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戦艦大和について考える9
戦艦大和について考えます。その実像とは?
 
「戦艦大和神話」確認その6「片道燃料」について2        
 阻まれる油輸送                                              | このページの先頭へ |

 なぜ、石油など南方の資源を、日本へ運べなかったか。
 直接の理由は簡単です。
 
アメリカ軍がそれを妨害したことと、その結果として、資源を運ぶ船が足りなくなったことです。 
 表3は、太平洋戦争中の我が国の商船とタンカーの保有量です。

 商船(貨物船・貨客船)は、開戦6ヶ月後の1942(昭和17)年5月保有量が最高値(559万トン)で、それ以後急激に減少していき、戦争最終年の1945年には、最盛期の3分の1となり、海上での物資の輸送は、破綻します。
 タンカーの方はというと、表3を見る限り、1944年中も、なんとか維持されているような錯覚に陥ります。最高値は、1944年1月の87万3000トンですが、同年10月にアメリカ軍がフィリピンに上陸した後も、しばらlくは、80万トン以上が維持されています。
 しかし、タンカーの保有トン数が横ばいになっていることと、順調に油輸送が続いていることは別問題でした。
 油輸送は、実は、一般貨物船以上にひどい状況でした。


<石油に関する普通の教科書にはない知識 その3> 
 表3のタンカーに関して1944年の分をより詳しく分析すると、次の表4となります。
 このころは、
戦時標準船と呼ばれる大量生産型(戦争に入ってから計画された粗製濫造の船)のタンカーの建造が進んでいましたから、月平均5万トン程度の新就役船が登場しました。
 しかし、その反面、2月、9月、10月は、おのおの合計10万トン以上のタンカーを失っています。

 ここで、ちょっとその総量に注目してみましょう。
 
1944年1月当初のタンカーの保有量は、87万3000トンでした。各月の数値を合計するとこの年1年で、82万5000トンを撃沈されています。すなわち、最初に保有していた量は、ほぼ丸ごと沈められ、この年に建造した分のおかげで、何とか保有量が維持されているという状況だったのです。(数値上は、新造分の他に貨物船からタンカーに改造されたもの等の分が存在しています。

 もちろん、これは数字上のことで、何度も輸送に成功した強者タンカーもいますし、就役した最初の航海で沈没した船もいます。
 しかし、
タンカーに関して、ひどい「消耗戦」が展開されていたことは理解できるでしょう。そして、それだけタンカーが沈んだということは、南方から運ばれてくるはずの原油等も、一緒に沈んだということです。この点が最大のポイントです。
 これが、石油輸送が計画通りにはうまくいかなかったことの原因です。

 

<普通の教科書にはない太平洋戦争に関する知識 その1> 
 突然こんなコーナーに入ってしまいました。
 ここで少し、直接の油問題からはズレますが、確認しておきたいことがありますので、おつきあい願います。
 次の表は、太平洋戦争中の日本の船舶(商船、つまり貨物船・貨客船・タンカー)の月別喪失量です。

 ずいぶん派手に沈められたものです。特に、1944年になってからは、1か月で50万トンを超える犠牲を出した月が2回もあり、1か月平均32万総トンの喪失量となってしまいました。

 そして、開戦から敗戦までの3年9ヶ月の間に、
814万総トンの船舶が失われました。
 そこで、質問です。
 この日本船舶は、ごく一部(海難等も入っています)を除いてアメリカ軍等の連合軍の攻撃によって沈められました。
 その手段は何だったでしょうか?

  1. 敵飛行機の攻撃による沈没

  2. 敵水上艦艇の攻撃による沈没

  3. 敵潜水艦の攻撃による沈没

  4. 敵が敷設した機雷による沈没

 1〜4のうち、日本に最大の被害を与えたものは、どれでしょうか?

