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40 中年時代・壮年時代3 高橋尚子杯岐阜清流マラソン完走なるか11/05/16

  2011(平成23)年5月15日に岐阜市内で第1回高橋尚子杯岐阜清流マラソン大会が開催されハーフ・マラソン(距離21.0975km)と3kmが実施されました。
 私は、ふとしたことから、このマラソンへの出場を決意し、あまり労力をつかうことなく何とか完走しようと計画してきました。
 まず、出場を決意した理由です。
 このマラソンの開催は、すでに昨年に決定され、2月から出場者の募集が始まっていました。途中、3月11日に例の東北大震災が起こり、開催があやぶまれましたが、「東北地方応援チャリティマラソン」という意義付けをして、開催にこぎ着けました。ただし、私が、参加申し込みをしたのは、まだ3月11日の震災が起きる前です。
 2月末の段階で、申込者は、3kmについては予定の1000名を突破して、募集終了となりました。しかし、ハーフマラソンの方はなかなか応募が増えませんでした。このため、せっかく岐阜県が県都をあげて開催するイベントだから、何とか人数をそろえるようにと、えらいところからお達しが出ました。こういう時、どこの世界でもあることですが、人員増やしの「動員」は、半強制・ボランティアなどの形を取って、組織の下部へ流れていきます。
 わたしは、若い時にこういう処置が全く嫌いで、上司に平気でたてつく男でした。
「まずい計画で人が集まらん、それの尻ぬぐいをどうして組織の兵隊がとりゃなきゃならんのだ。」
 青臭い議論ですが、譲れない正論だと思っています。
 自分が中間管理職以上になった時、今まで異議申し立てをしてきたことを、今度は部下に命じる立場になりました。そのままそれを実行していたら、これも世間によくある、「立場が変わったら、手のひらを返すように・・・」という輩と同じになります。これも青臭い発想ですが、「そのくらいなら代わりに自分がやる」。
 ずっと前に、信長・秀吉・家康の「ホトトギスの句」のところで紹介しましたが、私のモットーは、「
鳴かぬなら 代わりに泣こう ホトトギス」です。(→この話は、2001年の日記「 『チーズはどこへ消えた』と信長・秀吉・家康」に記載してあります。

 省エネのため、「自動車通勤を自粛して自転車通勤もしくは公共交通機関をつかいなさい。」
 これも、よくある命令です。
 しかし、誰がそう簡単に自動車を捨てて、自転車に切り替えることができるでしょうか。どの上司が率先して、自転車に乗っていますか?だから、部下が苦労するくらいなら、私がやろうというわけで、今、勤務日の4割近くは自転車通学しています。
 「あなたは、小物ですね。」と、世に言う大物の方からよく言われますが、小物で結構です。現実社会のリアリティを感じて生きていく方が、よほど性に合っています。
 さて、いきなり、訳の分からない繰り言になってしまいましたが、これが、私がハーフマラソンに参加した理由です。

 ただし、走る以上は、ただ申し込んだだけで走らず、「まるきり寄付した」なんてことはしたくありません。主催者の方の中には、「できるなら、申し込んでもらって、当日来ない方が、交通整理上も助かる」という本音をおっしゃる方もいます。そんなうまい話を作ってなるものですか。
 そこで、私流に、ずるくハーフマラソンを完走する作戦を立てました。
 まずは、私の長距離走の記録と、体調を簡単に年表にします。



 これを見れば、明らかなように、30代までなら、ハーフマラソンを走ることは、私にとってそれほどおお事ではありませんでした。
 しかし、39歳の時の腰部椎間板ヘルニアの手術と、50歳の腸閉塞時の筋肉量の減退(もっというと、その後体重はもとに回復しましたが、それはほとんど脂肪で補われた。(-_-;))と、因果関係は必ずしも立証されていませんが、同時に起こった膝関節痛の始まりによって、事情は一転しました。
  ※腸閉塞については、→日記「腸閉塞入院記」参照
 すなわち、練習のためにたくさん走ると、次の日は腰痛と膝痛に悩まされてしまうため、長距離走の練習は、実際には十分にはできないのです。この状況では、昔のように、必死に走り込んで筋力をアップすると言うことはできません。さてどうしたものか?
 一つだけ可能性がありました。ゆっくり走ればある程度はの長い距離は走れることができるのです。
 但し、そうは言っても、21.0975kmを早歩き程度で「完走」することはできません。なぜかといえば、普通のマラソン、ハーフマラソン大会では、交通規制等の関係から、制限時間が決められているからです。したがって、制限時間をうまく見据えた上で、どのくらいゆっくり走るかが、私の場合の、このレースの戦いの中心となります。
 では、この大会の制限時間はどれぐらいか?
 実は、この大会のハーフマラソンは、
制限時間3時間ちょうどでした。それだけではなく、5.8km(53分)13km(1時間55分)、17km(2時間27分)と3カ所の関門にも制限時間が設けられています。なかなか難敵です。

