名鉄揖斐線・廃線物語
 説明的写真集
04
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 □樽見線交差
    
 はじめにクイズです。樽見鉄道交差部分の謎。                         

 名鉄揖斐線は美濃北方と真桑の間で、第3セクターの樽見鉄道と立体交差します。下の地図で確認してください。東西に走るオレンジの線が揖斐線です。中央やや西よりを南北に走るのが樽見鉄道です。現在は、大垣と樽見の間を結んでいます。

交差地点の北側、樽見鉄道の北方真桑駅から、交差部分を撮影した写真。モ770形が通過しています。(撮影日 04/10/23)

交差地点の南側から撮影した写真。レールバスが単行で大垣に向かいます。(撮影日 05/02/20)


【ちょっといい写真1】

(画像をクリックしてください。拡大写真が登場します。)

DE105機関車  電車+レールバス1 電車+レールバス2
05/03/05追加

 ごく普通のどこにでもある立体交差ですが、ここにちょっとクイズになりそうな秘密があります。
 ここでは、上を名鉄揖斐線が、下を樽見鉄道が走っています。普通に考えると、上を走っている揖斐線の方が後から建設されたということになります。

 ところが、事実は逆です。
 名鉄揖斐線のこの部分の開通は、1926年のことです。
 樽見鉄道の前身、国鉄樽見線のこの部分が開通したのは、1956年3月のことです。
 なぜ、後から開通した樽見線の方が、下をくぐっているのでしょうか?

 答えはさほど難しくはありませんが、格好の地理の問題です。
 次の2枚の写真がヒントです。


【写真2、ヒントです】

(画像をクリックしてください。拡大写真が登場します。)

樽見鉄道交差のすぐ東 付近の航空写真

 正解です                                              | このページの先頭へ |

 あとからできた樽見線が揖斐線をくぐっているのですから、答えはすごく単純です。
 古い方の揖斐線が土手の上の高いところをはじめから通っていて、あとから敷設された樽見線が、その土手の部分をくりぬいて立体交差となったのです。 

 しかし、これだけでは、地理的な答えにはなりません。
 問題は、なぜ、土手の高いところを通っているかです。
 まずは、それぞれの現場写真です。

樽見鉄道との交差部分

糸貫川ショッピングセンター裏の土手

美濃北方駅西 土手の上りはじめ

美濃北方駅


上左の写真 
 上の航空写真のBポイントでA方面から来るモ780形を撮影したもの。線路は高さ4mほどの土手に敷設されています。

上右の写真 
 航空写真のCポイントでB方面へ向かうモ780形です。

左の写真 
 美濃北方からCポイントを通って、まもなくBポイントにかかろうとする車内から撮影したもの。進行方向左手は、航空写真のBポイントの南に白く見える糸貫川ショッピングセンターです。


 写真でわかるように、美濃北方駅の90m程西から、樽見鉄道との立体交差の西まで、揖斐線はずっと土手の上を走っているのです。距離にして500m以上になります。


なぜ500mもの長い距離、土手の上を走るのか?                    | このページの先頭へ |

 では、なぜ、500m以上も土手の上を走っているのでしょうか。
 すぐ上の航空写真、または、上の「付近の航空写真」をもう一度見て、なぜ、土手の上を走らなければならなかったのか、考えてみてください。
 ただし、現在の写真から捜しても、直接には、長く土手の上を走る必要性・理由は見つかりません。この場所に鉄道が敷かれた1926年当時、この付近がどうなっていたかを、現代の写真から読み取ってみてください。 
 
 写真でよくわからない場合は、下の2枚の地図を見てください。1947年と1983年の地図です。これならもうおわかりですね。


1947(昭和22)年の北方町の地図

1983(昭和58)年の北方町の地図


 土手の意味                         | このページの先頭へ |

 500mもの区間、高い土手の上を通っているのは、実は、上の写真のBとCの中間にある、川に原因があったのです。
 上右の地図では、左手に斜めに北西側から南東川に流れている川です。名前を
糸貫川といいます。
 
 この川は、現在では、下の写真にあるように、両岸をしっかりとコンクリートの護岸で固められたm
幅50mもないほどの普通の都市河川です。とても大河とは言えません。 


糸貫川鉄橋を渡るモ780形。鉄橋の手前には町道が橋が架かっていて重なって見えます。

写真中央に糸貫川鉄橋を渡るモ780形が小さく見えます。橋の南の県営住宅からの撮影です。護岸の両側には住宅地が広がっています。 


昔はとても大河だった糸貫川                               | このページの先頭へ |

 しかし、この糸貫川は、昔はとても大きな川でした。
 現在の根尾川は、本巣市山口で南西方向に流れていますが、古くはまっすぐ南に流れ、
現在の糸貫川が根尾川の本流であったといわれています。
 参考までに、右の図を見てください。
 根尾川の流路の変遷図です。
 確かに、平野部に出た川は、普通にまっすぐ流れると、現在の糸貫川の方へ流れていきそうです。
 ※糸貫町編集『糸貫町史』(1982年)P9などから作成