 正解は、3の敵潜水艦の攻撃による沈没です。
 第二次世界大戦というと、飛行機が活躍したというイメージがありますが、実は、日本の商船隊の息の根を止めたのは、アメリカ軍の潜水艦隊でした。
 半端な割合ではありません。総喪失量の59.6%、485万トンが潜水艦によって失われました。 


<普通の教科書にはない太平洋戦争に関する知識 その2>
 さて、脱線したついでですから、ここで、日本海軍とアメリカ海軍の潜水艦に対する考えの違いを見てみましょう。
 これは、単なる兵器に対する考えの違いにとどまらず、日本人とアメリカ人の精神的な本質に迫るものがあると考えるからです。

 
比較するのは、日米海軍が、潜水艦をどうゆう目的で使用したかです。
 「潜水艦って、そりゃ、海に潜って敵の船を沈めるために使ったに決まっとるだろう。」(岐阜弁でいえばこうなります。) といってしまえばおしまいですが、問題は、
敵のどのような船を沈めるために使ったかです。端的に言えば、主に敵の軍艦を沈めるのに使ったか、主に敵の商船を沈めるのに使ったかです。前者は、潜水艦を艦隊決戦の脇役として使うという発想で、後者は、潜水艦をいわゆる通商破壊に使うという発想です。

 これだけ示して、日米海軍に違いがあるといえば、どちらがどちらの考え方か、おわかりですね。開戦直後からアメリカ太平洋艦隊司令長官となり、終戦までその地位にあった、チェスター・W・ニミッツ元帥は、次のように書いています。(着色と強調は、筆者が施しました)

「日本軍の真珠湾攻撃数時間にして、日本船舶に対する無制限潜水艦戦の命令が出されたとき、国際公法に従って作戦行動をとるよう長い間訓練されていたアメリカの潜水艦乗員は、びっくり仰天した。それは伝統と絶縁することだったからである。回顧すれは、合衆国がそもそも第一次大戦に参戦した理由なるものが、実にドイツの無制限潜水艦戦の宣言に挑戦する行為であったからである。ワシントンからの命令の結果として、米軍の士官も兵員もその考え方を再調整しなけれはならなかった。その命令はあくまで現実に即したものであった。およそ近代総力戦においては、いわゆる戦時禁制品と非戦時禁制品との問にはもはや効果的な区別は存在しないというのである。一国の全船舶は戦争中には重要任務を負うものであり、重要品目たる石油、鉄、ゴム、スズ、米および石炭を運ぶ日本の油送船や貨物船は、戦艦や空母と同様に戦争機械の一部分そのものであった。」

C・W・ニミッツ、E・B・ポッター共著、実松謙・富永謙吾『ニミッツの太平洋海戦史』(恒文社 1992年)P387

<用語解説>

無制限潜水艦戦

 これは、世界史の教科書にも載っていますから、分かりますね。潜水艦を用いて、軍艦と民間人の乗る商船との区別なく、無制限に撃沈する作戦です。第一次世界大戦では、ドイツのこの作戦によって、アメリカ商船ルシタニア号が撃沈され、それがアメリカ国民を憤慨させ、それまで中立を守っていたアメリカの対独参戦を促すきっかけとなりました。


 つまり、日本との戦いが始まる前は、潜水艦の魚雷を使って、軍艦以外の商船を無制限に沈めることは、アメリカ海軍の軍人や兵にとって非常識きわまりないことでした。しかし、戦略的見地から、油送船や貨物船の撃沈が重要であると判断すると、指揮官も命令を受ける潜水艦隊も、その重要性と使命を理解して、日本の船団の撃沈、つまり、通商破壊に乗り出したのです。このこだわりのない合理性は、アメリカ国民の美点でしょう。
 この
合理的な決断が、日本の、「大東亜共栄圏」のシーレーンを潰滅させ、日本を敗戦へ追い込むことにつながりました
 一方の日本海軍の潜水艦の用兵はどうだったのでしょうか。
 そもそも、「戦艦大和について考える4」で説明したように、日本海軍が来襲するアメリカ艦隊を撃滅するプランは、次のようなものでした。

  • 第1段階…潜水艦部隊の魚雷攻撃

  • 第2段階・・・マーシャル諸島、マリアナ諸島などの島にある陸上基地から飛び立つ飛行機による爆弾・航空魚雷攻撃

  • 第3段階・・・軽巡洋艦と駆逐艦による水雷戦隊による魚雷攻撃

  • 第4段階・・・戦艦部隊によるアウトレンジ戦法による攻撃

 これが、日本海軍の潜水艦部隊の役目を雄弁に物語っています。
 つまり、
艦隊決戦に用いられるべき部隊という位置づけでした。

 ニミッツ提督は、日本海軍の誤りについて、次のように辛辣に指摘しています。(着色と強調と行間設定は、筆者が施しました)