 さてどんな作戦を立てるか。 


 これが、この大会のハーフマラソンのコースです。岐阜市の南の空から眺めた立体的な写真を使っていますので、各コースの距離の長さは、写真の位置の関係とは比例しません。また、金華山の北側のコースは、この写真では見ることができず、点線となっています。別にトンネルを通ったわけではありません。
  ※
NASAのWorld Windの画像をつかっています。こちらです。→http://worldwind.arc.nasa.gov/java/


 私が立てた作戦は、次のとおりです。


 当初は、第1関門の通過がなかなか難しいと予想しました。スタート直後の大群衆であまりペース配分が自由にならない状況で、スタートロスを7分見込んで、1kmのラップタイムは7分30秒ほどでがんばらなければなりません。
 それを思うと、あとの3区間は、1kmのラップタイムが8分、9分と長くなりますから、何とかなる気がします。
 それから、今までの経験では、どこかできっと、
ランナーズハイの状態が起こり、自分の予想ラップ以上に早く走れる可能性もあります。
 しかし、全体的には、すれすれの作戦でしか完走は勝ち取れないと言うのがレース前の実感でした。
 練習は、長距離走の特別なものはやりませんでした。いわゆる、走り込みはしなかったのです。そんなことをしたら、大会前に自分の体が壊れてしまいます。
 行った練習は、次の2つです。

 往復20kmの職場まで、できる限り自転車通勤をする。しかも、甘っちょろいスピードではなく、元気な高校生をぶっちぎりで抜かすぐらいの高速自転車運転で体を鍛える。これは膝関節には負担は少ない。

 クラブに加入して毎週やっているサッカーとソフィティバレーボールの活動の時は、準備運動として1km程は走り、また、練習中、試合中も必要以上にひたすら頑張る。

 つまり、1日の走り込みは、最大でもサッカーの活動の時の2~3km程度というものに過ぎませんでした。
 自分の体を壊さないために、練習はできるだけそこそこにとどめ、あとは、すれすれの作戦でずるく完走にこぎ着ける。これが私の大会前の策略でした。 


 写真40-01 ハーフマラソンの受付は前日のみです。土曜日の夕方に正面の受付へ行きました。


 左:写真40-02 マラソンを盛り上げるために、いろいろなイベントが実施されます。
 右:写真40-03 事前に郵便で届いていたカードと引き替えに、右のバッグと、ナンバーカードをもらいました。ナンバーカードは2枚あるかと思ったら、1枚でした。5938の数字の前のHは、当日の、集合場所を意味します。事前に自分の予想タイム(2時間30分)を送っていましたから、スタート順はAKのかなり後の方です。
 


 写真40-04 Asicsのバッグとナンバーカードの袋に入っていたのは、上記の品々です。中央のものは、岐阜市立島小学校の4年生の児童が書いてくれた、「がんばっってください、みんなで応援しています」のメッセージカードです。なかなか心温まるものです。その右のオレンジの小さな板状のものは、タイム計測用のチップです。


 写真40-05 靴に取り付けた計測チップ。      写真40-06 時計台前でのスタート前の記念撮影。 


 写真40-07 当日の競技場前                写真40-08 スタンドも結構な人です。 


 写真40-09 Hの集合場所                  写真40-10 遙か向こうが出発ゲートです。 


 写真40-11 開会式です。競技場の外で行われています。高橋尚子選手の挨拶がビジョンに映されました。


 左:写真40-12 スタートは、9:00きっかり。我々が、マラソンゲートを出て、スタートラインを超えたのは、9時5分15秒でした。私の予想より2分近く早く、あとのペース配分が楽になりました。 
 右:写真40-13 私たちの集団が、金華橋を渡って右折したとき(約1.6km地点)、もはや岐阜駅の折り返し点を過ぎて戻ってきた先頭集団とすれ違いました。彼らは、6kmちょっと走った計算です。さすがです。


 写真40-14 旧明徳小学校前の金華橋通をトップで通過する、トップの選手です。 


 写真40-15 それから何分後でしょうか。同じ場所を通過する私です。この時は、まだ元気があり、予定通りのペースで進んでいました。14・15・16は、いずれも妻の撮影です。


 写真40-16 妻が撮影した、高橋尚子選手の写真です。

「どこに高橋尚子選手がいるの?」

「そこにちょこっと、映っているでしょう。赤っぽい髪の横顔。」

 これでは、肖像権で文句は出ません。(-_-;)


