名鉄揖斐線・廃線物語14
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 □断章 その2
    
 意外なところからの撮影                          

 写真というものは、普通の方が考えつかない所から写すと、非常にオリジナル性が強い写真となります。
 しかし、あまり意外性が強いと、わかのわからない写真となります。
 次の写真はその典型です。


 左の写真は、政田駅東の田んぼから夕刻に撮影した、揖斐線上り電車とリバーサイドモールの観覧車です。
 リバーサイドモールというのは、揖斐線の数キロ南にある県道岐阜−関ヶ原線沿いにあるショッピングモールです。
 本当は夕方ではなく夜に撮影したいのですが、そうすると、電車がただの光の帯になってしまいます。
 (撮影日 05/02/11)
 


 政田駅に電車が停車している時は、夜でも観覧車と電車の両方が撮影できるわけです。
 しかし、実は、政田駅の観覧車と反対側区域は民家が建て込んでいて、遠くから電車と観覧車の両方をとらえる撮影場所がありません。
 仕方なく、ホームから電車と観覧車を一緒に撮影すると、右の写真となります。
 これは、説明しなければ、きっと合成写真と受け止められます。
 実は、偶然撮影できた、本物です。
 だから何なんだと言われても、何でもありません。失礼。(^.^)

(撮影日 04/12/28)


 リバーサイドモールの観覧車にこだわって数ヶ月、ついに、逆転の発想を思いつきました。
 観覧車を撮影するのではなく、観覧車から揖斐線電車を撮影することです。
 揖斐線の美濃北方駅以西にはマンションなどの高層建築物は少なく、高いところから撮影するとしたらここしかないという場所だと思いました。
 時刻表と観覧車の回転所要時間を計算してうまく撮影した写真が、左のものです。薮川橋梁を渡るモ780形です。
 だから何なんだと言われても、またまた何でもありません。再度失礼。(^.^)
(撮影日 05/01/03)
  


 歴史と揖斐線                                     | このページの先頭へ |

 鉄道の沿線には、どの鉄道も、歴史的な名所があるものです。揖斐線にもいくつもありますが、普通の本では取り上げられていない所を2カ所紹介します。


 右の写真は、政田駅の南、本巣市真正町にある「東山道跡」(とうざんどう)です。
 東山道というのは、7世紀末律令制度の時代に、大和の都から地方に向かって整備された7つの官道(今の国道)の一つです。(残りは、東海道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道)
 東山道は、近江、美濃、信濃、上野、下野を経て、陸奥の多賀城(現仙台市の近く)まで続いていました。
 この道は内陸部の山岳地帯を結んでいたため、「山の道」とか、「山道」、「仙道」とか呼ばれていました。

 この政田駅の南には、「仙道上」「仙道下」の小字名が残っています。
 東山道は、江戸時代の中山道と重なっている部分もありますが、美濃地方においては、別ルートとなっている場合の方が多いです。
 この地域でも、中山道は、ここより南3km程の瑞穂市巣南町美江寺を通っていました。 
(撮影日05/03/05)


 この写真は終点黒野駅の1つ手前の相羽駅の西に隣接する相羽城址です。
 相羽城は、2つの一族の拠点となった歴史をもちます。
 最初は、美濃では有名な土岐氏の一族の土岐光俊とその子孫3代で、鎌倉時代末から室町時代初めにかけてこの地を居城とし、饗庭(
あえば)氏を名乗りました。
 続いて、16世紀前半の天文年間に垂井から長屋景興が移り住み、饗庭氏の城跡を整備して居城としました。
 しかし、美濃の戦国大名斉藤氏と元守護土岐頼芸との争いで土岐氏に味方したため、斎藤道三に攻めら

 れ、1547(天文16)年に城は落城しました。
 以後ずっと放置されていましたが、近年史跡として整備されました。(『大野町史』P14などを参考に記述)

(撮影日04/11/23) 


 思い出                                        | このページの先頭へ |

 6ヶ月あまりの揖斐線取材の中で、思い入れのある写真は数々ありますが、そのうちで今まで発表していなかったものを2つだけ掲載します。


 これは、薮川(根尾川)橋梁の西側、下方駅を忠節方面に出発して鉄橋にかかるモ780形の写真です。

 雪のシーンも美しいですが、冬枯れの野原と、雪がかかった山というのも是非撮影したいと思っていました。
 「明日は、山だけにうまく雪がかかっていそうだ」という時は、目覚まし時計をあわせて、何度も早起きしてこのポイントにおもむきました。

