯」ということです。

 反対に、否定されるべきアメリカ的なものといえば、

  • 自己中心主義、功利主義、物質主義、快楽主義、資本主義、自由主義など

 であったわけです。
 退廃的な映画、音楽、つまり、ミッキーマウスやチャップリンも忌避されるべき存在であり、「
欲得ずく、不道徳、破廉恥、うぬぼれが強い、横柄、ぜいたく好き、軟弱などが、アメリカ人の憎むべき性向とされました。

 そして、アメリカ人・イギリス人を憎むべく作られたスローガンが、「
鬼畜米英」であったわけです。


 日本人の欧米人将兵に対する「残虐」(虐待)行為           | このページの先頭へ |

 「鬼畜米英」によって、日本人は米英人に対して、敵愾心を高めました。

 実は、前ページに引用した、大和艦長や駆逐艦天津風艦長ら
艦船乗り組みの海軍士官の「武士道」的考え方、惻隠の情は、必ずしも日本海軍全体の「常識」ではありませんでした。

 実は、日本の海軍機も、戦闘力を失ったアメリカ軍将兵を銃撃した記録が散見できます。
 アメリカ海兵隊航空隊の
グレゴリー・ボイントン少佐は、1944年1月3日、アメリカの戦闘機パイロットとして新記録となる日本軍機28機撃墜を成し遂げましたが、その直後、ブーゲンビル島上空でゼロ戦に撃墜されました。その時の様子です。(以下の引用のうち、赤い太字は引用者が施しました。)

「ジョージのコルセアが炎につつまれて海面に激突した。万事休す…。いったん退避しようと全速で急降下に移り、海面すれすれで水平に引き起こした。400ノットほどで半マイルは降りただろう。しかし、水平飛行に移った瞬間に、目の前でメインタソクが火を吹いた。溶鉱炉を開けたように、すさまじい熱風が襲ってきた。
 百フィートほどの高度なので、上昇して飛び出す余裕はない。何秒かで焼き殺される。一瞬ポカソとして、これで終わりだ、と自分に言い聞かせたが、次の瞬間、なにくそと思った。右手で落下傘のリップコードを掴み、左手で安全ベルトをはずすなり、両足で操縦桿を力任せに蹴った。急激な機首下げの遠心力が、わたしを機外に放り出した。天蓋(引用者注 キャノピー)を突き破ったのか、天蓋もろとも飛んだのかわからない。
 落下傘が開いたのとほとんど同時に、横ざまに海面に打ちつけられた。そして、なにもかもが消えた……。
 冷たい海水でわれにかえった。四機のゼロ戦がわたしを目がけて突っ込んでくる。あわてて海中に潜った。最初は6フィートほど潜ったが、次は四フィート、
ゼロ戦が射撃を始めたときには疲れ果てて、頭を隠すのがやっとだった。弾がなくなったのか、しばらくして引き上げていった。
ほとんど動けなくなったわたしを見て、死んだと思ったのかも知れない。
 夜まで立ち泳ぎをしているのが賢明だろうと考えた。ゴムの救命筏があったが、
弾薬を補給したゼロ戦が戻ってくることを考えて、ふくらまさないことにした。

グレゴリー・ボイントン著中橋昭訳『海兵隊コルセア空戦記 零戦と戦った戦闘機体エースの回想』(光人社 2004年)P152−153)
ボイントン少佐はこのあと日本海軍の潜水艦に助けられ、捕虜となります。

 ボイントン少佐の著書の別のページでは、撃墜された航空機から脱出して落下傘で降下中のパイロットが銃撃され、足首を打ち抜かれながらも、帰還したパイロットの話が載っています。

 
戦闘機乗りの感覚では、これぐらいの仕打ちは日米の常識であったといえるでしょう。
 
 ただし、
ボイントン少佐も、艦艇の海軍士官の扱いには満足なようでした。(以下の引用のうち、青い太字は引用者が施しました。)