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、岐阜清流大会ハーフマラソンコース全体の地域地図です。


 作戦は成功し、最初は計画通りのペースでの走行が実現しました。
 
第1関門の通過時間は、9時48分45秒で、ほぼ予定通りでした。
 しかし、次から予定が狂い始めます。
 金華橋を渡らずにそのまま東進して、岐阜小学校北、玉井町・十八楼前を通過して、長良橋の下をくぐって、堤防道路へ出ました。
 ここから、納涼台方面へ向けてが、実はちょっとした難所でした。ずっと緩やかな上り坂だったのです。私と同じレベルの集団も、ずいぶんペースが遅くなります。お互いに、遅くなって抜かれ、これはいかんと頑張ってまた抜き返すといった感じでした。細かい1kmごとの表示はありませんから、ペース配分はつかめませんが、計画の「1km=8分」以上はかかっている感じです。
 そのことは、鵜飼大橋(10km地点表示あり)まできて、はっきり気がつきました。
「これはまずい。次の千鳥橋を渡った13kmの関門通過が危ない。」
 関門までまだ3km弱もあるのに、時間はすでに10時32分を過ぎています。関門通過制限時間は10:55です。「1km=7分台」というこれまでにないペースで走らなければなりません。
 そこで、鵜飼大橋を過ぎて比較的平坦な堤防道路に出てから、ずいぶんペースを上げました。ちょうど、いわゆる、「
ランナーズハイの状態」がほんの少し訪れ、膝関節は痛いものの、それなりに快調に走れたのです。特に千鳥橋を渡るときは、非常に快調でした。
 その結果、
第2関門(13km 制限10:55)は、ほぼ計画通り、10時48分40秒に通過しました。
 
 ところが、このあと、10km~13km当たりにちょっとペースをあげた反動が来ました。
 いつもいつも経験する、「
ランナーズハイの状態でペースを上げたあとの反動」です。
 コースは長良川の北岸堤防に移っていましたが、このあたりは、応援の沿道の人もほとんどなく、疲れと意欲の低下から、ペースは1km9分台に落ち、さらに時々歩く時間も増えてしまいました。
 そのツケは、当然ながら次の関門に回ってきました。
 ハット気がつくと、鵜飼大橋手前の16kmの通過が11時22分過ぎ、これでは、残り1kmを5分弱で走らないと、
17kmの第4関門制限時間11:27までに通過できません。これは大ピンチです。
 しかし、目前には鵜飼大橋から堤防道路に上がる坂道。こんなところでペースを上がれば、かえってあとで反動が来ます。坂道はぐっと我慢しました。そして、平坦な堤防道路で頑張りました。さらに、関門の電光時計が肉眼で見えて、これはもうあかんと思いました。まだ、300m弱を残して、時計は、11時26分00秒を過ぎました。これはもう、一か八かの全速力しかありません。ほとんど200m競争と同じぐらいの速さで走り抜けました。
 結果、
第3関門通過は、11時27分00秒
 つまり、閉鎖時間と同時に飛び込んで、ぎりぎりセーフというきわどい状況でした。

 しかし、このあとの展開がどうなっていくかは、みなさんおわかりですね。
 うまくペース配分をしなければならないはずのハーフマラソンで、途中で、200m競争をやってしまったのです。そのあと、どっと疲労が出るのが当たり前です。
 グランドホテルの前から、旅館街のプロムナードに入り、また沿道のみなさんから多くの応援をいただきました。
 もと同じ職場の仲間が数分間伴走をしてくれるという支援もいただきました。しかし、長良橋下をくぐって、高校生の一段の熱烈な応援を受けて堤防道路へ上がってからは、もはや、エネルギーは底をつきました。都ホテル裏から見る金華橋の遠いこと遠いこと。体の方はと言うと、両足とも、つりかけています。
 AEDを持った、救援部隊が声をかけてくれます。

「頑張ってください。心臓は大丈夫ですか。」

「心臓は大丈夫です。その代わり、この足、2本とも取り替えてくれませんか。」

  「あと2kmちょっとです。頑張って。」 

 結果的に、そのあと2kmちょとが、重い重い距離になりました。
 そもそも、第3関門を通過したときに、私は、最後の通過者のはずであり、つまり、全生き残りランナーの最後尾となったわけです。
 途中で、上記の高校生の応援を受けて、一人抜きました。
 ところが、長良橋と金華橋の中程をほとんど歩くと同然のゆっくりしたスピードで進んでいると、白バイが後からすーっと迫ってきました。無線で報告をしておられます。

