名鉄揖斐線・廃線物語06
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 □名鉄の現状V
    
 C名鉄岐阜駅手前                        

 の、名鉄岐阜駅のすぐ南側のカーブの説明です。
 

 緑色のJR東海道線は、岐阜駅を出たあと、1キロほど東に向かい、JR高山線と分かれ、ゆっくりしたカーブを描いて進路を南にとります。
 そして、上述の
で説明してきたように、そのままあとはまっすぐ名古屋へ向かいます。

 一方、名鉄名古屋本線はというと、
の名鉄岐阜駅を南向きに出たあと、すぐに急カーブで一度東に向きを変え、ほんの1キロほど走って、また急カーブで南へ向きを変えて、そのあとは上の説明の地点、笠松・木曽川鉄橋へ向かいます。
 このふたつのカーブのため、名鉄岐阜駅を出てから、次の
の加納駅をすぎて南へ向かうまでは、たとえ特急といえども、スピードはあまり出せません。 
 路線はどうしてここで2つのカーブをなしているのでしょう?
 ここにもまた、名鉄の創業以来の歴史があります。
 

 国土交通省ウェブマッピングシステムの1975年の航空写真より作成。ちょっと古い写真ですが、基本的な位置関係は同じです。ただし、、以下の写真で示すように、JR線は今は「3階高架」となっています。 


 この区域の路線をはじめに建設したのは、合併前の美濃電気軌道です。
 美濃電気軌道は、1911(明治44)年にはじめて、
岐阜駅前−今小町間、神田町−上有知間の路線を開業したあと、岐阜市内の路線を伸長するとともに、岐阜市から南へ、木曽川河畔への進出を図ります。
 
 1914(大正3)年6月、
岐阜市から笠松までの路線(4.4km)が完成しました。笠松は、上のの笠松です。
 ただし、この時の岐阜の始発駅は、今の名鉄岐阜ではなく、東海道線の南の広江駅でした。図のの場所です。つまり、当初はこの広江駅が、美濃電気の岐阜市南部への郊外線の起点駅だったわけです。

 現在はというと、この広江駅
は存在していません。1914年6月2日開業のこの由緒ある駅も、1958年にすぐ東に加納駅が開業して旅客を奪われたことなどが理由となって、1968年に廃止となりました。


 現在の広江駅跡
 左写真の踏切の前後が広江駅。左線路、上り名古屋方面は踏切の向こうに、右下り岐阜方面線路は踏切の手前にホーム跡が残っています。線路のはるか遠方には、加納駅の島型ホームが見え、上り電車が止まっています。

 右写真、ホームを造っていた土壇がかすかに残り、コンクリートの枠のみが残っています。もともと2両編成の普通電車が止まる小さな駅でした。

 しかし、広江駅が起点駅であった期間は、ほんの僅かでした。広江−笠松間の開通から3ヶ月後の1914(大正3)年12月、路線は、当初の計画通り、広江から北に0.7km延長されました。
 広江駅の西で大きく北にカーブし、東海道線を越えて、さらに西にもう一度カーブして市内線に接続できるところに、
新岐阜駅が開設されたのです。
 広江駅から東海道線を越えるところまでは現在の路線(右写真中の赤線)を通り、その先で西に曲がっていました。(写真中の黄色の線、
が開設されたばかりの新岐阜駅の場所)
 新岐阜駅は、このあと、
戦後1948(昭和23)年4月に、現在位置に移転しました。右写真中のです。

 この路線変更のおかげで、ひとつカーブは減りましたが、2つの急カーブはそのまま現在まで受け継がれており、本線のスピードアップの障害となっています。  
 この路線変更のおかげで、ひとつカーブは減りましたが、2つの急カーブはそのまま現在まで受け継がれており、本線のスピードアップの障害となっています。  

 左の写真は、開業当時の美濃電気軌道新岐阜駅。場所は、上の説明写真のの位置。 (名鉄資料館にて撮影)

 右の写真は、このページの記述の典拠資料となった
『名古屋鉄道百年史』(名古屋鉄道株式会社広報宣伝部編纂 1994年)。 当たり前ですが名鉄のことは何でもわかる本です。ただし、価格は5000円。名鉄資料館に連絡すると購入できます。送料が必要です。
 資料館の担当の方が、「京都の古本屋で、2万5000円で売られているそうです。価値がありますよ。」といわれて、思わず買ってしまいました。資料館の説明はこちらです。  
   


 左の写真は、現在の名鉄名鉄岐阜駅の南、JR東海道線の高架を南側にくぐったところから、名鉄岐阜駅方面を撮影。開業当時の新岐阜駅は、写真の右手の現名鉄線からJRの高架の向こうで左に曲がり、写真の中央を横切って左手の市内線接続部分まで伸びていました。JRが高架になる前の「東陸橋」の部分がそのルートです。現在は、平面道路となり、改修が進んでいます。写真左手の樹木の横のビル上の白い広告塔は河合塾ビルのものです