 上左の地図では、右の地図や写真で、現在は住宅の密集地となっている部分に何もないことがわかります。そうです、そこにはとても広い河川敷だったのです。
 近代的な堤防が整備されるまでは、常時水が流れている部分はそれほど幅は広くなくても、いったん洪水となった時は、相当な川幅となったのでしょう。また、そのための、遊水池も必要でした。

 そのために、昔の揖斐線には推定200m近い長大な鉄橋とその両端にかなり長い土手の部分があったのです。
 下は、当時の写真です。


写真上左
 1932(昭和7)年の航空写真。北方町の東側の上空から西を向いて撮影されたもの。写真上部の家屋がない部分が糸貫川の河川敷。右端に、僅かに鉄橋が見えます。北方町役場編『北方町誌』(1915年)より。


写真上右
 今とは桁違いの川幅と河川敷をもった昔の糸貫川。揖斐線鉄橋の上流から鉄橋方面を撮影したもの。北方町役場編『御大典記念 北方町誌』(1915年)より。 

写真右下
 上左の写真とは少し違う角度の航空写真。
 中央が糸貫川。真ん中に道路橋があり、その右に揖斐線の鉄橋がある。昔はこれだけの長さでした。
 
 もちろんこの時代には樽見鉄道はまだ開通しておらず、写真では、糸貫川を向こう側(上方、つまり西側)に渡河して、右カーブにさしかかる手前が、現在の交差部分となります。

 ぼやけているこの写真でも、土手の高いところを長く通っていることがわかります。
 この写真は、2004(平成16)年11月16日から12月25日に北方町図書館で開催された「写真で見る北方町115年の歩み」の展示写真より複写しました。 

 
 ところで、川を越えた堤防の西側には、今は廃駅となってしまっている「
八ツ又駅」がありました。
 左上の1947年の地図には、一番左端に、半分だけ駅が記されています。

 この駅に関して、おもしろいエピソードがあります。
 
伊藤正・伊藤利春・清水武・渡利正彦編『保存版 岐阜のチンチン電車 』(郷土出版社 1997年)には旧八ツ又駅の写真が掲載されています。子ども6人と大人1人が、朝日をあびてホームで並んでいるという写真です。
 私は、最初、八ツ又駅の位置を知らずにこの写真を見て、現在の路線を歩いて確認しようとしました。しかし、どうにも、写真の光景を一致するところが見つかりません。線路のカーブの様子をはじめ、現在の路線のどことも一致するところがないのです。
 しばらくして、古地図を確認し、近くの高齢者の方にお話を聞いて確定できたのですが、その場所の光景は、やはり、写真とは異なっていました。
 その理由は何か?

 なんと、本を作る際に、ネガを左右反対に焼き付けてしまい、まったく左右逆の写真が掲載されていたためでした。
 ここに複写するわけにはいきませんが、「解決」に時間がかった人騒がせな「事件」でした。
  ※旧八ツ又駅の現在の状況は、以下に説明と写真があります。


 その後、糸貫側は護岸が整備され、川幅は必要最低限に狭められました。その結果、長い鉄橋は必要なくなり、現在の揖斐線には昔の名残りの土手だけが、長く残ったのです。
 

 そして、
1956(昭和31)年、あとから建設された国鉄樽見線の線路は、その土手の西端をくりぬいて敷設されたというわけです。これが、名鉄揖斐線と樽見鉄道の立体交差の秘密です。

 樽見鉄道が揖斐線をくぐる写真を見ると、高架橋と樽見鉄道列車との間のスペースがほとんどないことがわかります。すれすれのきわどい交差です。 
 ちょっとだけ付け加えると、一番上の大きな航空写真でわかるように、ちょうど昔の河川敷に沿って、南北に住宅地や学校・グランドが建設されていきました。そしてこの部分は、旧河川敷の東西に広がる、東西南北の座標軸にしたがって正確に整備された、律令時代の条里制の名残の水田とは、まったく違うおもむきとなっているのです。
 そうそう、現在のアピタ北方店の敷地の大半も旧河川敷です。

洪水の心配がなくなった旧河川敷には、地価が安いこともあって、戦後続々と大規模な施設が建設されました。以下に代表的なものを挙げます。(糸貫町編集『糸貫町史』(1982年)P31より)
1948年糸貫中学校
1958年濃北短大付属高等学校(現岐阜第一高等学校)
1959年都築紡績糸貫工場
     ※さらにその跡地に、2006年、日本最大級のショッピングモール、モレラMarela開業
1963年国立岐阜工業高等専門学校
1969年糸貫町農協、糸貫町役場(現本巣市糸貫支所)
1971年北方自動車学校

 そして、昔の堤防の名残は、現在も見つけることができます。最後に大きな写真で締めくくります。

  ※下の写真の撮影場所の説明

の場所には旧堤防道路が通っていました。それを南側から撮影した写真です。

の位置から県道23号線、樽見鉄道交差部分を撮影した写真です。

の旧八ツ又駅跡地から交差部分を撮影しました。


【写真3】

(画像をクリックしてください。拡大写真が登場します。)

1 旧八ツ又駅 2 3両編成on交差 3 旧堤防から

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