「ひとり、ケガのためリタイアしました。今、最後尾のランナーの後につきました。」

「あれれ、私が、最後のランナーですか。」

  「はいそうです。」 

 また、第2関門前の千鳥橋の時のような「ランナーズハイの奇跡」が起きれば、あと2キロ弱ぐらい、何とかなります。しかし、もう、大腿筋もふくらはぎも、両膝関節も、足首も、すべて限界が来ていました。
 時間はすでに、11時57分を示しています。競技終了まであと3分です。

「白バイさん、迷惑かけて済みません。最後の力を振り絞って、金華橋の北詰まで行きます。そこで、時間切れになると思いますから、歩道に上がります。それで終了にします。
 ありがとうございました。」

「はい、存分に走ってください。あなたのご判断に任せます。」 

 写真40-17 初めて、白バイの「護衛」付きで走行。後には係員以外誰もいない。写真右手奥の橋は長良橋。


 写真40-18 ようやく金華橋までやってこられました。上とこの写真は、橋のたもとで待っていた妻の撮影によるものです。
 白バイの警察官さん、ご苦労様でした。監察の車も私の状況を見守っています。ご苦労様。後では、後片付けが始まっています。
 たくさんのみなさんの支援で、思う存分走ることができました。本当に感謝です。


 かくて、金華橋の北詰で、レース終了時間の12時(スタートから3時間)がおとずれ、私のハーフマラソンは終わりました。ゴールまで、あと約1.4kmの地点でした。3時間で、19.7km程走ったことになります。
 このあと、妻と一緒に、歩道を歩いて、長良川競技場に向かいました。橋からの下り坂であるにもかかわらず、全く走る力はなく、とぼとぼと歩くはめになってしまいました。人間の力とは不思議のものです。ついさっき、第3関門のところでは、200m競争のスピードを出せたのに、それから1時間とたたずに、これだけ消耗してしまいました。
 長良川競技場のメインスタンドに着いたのは、
12時28分でした。すでに競技場のトラックは閉鎖されていて、トラック内には選手はいません。


 写真40-18 結果的に遠かった「FINISH」です。公式の記録ではありませんが、私の今日の自分なりの記録は、3時間28分です。
 すべて、シャンシャンシャンで終わっては、次の教訓になりません。以下に、
高橋尚子杯岐阜清流マラソン大会の次回へ向けての改善点を3つ指摘します。ランナーの視点からの指摘です。

 第一関門前の給水所では、私たち遅めのランナーは、ほとんど給水は得られませんでした。紙コップだけ与えられ、大きなポリバケツのようなところからたまった水を自分で汲むというおどろおどろしい給水風景でした。
 また、そのあとの給水所でも、2度ほど、「もうここはありません。次にいってください。」と言われました。
 
遅めのランナーを見捨てるような給水体制でした。

 遅めのランナーには、関門通過時間が重要です。第一関門通過時に、係員が声をかけていました。
「第一関門通過です。頑張ってください。」
反対に、その方に私は大声で聞きました。
「次の関門までは何キロで、制限時間は何分ですか?」
「それは分かりません。」
係員のみなさんは、ランナーがどのような気持ちで走っているか、必ずしも理解していないようです。

 

 距離の表示が大まかで、5kmごとにしか分かりません。係員に聞いても、はっきりしません。これも制限時間通過が「死活問題」の遅いランナーにとっては、不親切な対応でした。もっと親切で小まめな距離表示をしなければなりません 

 全体として、「1万人参加」の大マラソンで、沿道の市民・高校生・児童の応援は温かくて感謝感激でしたが、大会運営そのものは、必ずしも「弱者に親切なマラソン大会」ではありませんでした。これでは、来年以降、裾野は広がっていかないと思います。落伍者の繰り言ならいいのですが・・・・。 


 写真40-19 私は、自家製マップを持っていて、何とか関門を通過しました。これは、大会HPにアップロードされている、「COURSE MAP」を普通にA4版に印刷し、走っていても直ぐ分かるように、赤字で距離「」から「20」を大きく書き込み、さらに、「9:53」「10:00」「11:27」「12:00」と関門通過制限時間を自分で書き込んだものです。これを持って走っていたのでペース配分の作戦が可能となりました。そういう知識を理解していたり、紙を持って走っている方は、少数派でした。やはり、コースによく分かる表示がほしいところです。


 まじめなランナーのように、走り込んでもいないのに、制限時間内に20km弱を走ることができました。作戦もさることながら、そういう体を作ってくれた、両親の遺伝子にひたすら感謝です。
 そのことも含めて、たくさんの方の応援・協力にあらためて、感謝申し上げ、第1回高橋尚子杯岐阜清流マラソン大会の参加記を終わります。


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