名鉄揖斐線・廃線物語02
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 □揖斐線の歴史 and 沿線紹介part2
    
 美濃電気軌道                                         

 あとで話をする名古屋鉄道の現状を理解するためには、名古屋鉄道の成り立ちを理解する必要があります。
 名鉄揖斐線は、本来名古屋鉄道の線区として営業を開始したのではありません。
 その複雑な歴史をお話しします。

 岐阜の電車の歴史は、上有地町(現美濃市)の松久永助、岐阜市の坂井田民吉ら、岐阜市とその周辺の有力者らが中心となり、1907(明治40)年に神田町−湊町(長良川畔)間の3.5kmと、神田町−上有地間25kmの鉄道敷設免許を取得したことに始まります。
 ただし、日露戦争後の不況のただ中であったため地元だけでは資金が集まらず、大阪の資本家の援助を受けるなどして、ようやく2年後の1909(明治42)年11月、美濃電気軌道株式会社が設立され、本社が金竜町におかれました。
 美濃電気軌道は、1911年2月に、上有知(こうずち 現在の美濃市のこと)−神田町間、岐阜駅前−今小町間の2路線を開通させ、ここに現在の岐阜市内線と美濃町線の基礎ができあがりました。
 ※伊藤正・伊藤利春・清水武・渡利正彦編『岐阜のチンチン電車』(郷土出版社1997年)P20
  
 上有地町は鉄道開通直後、美濃町となり、この路線は美濃町線と呼ばれました。戦後、美濃町は美濃市になりましたが、路線名は現在も美濃町線となっています。

 この美濃電気軌道の開通に刺激されて、岐阜の周辺では、次々と軽便鉄道が開業しました。長良川の北側にも
長良軽便鉄道(1913年開業 長良−高富間5.1km)が設立され、そして、1914年3月には、忠節−北方間6.6kmに岐北軽便鉄道が開通しました。これが現在の揖斐線のルーツです。
 軽便鉄道というのは、1910年に制定された「軽便鉄道法」に基づく鉄道で、地方の小規模会社による鉄道設立を容易にするため、構造の基準等が緩く設定されていました。

 このあと、
美濃電気軌道は、1921(大正10)年に岐北軽便鉄道を併合し、路線を延長して、1926年に美濃北方−黒野間6.4kmを開通させるとともに、地元資本家と結んで別会社の谷汲鉄道を設立し、黒野−谷汲間11.2kmを開業させました。
 さらには、1928年には、黒野−本揖斐間5.6kmが延長されました。
 また、美濃電気軌道は岐阜市の南部から愛知県境へも進出し、1914年には新岐阜−笠松間(木曽川畔)の路線も敷設していました。
 
 ところが、1928年の金融恐慌とそれに続く1930年の昭和恐慌は、美濃電気軌道の経営を窮地に陥れました。
 そこで考えられたのが、当時、愛知県を中心に路線網を拡充してい
た名古屋電気鉄道との合併でした。  

 美濃北方駅、揖斐線12.7kmのほぼ中間にあり、上下線は深夜と早朝を除き、必ずここですれ違います。右は「岐北軽便鉄道発祥の地」と書かれた常夜灯風のモニュメント。


 名古屋鉄道                             | このページの先頭へ |

  名古屋電気鉄道は、現在の名古屋鉄道の前身ですが、この会社自身も何度も合併を繰り返しています。この会社の発祥とその後の概略を示すと、次のとおりです。
 ※名鉄エージェンシー編『明日へ続く道 名古屋鉄道百年の歩み』(名古屋鉄道 1995年)P338  

1894年

愛知馬車鉄道設立。

1896年

愛知馬車鉄道、名古屋電気鉄道と改称。以後、名古屋市内に路線を拡大。

1910年

愛知電気鉄道設立。名古屋市南部と知多半島に路線設立。

1912年

名古屋電気鉄道、岩倉−犬山間に開通させ、尾張北部に進出。以後郊外線を拡充。

1921年

名古屋電気鉄道、郊外線を分離し、名古屋鉄道を設立。翌年、市内線は名古屋市に譲渡され、郊外線を経営する名古屋鉄道のみとなる。

 経営が苦しくなった美濃電気軌道と、尾張北部から木曽川を越えて岐阜県への進出を図る名古屋電気鉄道との意図が一致し、1930年、両者の合併が成立しました。
 この時、岐阜の人びとの感情に配慮して、社名は
名岐鉄道となりました。
 