「 しかし、日本潜水艦自体の技術的欠陥が、その比欝な無力ぶりに対してある程度まで影響しているのはむろん のことである。日本潜水艦は戦争末期に至るまでレーダーを装備しておらず、その水中探知装置はドイツのUポートのものよりはるか劣っていて、対抗手段に対してほとんど役に立たないような代物であった。とはいえ、日本側の混乱と不振の由来は、主として最高統帥部の側における戦略的無定見に帰すべきである。日本帝国海軍は その強力な潜水艦部隊を、連合軍の商船隊攻撃という正統作戦にけっして振り向けたことがなかった。日本戦争指導者たちが、近代戦における補給輸送部門の大切な地位を重視しようとしなかったことは明白である。
  ドイツ側が、貨物輸送船に対する武器として有効なものは潜水艦を置いて他にないことを指摘し、日本の水中艦隊を連合軍の商船隊攻撃に使用するよう再三再四ロを酸っぱくして促したとき日本側は判で捺したように、日本潜水艦は敵の軍艦攻撃にしか使わない
のだとはねつけた。そこで、米潜水艦が日本の貨物船に対する絶え間のない攻撃によって、その戦争潜在力を涸渇させつつあった間、日本側は米艦隊がそれに依存していた脆弱な油送般や貨物船には目も呉れず、警戒充分な艦隊はかりを狙って潜水艦を繰り出した。
 連合軍が飛び石戦法をとりはじめるや、絶望的になった日本は、何を血迷ったか、次善の策である艦隊政撃という目的さえ放棄してわき道にそれてしまった。孤立した守備隊に補給をするため、陸軍の主張によって、日本首脳部は潜水艦を貨物運搬艦として使用しはじめた。日本の優秀な潜水艦も次第にこのようなとんでもない不当な任務を無理やり押しっけられるようになった。連合軍部隊はますます本国基地から絶えず増大する距離を行動し、かつだんだん日本側基地により近く作戦しっつあったにもかかわらず、日本潜水艦の活躍は向上するどころか確実に低下の一途を辿っていった。
古今の戦争史において、主要な武器がその真の潜在威力を少しも把握理解されずに使用されたという稀有の例を求めるとすれは、それこそまさに第二次大戦における日本潜水艦の場合である。

C・W・ニミッツ、E・B・ポッター共著、実松謙・富永謙吾『ニミッツの太平洋海戦史』(恒文社 1992年)

P384

 敵海軍の大将に、こうまでこけにされると、頭に来てしまいますが、当たっているだけに仕方ありません。
 両海軍のこの発想の違いを示す具体的な数字として、戦時中の潜水艦建造の計画の違い挙げることができます。
表3 日米海軍の戦時中の潜水艦建造計画
日本 項目 アメリカ
 64隻 開戦時の保有隻数 110隻
139隻 開戦後の建造計画 180隻
超大型18隻
大型  78隻
中型  43隻
計画の内容 ガトー級という中型で
同一艦種180隻
126隻 実際の建造隻数 200隻
14隻 cf航空母艦建造数 136隻

 日本が、艦隊決戦用に、最大水中排水量6500トンもの大型潜水艦を18隻も計画していた(実際の建造数は3隻)のに対して、アメリカは、1500トンのガトー級1種類を、ひたすらたくさん作り続けました。改良型や違うタイプをいくつも作って、建造隻数を滞らせるよりも、多少不便でも同じ型の艦をたくさん作って、日本の艦艇や商船を1隻でも多く沈める方が効果があると考えてのことでした。つまり、対費用効果がいちばん高まる方法をとったのです。見事な合理性です。

 潜水艦の建造隻数は、
日本とアメリカとでは、126隻対200隻と、航空母艦のそれ程決定的な、言い換えれば絶望的な大きな差となっていません。
 つまり、
工夫すれば何とか同様の効果を発揮できたのに、やり方を間違ってしまったのです。
 