「 8時間は漂流しただろう……少し離れたところの海面に、何かが浮かび上がってくるのに気がついた。大きな潜水艦だった。
 潜水艦が現われた…。しかもそれは敵の潜水艦…・とは、まさに漫画家の発想だが、事実はそのとおりになった。しかし、敵だとわかったのほ、すぐ近くにきてからだった。怒り狂った赤いミ−トボールが艦橋に描かれている。万事休すだ。
 敵に渡せないものや、わたしの正体がわかりそうなものを、あわてて海に捨てた。しかし、サパイバルキットは沈まないから拾われるだろうし、その中の救急キットも必要なので捨てずにおいた。
 目の前にきたとき、命綱を投げてよこした。デッキによじ登るわたしに手を貸してくれてから、救命筏とサバイバルキットを引き上げて、わたしをデッキに座らせた。水兵が英語で名前を尋ねた。さんざん日本機を撃ち墜としたから、命の保証はない。
 幸い、飛行服を脱ぎ捨てて裸同然だったので、適当な名前と階級を言おうとしたが、目の前に<G・ボイントン少佐合衆国海兵隊>と書かれたサバイバルキットがあるのに気がついて、本名を告げた。
 英語を話した水兵ほ、衛生兵だった。
本艦にいるかぎり、なにも心配せんでよろしい
 と言ってくれたが、感謝祭前の七面鳥が「今はなにもしないから安心しろ」と言われたのと同じだ。
 ところで、捕虜だった全期間を通じて、このときの扱いが最高だった。浮上したまま二時間ほど航行して、日没直前にラバウルに入港したが、その間に、クッキーやら甘いお茶やら、そして煙草とマッチまでくれた。煙草はうまいと思わなかったが、チェリーというブラソドで、彼らにとっては貴重なものだった。
 
取り巻いた日本人が、不思議そうにわたしを眺め回さなかったのはこのときだけだった。めいめいが、きびきびと任務についていて、わたしのことを気にする者はいなかった。」

グレゴリー・ボイントン著前掲書P160−161

 ボイントン少佐はこのあと、捕虜虐待と栄養失調に苦しみながら1年8か月の捕虜生活を送り、終戦は、神奈川県大森の捕虜収容所で迎えています。

 東京初空襲を行ったドーリットル爆撃隊のうち日本側の捕虜になった将兵や、本土空襲で乗機を撃墜され脱出して捕虜となったB29のパイロットの中には、戦時捕虜の待遇を受けるどころか、都市無差別爆撃を行ったことを理由に、処刑されたものもいます。
 しかし、全体としては、むしろ多くの被撃墜パイロットが、ちゃんと捕虜になりました。
 終戦直前の1945年7月に広島県の呉軍港に停泊していた戦艦榛名を攻撃し、撃墜された陸軍航空隊のB24爆撃機「ロンサムレディ号」のパイロット、トーマス・C・カートライトは、次のように「虐待」の様子を書いています。(以下の引用のうち、青い太字は引用者が施しました。)

「 私が飛び降りたのは、人里離れた松林の中の空き地だった。私はそこでパラシュートを手繰り寄せて隠し、45口径のピストルの弾も捨てる決心をした。それから10分か15分ぐらいたってから、一人の農夫が林の中の道を歩いてくるのを見つけた (後日、森氏によって、この人が玉井清一氏であることがわかった)。私はこの人物に頼んで、日本の軍隊に連れて行ってもらうのが最善だろうと思った。前に進み出ると、彼は驚いたのか明らかに震えていた。身ぶり手ぶりで軍隊に連れて行ってほしいと頼んだ。45口径のピストルを持っていたことが、この人を警戒させた理由だったらしい。おそらく銃弾をピストルから抜いていたことを知らなかったのであろう。
私は、彼がやってきた方向を指さし、そのあとからついて行った。
 導かれて近くの村の小さな交番へ行った。副操縦士のルーバーもしばらくして同じ交番に連行されてきた。交番の数名の警官と外にいる村の住民の数人は興奮していて、私が拳銃を差し出そうとそれに手を伸ばした時に大きなどよめきが起こった。彼らの武器は手に持っていた棒切れと竹槍だけだった。ドアのところには鍬を持った男が一人立っていて、われわれが逃げるのを阻止しようとしているようだった。私はテーブルの上に拳銃を置き、ルーバーのそばに座った。
 警官はポケットを空にするよう命じた。互いに話をしたり、ポケットの中の救急用具で切り傷や打撲傷の手当てをしたりすることも許されなかった。ルーバーは足に傷を負っていて、痛々しそうだった。二人とも試練をくぐり抜けた直後だったのでひどく喉が渇いており、水をもらえないかということを身ぶり手ぶりで訴え、ようやく水を与えられた。
 まもなく目隠しをされ後ろ手に縛られ、少し大きい村へ連れて行かれた。かなりの数の村人がこの列についてきており、
いくぶんかの嫌がらせがあった。
 到着すると地面に座らされ、広場と思われるところで一晩過ごさせられることになった。
遠巻きに囲む人々からわれわれは殴られたりつねられたりして嫌がらせを受けたが、大抵は女性からだったと思う。この経験は1945年8月8日に日本海に墜落したB29の飛行士のものによく似ている。彼らは救命いかだで日本海を漂流し、漁民に助けられ、憲兵隊に引き渡されるまでの間にさらし者にされたのである。このことは爆撃手のウォルター・ロス中尉の本『目隠しを超えた勇気』に詳しく書かれている。重ねて言うが、さらし者にされている間にわれわれが受けた取り扱いは、九州と本州の間の海峡に機雷を敷設中撃墜されたB29の機関士フィスク・ハンレイ二世の著書『アメリカ人の戦争犯罪者を告発する』に書かれたものともよく似ている。彼は女性たちに両手でかなりひどくつねられたことを書き記している。」