 JR高架の奥が現在の名鉄岐阜駅と百貨店。
 美濃電気軌道線が開業したとき、すでに東海道線・高山線の線路があったため、線路は高架でその上をまたいで北側に入りました。現在は、JR線がすべて高架となったため、逆に名鉄の上をJRがまたいでいます。道路が平面、名鉄が2階、JRが3階といった感じです。(撮影日 04/11/28)
 
 右の写真は、JR岐阜駅から見た旧新岐阜駅の場所。白い高いビルは河合塾ビル。中央の2つの茶色のビルのうちの左側の場所に最初の新岐阜駅がありました。(撮影日 04/11/29)


 左上の写真は、大正末から昭和初期の時代の東海道線岐阜駅の写真です。手前には美濃電気軌道の複線の市内線線路があり、右端に電車が映っています。この写真は、1928(昭和3)年3月に岐阜市が発行した初代『岐阜市史』P376の次ページの挿入写真です。

 右上の写真は、新岐阜駅から東海道線の上をわたる陸橋を通って広江駅へ向かう電車です。
 御大典記念勧業共進会協賛会編『岐阜名勝案内大正4年』(1915年)の写真より複写しました。
 左の地図は、上述の『岐阜市史』のP242にある「岐阜市現勢図」から、岐阜駅・柳ヶ瀬など岐阜の中心部を複写したものです。図中の赤線は、美濃電気鉄道線路です。
 

A

東海道線岐阜駅。 

B

当時の美濃電気鉄道新岐阜駅。

C

各務原線の新岐阜駅。

D

徹明町交差点。

E

美殿町。美濃町線の起点。当時の美濃町線は、ここから東南東へ向かい、途中で金園町通りに入った。

千手堂交差点。1964(昭和39)年までここから西には鏡島線が営業していた。


【2005/09/19追記】

 名鉄岐阜駅(旧新岐阜駅、05/02/01に改称)から見た、上の地図の当初の新岐阜駅の場所の現在の姿。

 写真中央青い大きな道路表示板の左側のあたりに、当時の新岐阜駅がありました。
 この地区は、JR高架後の岐阜市で、最も変貌した地区の一つです。
 
 写真中央の緑地帯の部分にあった、旧国道157号線が整備され、広々とした景観に代わりました。
(撮影日 05/08/16)


 左上の写真は、上の写真を少し角度をずらして撮影したものです。(撮影日 05/08/16)
 右上の写真は、2005年夏に一部竣工した岐阜駅前の高架歩道の上からの、名鉄岐阜駅ホームを撮影したもの。 上、左上の写真とは逆方向からの撮影です。(撮影日 05/09/17)


 左上の写真は、1948年4月移転したあとの新岐阜駅の様子です。(撮影は1956年)
 右奥が名古屋本線のホーム、道路を挟んだ左手は各務原線の新岐阜駅です。
 駅舎は、1957(昭和32)年に、名古屋駅と同様、百貨店と一体となった現在の名鉄岐阜駅に生まれ変わります。
 1955年生まれの私には、残念ながら、古い新岐阜駅の記憶はありません。

 下の2枚の写真は、現在の名鉄岐阜駅と改称(05/01/29)される前の新岐阜駅と同百貨店、発車を待つ黒野行き電車。  (撮影日 いずれも 04/11/28)  


 左の写真は、名古屋本線名鉄岐阜駅のホームの一番端から撮影した、名古屋本線唯一の単線部分です。上はJR東海道線高架部分。
 名鉄岐阜駅発の特急電車が通過する間、高架の橋脚の向こう側で、名鉄岐阜駅に入ろうとする普通電車が、ポイントが切り替わるのを待っています。
 この単線部分は、1948年に当時は平面を通っていた東海道線をまたぐ時に建設されて以来のものです。線路のつながり(ポイントの配列)の都合上の理由からだと思われますが、JRが高架となってからも、未だに改修されていません。
 これも、些細な部分ですが、本線のスピードアップを阻んでいます。


 名古屋鉄道の現状                             | このページの先頭へ |

 「揖斐線廃線物語」が、ずいぶんと脱線してしまって、名古屋本線建設物語となってしまいました。
 ここらで、話題を揖斐線につなげなければなりません。

 ここでは、要するに、
名古屋本線がJR東海道線とのスピード競争の点で、非常に不利な立場にあり、経営的に苦しい状況にあるということを理解していただければ幸いです。

 現在の名鉄の鉄道部門の輸送人員増加・増益の期待を担っているのは、2005年に開業する常滑線から中部国際空港に乗り入れる中部国際空港線と、名古屋市内の地下鉄との相互乗り入れです。