 この結果、日米の潜水艦による戦果は、圧倒的な差となりました。
表4 日米海軍の戦時中の潜水艦による敵艦撃沈量
日本 戦果 アメリカ
 11万5000トン 撃沈した敵艦艇 57万7000トン
25万2000トン 同商船(タンカー含む) 505万3000トン

この部分は、表3・4も含めて、三野正洋著『日本文の小失敗の研究』(光人社 1995年)P122〜128を参考に叙述

 日本海軍が、潜水艦部隊を通商破壊に用いることができなかった理由として、戦術上は次のことが考えられます。

  • 戦艦など水上艦艇において日本海軍はアメリカ海軍の6割ほどしかなく、潜水艦部隊が、その劣勢をはね返す戦力として期待された。

 しかし、通商破壊ということに目もくれなかった理由として、戦術上の問題などではなく、もっと深層の心理が働いていたと考えるのはいかがでしょう。
 その
深層の心理とは、武士道の伝統を引き継ぐ、「名を残す」こと、つまり、名誉への執着です。

 具体的には、日本海軍の軍人として命を賭けて戦う以上、商船の撃沈などという補助的な任務ではなく、
戦艦・航空母艦の撃沈という主役を演じて、華々しい戦果を挙げたいという、武士道以来の伝統的な心理です。
 脇役としての地道な努力というのは、手柄、誉れにはならないという考えが、戦術上の理由以上に、潜水艦の使い方を誤らせてしまったと私は考えます。

 このおかげで、アメリカ軍は、護衛艦艇の運用も苦労しなくてよくなりました。
 ドイツの潜水艦のように、執拗に商船をねらう敵がいれば、それを守るための大規模な護衛艦隊が必要ですが、日本潜水艦相手では、それが必要ではないのです。
 さらに、日本海軍は、敵の潜水艦を撃退する兵器の開発にも、不熱心でした。その結果、これだけの大きな戦果を挙げたアメリカ潜水艦部隊でしたが、損害は意外なほど小さくてすんだのです。
表5 日米海軍の戦時中の潜水艦の被害
日本    アメリカ
 131隻 撃沈したされた潜水艦数 41隻

連合軍には、オランダ・イギリスの潜水艦も含まれていました。このうち、オランダ海軍潜水艦5隻も失われています。

伊藤正徳著『連合艦隊の最後』(角川文庫 1974年)P309、319

 有名なモリソン戦史はこのように言い切っています。(行間明けと文字着色はこちらで勝手にやりました。)

「 1943年までに米海軍は、太平洋戦域で商船の護衛を中止し、護衛艦をよりよい目的に使うことができた。(中略)

 同様に、奇妙で、ほとんど愚かしかったといえることは、島国の日本が自身のライフラインである商船隊を守ることを怠っていたということである。このことは、日本の戦争指導者たちが、防衛的な戦争という事実に直面することを拒否したと推測する以外は説明のしようがない。
 その証拠に、1942年〜43年の間、日本海軍は空母20隻の建造を決定したが、それらは防衛戦略に役立つものではない。そして「大和」級戦艦の船体を利用して、スーパー空母「信濃」に改造した。この同じ資材から、
彼らは駆逐艦と小型の護衛艦を数百隻建造できたはずだ。1943年末にいたるまで、護衛艦隊は編成されず、十分な量に達するにはいたらなかった。

 日本が終戦を迎えたとき、その対潜装備は開戦時と同じだった。非常に正確に作動する爆雷も、航空機搭載用対潜爆弾もなかったのである。
彼らは敵潜水艦に損傷を与える爆雷を、どこに投下するかという主に数学的な方法を解決できなかった。日本は対潜攻撃法を手中にできず、そして米潜水艦を攻撃したときには、いつでも撃沈したとひとりよがりに考えていた。彼らが多くの撃沈の機会に恵まれていたことは、われわれの航海記録が示しているが、勝利に結びつくことはなかった。」

サミュエル・E・モリソン著大谷内一夫訳『モリソンの太平洋海戦史』(光人社 2003年)P377-378


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