トーマス・C・カートライト著森重昭訳『爆撃機ロンサムレディ号 被爆死したアメリカ兵』(NHK出版 2004年)P72−74
 
カートライト氏は、このあと東京に輸送され尋問の後、上述のボイントン少佐と同じく、大森の捕虜収容所に収容され、終戦を迎えています。

 彼の乗機の他の乗組員のうち数名は、そのまま広島市内の憲兵隊で取り調べを受け、8月6日の原爆によってその日もしくは数日後に死亡しました。
 アメリカが落とした原爆でアメリカ人将兵がなくなったことは、アメリカ軍は戦後長く認めようとしませんでした。しかし、それが事実であることが、
カートライト氏らの調査(上記引用文中にある様に、当時彼らと接した日本人の方も協力されました)によって証明されました。

  もちろん、収容されてからの待遇は、食事を始めとして非常に厳しいもので、そう言う意味で「虐待」であったかもしれません。しかし、戦争末期の日本では、国民全体が食糧不足にあえいでいたわけですから、意図的な虐待とは異なる性格のものと考えられます。


 鬼畜米英の意味                                | このページの先頭へ |

 「鬼畜米英」によって、敵愾心をかき立てられたとはいえ、日本人のアメリカ人・イギリス人に対する処遇は、基本的に中国人や東南アジアの人びとに対するそれとは、異なっていたと考えられます。

 「鬼」・「畜」の意味は、それぞれ、鬼のように自分たちとは異なる人間外の存在に対する恐怖と、さげすむべき彼らの文化や行状に対する蔑視観を表してはいます。
 しかし、そこに「恐怖」が含まれる以上、中国人や朝鮮人に対する思いとは異なるものと言うべきでしょう。ポルトガル、スペイン人を南蛮人と呼び、幕末に来航した外国人を夷狄と呼んだことも、朝鮮人や中国人に対する差別感よりも、「鬼畜米英」に近いと考えられます。

 鬼そのもののイメージを検証すると、また別の角度から、答えが出てきます。
 桃太郎は、鬼ヶ島に鬼退治に行きました。子どもなら誰でも知っています。
 桃太郎が戦った鬼は、征服される前は、邪悪な存在でも、征服されれば改心して、不通の人間と同じように社会の一員を構成するものとして描かれていました。
 徹頭徹尾、自分たちよりも劣るもの、さげすむべきもの、または、本質的に邪悪でどうしようものないものではなかったのです。

 つまり、「鬼」は、状勢が変われば、あくまで、パートナーとなりうる存在という定義にとらえられていました。
 ジョン・W・ダウアーは、このことが戦後の占領時代における、占領軍に対する日本人の予想外の受容へとつながっていったと指摘しています。

 では、アメリカ人、イギリス人は、日本人をどう思っていたのでしょうか?
 ページを改めて、このテーマの最後のページとします。


| メニューへ | | 前へ | | 次へ |