名鉄揖斐線・廃線物語10
| メニューへ | | 前へ | | 次へ |

 □10 2001年9月末谷汲線、揖斐線一部廃止
    
 これまでに廃線となった岐阜市内及び周辺路線             

 2005年3月31日限りで廃線となる岐阜市内線及び揖斐線、美濃町線の他にも、岐阜市周辺には、それ以前に廃線となった名鉄路線がたくさんあります。
 いずれも、現在の路線とつながっていた路線でした。

 次の地図は、その一覧です。各路線の各路線の概要と廃止年月日は、下表をご覧ください。  
  



番号

路線名

区間

開業年月

廃線年月

備考

@

高富線

長良北町−高富

1913

1960/04/22

長良軽便鉄道により開業

A

鏡島線

千手堂−西鏡島

1924

1964/10/04

鏡島弘法への参詣路線として、鏡島までが開業。戦後1954年西鏡島まで延長。

B

長良線

徹明町−長良北町

1915

1988/06/01

1911年岐阜駅−今小町間開業。1915年長良橋を渡り、高富線と接続。

C

美濃町線の一部

新関−美濃

1911

1999/0401

美濃電気軌道開業以来の路線であったが、新関以北は廃線となった。長良川鉄道との連絡のため、新関−関間が新設された。

D

揖斐線の一部

黒野−本揖斐

1928

2001/10/01

美濃電気軌道は、1928年黒野−本揖斐間を延長。

E

谷汲線

黒野−谷汲

1926

2002/10/01

美濃電気軌道の美濃北方−黒野間延長に合わせて、別会社の谷汲鉄道によって開業。


 1911年開業直後の美濃町線美濃町駅(開業当初は上有知(こうずち)駅と称した。)美濃町駅の位置は2度変更され、2度目の移転で、廃線時の美濃駅の位置に。
 ※『美濃町案内』(1915年美濃町役場発行)より。

 旧長良橋を渡る大正時代末期の長良線電車。
※多和田栄三郎著『名勝名物岐阜案内』(1923年)より。


 高富線、鏡島線の廃線は、ずいぶん昔のことになります。鏡島線廃止は、日付から言うと、東京オリンピック開会式の1週間前ということになります。
 しかし、廃線の時は、私自身は、それぞれ5歳と9歳でしたし、また、両線が当時の私の生活エリアから離れた場所の路線であったこともあって、ほとんど記憶はありません。

 一方、3つ目の廃線、長良線は、1988年つまり、昭和63年のことですから、まだついこの前の話です。
 高度経済成長期は、今と違って、路面電車を保存しようという動きはまだなく、モータリゼーションの波によって、むしろ電車は邪魔者扱いされていました。
 岐阜市議会は、昭和40年代には、「名鉄市内線廃止について」決議をしています。
  ※徳田耕一著『名鉄の廃線を歩く』(JTB 2001年)

 その後、オイルショックによって、路面電車の価値の見直しも起こりましたが、この長良線については、平行してバス路線が整備されていたため、廃止については、特に目立った反対運動は起こりませんでした。
 この年7月、岐阜市において、「岐阜中部未来博」という、この時代にあちこちで流行った、「地方博」が開催されました。なんと、この路線の廃線理由は、「岐阜中部未来博にともなう交通混雑の解消」でした。つまり、路面電車は、自動車の通行の邪魔というわけです。

 上左は、5月29日、つまり最終営業日2日前の終点長良北町電停にとまる「廃線記念 花電車」です。
 ボディ下部には、利用者への御礼、上部には「成功させよう未来博88」と書かれています。未来博のために廃線となるというのに、けなげなメッセージです。

 上右は、岐阜公園前電停東の花電車。同じ電車に見えますが、花飾りの色が違いますから、別の電車です。
                                                          (撮影日 88/05/29)    


 谷汲線・揖斐線(本揖斐−黒野)の廃止                     | このページの先頭へ |

 さて、ここの話題は、現在の揖斐線に接続されていた、谷汲線(黒野−谷汲)、揖斐線の黒野−本揖斐間の廃止についてです。
 谷汲線は、黒野から谷汲までの11.2km。西国33カ所巡礼の満願霊場、谷汲山華厳寺の門前町谷汲へ参詣者を運ぶ鉄道として開業したのは、1926年のことです。
 しかし、廃線前数年は利用客は極端に少なくなり、電車本数も、1時間に1往復となっていました。
 また、揖斐線黒野−本揖斐間は、当初は当然ながら1本の同じ揖斐線として運行されており、以前にお話しした揖斐線−岐阜市内線の直通急行も、本揖斐−新岐阜間に運行されていました。

 しかし、黒野−本揖斐間は、特に利用者の減少が著しく、1984年のダイヤ改正で、直通列車の運行は、新岐阜−黒野間のみとなり、黒野−本揖斐間は、単行電車の折り返し運転となってしまいました。
 つまり、これ以降は、この運転系統の分離により、黒野−本揖斐間はまるで別路線のようになっていたのです。
 この処置の結果、乗り換えの不便さもあってされに利用客はさらに減少し、1999年には営業係数は495(100円の収入を上げるのに495円の経費)となってしまいました。
 かくて、両路線は、2001年9月30日の最終電車を最後に廃線となりました。  


 左右は、同じ時に撮影した連続した写真です。
 黒野駅の東から、勢揃いした電車群を撮影しています。
 画面の左が@番線です。@番線の赤い電車は、本揖斐行きモ750形。
 A番線の青い電車、新岐阜行きモ780形。後ろに黄色い塗装の同じモ780形がいます。この塗装はこの時期の独特の塗装で、今はありません。
 B番線の赤と白の電車は、お馴染みのモ510形です。谷汲行きの臨時電車です。
 そして、車庫に、現在と同じ塗装のモ770形が止まっています。 (撮影日 01/09/23)


 上左、廃線前の黒野駅の航空写真。黒野駅から西へ向かうのが揖斐線。90度カーブして北へ向かうのが谷汲線。(国土交通省国土情報ウェブマッピングシステムの航空写真1975年より。)

 上右、3両連結でたくさんのお客を運ぶ谷汲線のモ750形。通常はもちろん1両のみの運行でしたが、廃線間近の日曜日にはどっとファンが押し寄せ、臨時列車も連発されました。(赤石−長瀬間 撮影日 01/09/23)


| メニューへ | | 前へ | | 次へ |