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 09 人間なるが故の痛み1  01/10/29                

 書くべきか書かざるべきか.二日悩んだ。まあ.いっかとばかり.こうして書き始めた。よって.どう見ても駄作である。おつきあいをよろしく。

 「目から鱗」のところで.人類の直立二足歩行のプラスとマイナスについて書いた。直立二足歩行によって.脳の発達・手の進化.様々なプラスが得られた代償に.人類はマイナスの影響も運命づけられた。そのマイナスの代表的なものが.お産の難しさと腰痛である。
 我が夫婦は.それについて対照的なふたりとなった。

 豚はいとも簡単に子供を産む。時には十匹近い子供を比較的苦労せずにポコポコと産んでいく。人間の女性はそうはいかぬ。それ故に.「私がお腹を痛めた子」というセリフは.母の存在を.父とは比べものにならないくらい偉大ならしめる。それに対して.「お前を苦労して作ったのだぞ」という父のセリフは.どうもうさんくさい。

 余談だが.今をときめくインターネット界の女王田口ランディーさんが.昨年『コンセント』(幻冬舎2000年)という本を書いて好評を博した。これは.女性の性と異常な感受性をテーマしたもので.きわどさとおもしろさとミステリー的要素が絡まって面白い作品となった。
 この本を紹介してくれた友人のOさんに.私なりの感想を書いた。
 「これは女性ならではの世界で.コンセントという発想はあっても.男性を主人公にした『プラグ』という本は成り立たない。そんなものがあったら噴飯ものだ。」と。

 ところが.さすが田口ランディ.すぐに姉妹作を書いた。
 私が予想した内容に近かったが.タイトルはずばり『アンテナ』(2000年幻冬舎)。そうか.プラグでは噴飯ものだが.アンテナなら小説のモチーフになるか。(読んでない人はわけがわかりませんねぇ.まあ.面白いですから.2冊ともどうぞ。余談終わり。)

 妻が妊娠してお腹が大きくなってきた時.「さあ.いよいよだぞー。俺も父親だ。きっとTVのドラマのように.病院の廊下をおろおろしながら.妻が出産するのを待っているという経験ができるに違いない。」と.夢?をふくらませていた。(今では.出産時に夫がそばにいるというのも多く聞くようになったが.私は断じてだめだ。大量の血を見ると.すぐにこっちが倒れる。ベッドがもう一つ必要になっちまう。)

 長男の出産日予定日は.1984年の10月中旬だった。ところが.妻のお腹はあまり大きく成っておらず.医師は予定日より遅れると告げた。
 10月29日の午後4時過ぎ.初産のため自宅から30qほど離れたY町に帰っていた妻の父親から連絡が入った。「急に産気づいて.先ほどO市の病院へ行った。」
 
 「さあきたぞ.今陣痛ということは.生まれるのは深夜かな。」教頭に事情を話し.バレーボールの部活動の面倒を副顧問に頼んで学校を出ようとした17時30分.義父から電話。
「今生まれた。男の子じゃ。」

 あれ.病院の廊下でおろおろはどうなっちまたんだい。初産で.陣痛に苦しむ時間たったの1時間半弱。なんと.幸せな女性なんだろう。

 1986年4月9日.次男の時は.病院に行くと連絡があってから.出産までは僅か1時間だった。これでは.そばにずっとついていない限り.廊下でおろおろはあり得ない。

 1990年3月.三人目。
 上ふたりが予定日をずっと過ぎてからの出産だったので.今度もきっとそうなると思い.安心していた。
 3月2日午前2時.「ねぇ.お腹痛い。」と妻が私をおこした時.寝ぼけ眼は一瞬にして吹っ飛んだ。
 「ちょっと待てよ.長男が90分.次男が60分.えっ.えっ.すると何かい.えっ.冗談じゃないぜ。」急いで支度した私は.妻を車へ押し込み.ひたすら.深夜の町を病院へと走った。O市の病院までは.18q.普通なら30分。
 「痛〜い」「え〜い.やかましい。我慢するんじゃ。手で栓をしとけ。(無理か)」
 時速100キロ以上.ひたすら病院を目指した。病院へ着くとすぐに分娩室へ。待つこと数分.すぐに助産婦さんの声。「元気な男の子ですよ。」
 かくて.三男Dが生まれた。

 結局.廊下でおろおろは経験しなかった。三男が生まれた時は.車の運転と病院の廊下を走り回ったのとで.ふうふう・ぜいぜいの状態だった。
「しまった.まだ男の子の名前は考えてない。」