 前者は、空港開設に伴うもので、新しい特急車両2000系の投入もあって、今の「旬」の話題です。
 
 後者の方、地下鉄との相互乗り入れは、地味ですが、名鉄としては、非常に期待している部分です。
 地下鉄との相互乗り入れは、首都圏や他の地域では多くの路線で行われていますが、名古屋市営地下鉄と名鉄とのそれは、2004年11月現在、まだ、3例あるのみです。


名鉄路線と名古屋市営地下鉄線との相互乗り入れ

日   時

内      容

1979(昭和54)年7月

豊田線梅坪−赤池開通。赤池で名古屋地下鉄鶴舞線と相互乗り入れ運転開始。

1993(平成5)年8月

犬山線上小田井駅で地下鉄鶴舞線との相互乗り入れ運転開始。犬山線−地下鉄鶴舞線−豊田線が接続。

2003(平成15)年3月

小牧線小牧駅と地下鉄名城線平安通駅を結ぶ上飯田連絡線が開通。小牧線から名城線への乗り入れ開始。

 


 人口増加地域である、愛知県犬山、岐阜県可児・各務原と名古屋都心を結んだ1993年の上小田井駅からの乗り入れの意義について、
『名古屋鉄道百年史』は次のように表現しています。
 ※前掲書P733
「相互直通の意義
 この相互直通運転による新しい運行系統は会社100年の歴史を通じても、画期的な営業形態の変革である。それは第1に市内交通と郊外交通との融合であり、相互直通の形式ではあるが、実質的には名古屋市交通局と会社による交通機関の新しいシステムの創造ともいうべきものである。第2には名古屋市内中心部をほぼ貫通する交通ルートの設定である。従来会社の名古屋本線・JR東海道本線が同じく名古屋市を南北に貫通しているが、この3号線相互直通はより一層都心を経由するため、はるかに利便度が高い。第3には犬山線・新名古屋駅・地下鉄名古屋駅の混雑緩和の効果が非常に大きい。
 市内地下鉄を媒介とする相互直通運転は国内で数多く実施されているが、これらはすべて都市の外周鉄道の経営主体が別個であり、三者相互乗入れとなっている。
名古屋の場合は実施が東西に立ち遅れているように見えるが、市内乗入れの双方向がいずれも名古屋鉄道の路線であり二者相互間である。東西に比較して、乗車券・運賃・出改札などの面でも乗客にも鉄道にも利便は著しい。」

 同書では、このあとのくだりで、「
きびしいJRとの競争下にある名古屋本線に比較して、犬山線・豊田線は将来性豊かな有望路線であり、この両線が名古屋都心を貫通する効果は正に「画龍点睛」というべきで、100周年を迎える会社にふさわしい、究極の営業形態と見ることができる。」としている。
 そして、この画期的な輸送形態の創設を「
名鉄ルネッサンス」と持ち上げています。
 
 2003年度の名鉄の総輸送人員はそれまでの減少からわずかながら増加に転じ、営業収益は前年度比+0.3%となりました。この原因について、名鉄営業概要は「平成15年3月に開業した上飯田連絡線の開業効果もあり」と2003年3月の小牧線からの地下鉄名城線乗り入れを高く評価しています。
 ※名古屋鉄道企業情報「営業概要・成績」http://www.meitetsu.co.jp/profile/eigyo/main.html/
  


 新中期経営計画                                 | このページの先頭へ |

 しかし、上述のような期待と展望がある一方で、厳しい経営環境から不振事業の見直しも必要となっています。
 これらを総合して、会社の基本方針として表明されたのが、2003(平成15)年1月発表の「
名鉄グループ新中期経営計画」です。これは、平成15年度から17年年度を対象期間とする経営計画です。

 この中でグループの経営の強化策の第一項目には、「
不振事業の整理と経営資源の効率的利用」が掲げられ、「グループの収益力向上のため、赤字が継続し将来の見込みがない事業あるいは中部圏以外の遠隔地で集積効果がない地域の事業については、整理・撤退を原則として対応します。」とされました。

 そして、具体的には鉄道事業の諸施策として、「不採算路線対策として、ワンマン化やダイヤの効率化を進めるとともに平成16年度三河線の一部(碧南〜吉良吉田、猿投〜西中金)の廃止を予定しています。また、
平成16年度を目途とした岐阜市内線以北からの撤退へ向けて関係自治体と協議を進めます。」と表明されたのです。
 ※前掲名鉄のホームページより

 当然ながら、大きな戦略的判断中での、3路線撤退決断というわけです。


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