 その5年後の1935年、
名岐鉄道は愛知県南部に鉄道網を拡充してきた愛知電気鉄道と合併し、名古屋鉄道となりました。
 ここに、現在に直接つながる、
名古屋鉄道が生まれました。
 したがって、忠節、本揖斐間の路線も、
名古屋鉄道揖斐線となったのです。

 ここで、あとの説明につながる重要な点を、もう一度強調しておきます。
 この揖斐線が、岐北軽便鉄道→美濃電気軌道→名古屋鉄道と経営母体が変わったように、名古屋を中心とする民営鉄道は、幾度かの合併等を経て、名古屋鉄道に収束していきました。
 他の岐阜県内の現名鉄路線では、各務原線ももともとは各務原鉄道という別会社を、1935年に合併したものです。
 
 これは名古屋鉄道史から見れば、会社の発展ということになります。しかし、逆に言うと、最初から基本的な路線があって、それを中心に発展という形ではなかったということです。
 このことは、現在の名古屋鉄道の経営に大きな足かせとなっています。
 このことは、また、別の項目で説明します。 


 揖斐線に愛情を込めて・・・路線・駅・停留所紹介part2     | このページの先頭へ |

 それでは、前回に引き続いて伊自良川以西の揖斐線路線を順に紹介します。


 夜の尻毛駅、黒野駅へ向かう下りのモ770形。
 尻毛駅は、単線の揖斐線に3カ所ある上下線の「すれ違い駅」のひとつ。早朝、深夜を除いて、15分ごとに電車がすれ違います。この電車は、夜遅い21時03分発のため、すれ違う電車がありません。(撮影日 04/11/09)  


 左、北方東口駅の朝。岐阜農林高校の生徒をたくさん載せて到着した新岐阜駅行モ770形。(撮影日 04/11/12)
 右、北方の市街地を走るモ770形。北方東口−北方千歳町間。遠くに岐阜市北部の百々ヶ峰。(撮影日 04/11/14)
 


 左、美濃北方駅に入線する黒野行きモ780形。(撮影日 04/11/03)
 右、南側から見た美濃北方駅駅舎。すれ違う、モ770形とモ780形。
 この駅舎は、1914年に岐北軽便鉄道美濃北方駅として開業した当時からのもの。写真中央の、現在は広場となっているところには、開業当時は岐北軽便鉄道の本社の社屋(2階建て)があった。(撮影日 04/11/03)
 


 左、樽見鉄道との交差地点。南側から。(撮影日 04/10/18)
 右、名鉄揖斐線の高架(写真の右上の黒い部分)をくぐって、樽見鉄道北方真桑駅に入線しようとするレ−ルバス。(撮影日 04/10/18)
 


 左、真桑駅。「乗って残そう みんなの電車」の垂れ幕もむなしい。(撮影日 04/10/10)
 右、夜の政田駅を出発する黒野行き。政田駅は、単線の揖斐線で3カ所あるすれ違い駅の一つ。(撮影日 04/10/09)
 


 左、朝日を浴びて揖斐川の支流根尾川(この地域では薮川ともいう)鉄橋を渡る黒野発のモ780形。この鉄橋の場所は、電車を撮影するには一番いい場所です。(撮影日 04/11/04)
 右、下方駅で乗客を降ろして忠節方面へ向かう黒野発のモ780形。左の写真の鉄橋を向こう側に渡った堤防道路のすぐ隣の高架上に駅はあります。電車の後ろの部分は、鉄橋上の線路です。(撮影日 04/10/10)
  


 左、相羽駅付近の田園地帯を走るモ780形。(撮影日 04/11/12)
 右、2004年10月8日、5時45分の出発を待つ、黒野駅発新岐阜駅行きの一番電車。まだ日の出前、この日は乗客は一人もいませんでした。(撮影日 04/10/08)
   


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