 しかし、雪の降り方が中途半端だったり、朝になっても雲がかかってしまったりと、なかなかいいチャンスは訪れませんでした。

 3月になってもはや雪は無理かと思っていたところ、中旬に思いがけない寒波が訪れ、この写真のようなちょうどいいコントラストの写真となりました。ラッキーでした。 (撮影日 05/03/13)


 黒野駅の駅舎の中から島式ホームの端にある「運転室」。

 この小さな部屋が、揖斐線全線の運転の指示を出す部屋でした。
 ここに駅務で忙しいところ何度もお邪魔して、いろいろなお話を伺いました。

「夜10時過ぎると、発車する電車もなく、到着も30分に1本ですから、忙しくありません。」といって、いろいろ興味深いことを教えていただいた駅員さん、本当にありがとうございました。
(撮影日 04/11/24)


 錆びるレール                                   | このページの先頭へ |

 3月31日の深夜に最後の電車が走った後、電車が走らなくなると、レールというのはすぐに錆びてしまうものですね。


 濃尾平野の北部にもやっと春がやってきました。
 4月中旬、河川敷のセイヨウカラシナが満開に。

 この鉄橋も、鉄道が廃止になると、河川法に基づく「占有」ができなくなるはずですから、やがて撤去されるでしょう。(撮影日 05/04/16)


 見事にきれいな?サビが浮いたレール。廃線9日目、尻毛駅で。
 踏切は工事用トラ柵が置いてあり、線路に入れないようになっています。
 この時点では、まだ半数ぐらいの車が踏み切り通過の際にしっかりと速度を落とします。
 
 (撮影日 05/04/09)


 砕石を運ぶ黒い貨車が1番線に止まっている以外、電車はひとつもいなくなった廃線後の黒野駅。

 レールのさび色が妙に浮き立って見えます。(撮影日 05/04/09)


 嫁ぎ先                                         | このページの先頭へ |

 中日新聞その他によると、揖斐線・美濃町線など岐阜市内及び周辺600V線区を走っていた電車群の売却先が決まったようです。
 1980年以降に製造された車両は、福井県の福井鉄道と愛知県の豊橋鉄道に再就職ということになりました。


 廃止になった3線を走っていた中で、2000年導入と最も新しかった、美濃町線専用車の低床車モ800形は、3両あるうち2両が福井鉄道へ、1両が豊橋鉄道へ行きます。
 (撮影日 04/10/24)


 市ノ坪の車庫に待機するモ780形とモ770形。
 揖斐線車両としては最新型のモ780形7両は、すべて豊橋鉄道に行きます。
 4編成あるモ780形は、すべて福井鉄道に行きます。
 ところで、写真の左手前に「死区間」という表示があります。何も知らないと事故か何かがあった恐ろしげな区間に思えますが、実は全然違います。
 各務原線の田神駅から分岐して市ノ坪駅を経て美濃町線に接続する田神線の電圧は、最初は各務原線と同じ電圧1500で、途中で600Vに変わります。

写真の右は各務原線のレール、錆びている左のレールはは市ノ坪へ向かう田神線のレールです。実は、この荒田川の橋の部分が電圧が切り替わるための「無電」の区間、死区間だったのです。  (撮影日 05/04/10)


 市ノ坪の車庫と駅で待機する、揖斐線モ780形と、美濃町線モ880形(赤い電車)。
 一番右側の電車は、3線の最終日に最終電車として新岐阜駅から新関駅に向かい、深夜最も遅く回送されてきた電車です。つまり、真に最後まで走った電車です。

 この赤いモ880形も、モ770形と同じく、福井鉄道へ行きます。
   (撮影日 05/04/10)


 市ノ坪の東の部分に待機する、モ780形、モ510形(赤と白)、モ590形(赤)、モ600形(赤に白帯)。

 モ780形は上述の様に豊橋鉄道に行きますが、残りの電車は、1926(大正15)年製造のモ510形を筆頭に、製造年が古いため、引き取り手はありません。

 モ510形は、保存運動が起こっていますが、費用もかかるため、まだ具体的にどこにどう保存されるかは不明です。
 (撮影日 05/04/10)


 さて、断章も1・2と書いて、これで終わりです。

 撮影した写真でまだ公開していないものは山ほどありますが、もうこれぐらいでやめておきましょう。

 次回の揖斐線廃線物語は、モ770形やモ780形が嫁いでいった後、その嫁ぎ先での活躍を追うことになるでしょう。
 まだ少し先のことです。


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