 妻は.3人も子供を産んで.合計陣痛時間約3時間10分。人類の女性としては.直立二足歩行の業を.全く無視した人であった。
 そのせいか.彼女は息子たちに.「私がお腹を痛めて産んだのに」というセリフは一度もいっていないような気がする。もし言えば.私は即座に.「ちょっとだけ」と修飾語を付けようと狙っている。

 妻が「人類の業」をあまり背負わなかった替わりに.夫は.えらいマイナスを経験することになる。
 
 それは.次回に回して.今日は長男の誕生日。ケーキの蝋燭の数は.知らぬ間に.17本になった。
  ※目から鱗「直立二足歩行のプラスとマイナス」 

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 10 人間なるが故の痛み2  01/11/04               

 その1で説明したように.我が妻は幸か不幸か.難産という「人類の女性が宿命と

正常な背骨の美しい曲線。背骨は.上から7つの頸椎(けいつい).12の胸椎.5つの腰椎.そして.仙骨と尾骨からなる。
私は.小さい頃から姿勢は良くなかった。これが諸悪の根元かもしれない。

して背をわなければならなかった業」を軽く味わっただけですんだらしい。

 その分というわけでないだろうが.夫は.直立二足歩行のマイナス面ともろに格闘するはめになった。
 
腰部椎間板ヘルニアという病気のことである。
 人類は直立した結果.自分の上半身の重みを.背骨と筋肉組織で支えなければならないことになった。そのため.背骨は微妙な調和をとってS字形に湾曲した。
 それでも.多くの人は.腰痛に悩まされる。
 腰痛の原因は様々であるが.私の場合は.それが椎間板(ついかんばん)ヘルニアとそれにともなう下肢の座骨神経痛だった。

 30代半ば.体力・気力とも充実していて.学校の部活動の指導に加えて趣味の分野でもスポーツをしまくった。バレーボール.サッカー.ソフトボール.ジョギング.ゴルフ・・・.どれをとっても技術のレベル的には他人に自慢できる様なものではないが.本人が「必死で頑張った」という点では.相当なものだった。
 36歳の時.初めて本格的な腰痛に見舞われた。原因は.準備運動をあまりしないままに臨んだゴルフの練習である。ところが.その時運悪く.地域で参加していたソフトボールのリーグの年間優勝決定シリーズに当たっていた。
  プロ野球の日本シリーズならともかく.たかが地域のおじさんのソフトボールである。
 しかし.久しぶりに優勝決定戦に駒を進めることができたH監督は相当気合が入っており.チームのエースピッチャーであった私にかかる期待もおおきかった。
「ゴルフで腰痛めて投げられません」などとは言えるはずもなく,私は整形外科・整体師をはしごして.何とか痛みを減らし.無理して登板した。(結果は.先発した2試合とも惨敗)

 それ以来.時折腰痛に悩まされるようになり.S整形外科医院から年賀状が来る程になってしまった。
 39歳になるころには.右の足に痛みやしびれが出始めた。
 S医師は.「スポーツを程々にしないと.入院だぞ。」といっていたが.単なる「脅し」と思っていた。
 その結果.時々痛み止めの注射を射つ身ながら前にもまして運動はハードになり.よりにもよって.フルマラソンにも挑戦してしまった。
 1994年4月17日.サッカーの試合中にシュートを打った瞬間.すべてが終わった。翌日から.N病院への入院となってしまったのである。
 この段階では.腰の痛みはそこそこのもので.激痛は右の大腿やくるぶしにあった。

 椎間板とは.背骨のそれぞれの骨の間にある繊維質の柔らかいもので.背骨にかかる重みを調節するクッションの役目を持つ。それが壊れて所定の位置から飛び出している状態をヘルニアという。医学的には.ヘルニアは.所定の位置から飛び出していることをさし.脱腸は腸のヘルニアである。
 黄色が背骨.水色が椎間板であり.ピンクの部分がヘルニア(正常な位置からはみ出ている状態)である。ヘルニアによって.横を通る神経の束が圧迫を受ける。どこの神経が圧迫されるかによって.痛みやしびれの部位が異なる。たとえれば.ビルの電気配線を.配電盤のすぐ後ろで切ってしまうと.切ったコードによって.どの部屋の電気が切れるかというようなものである

 診断は.第5腰椎と仙骨との間の椎間板ヘルニアとそれによる.右下肢の座骨神経痛である。
 椎間板は.背骨と背骨の間のクッションのようなものであるが.無理をしたおかげで.それが壊れてはみでてしまったのである。詳しく言うと.背骨のうちの腰椎の5番目(一番下)と仙骨との間にある椎間板(右上図の矢印の部分)が所定の位置からはみ出てしまい.そばを通る神経の束を圧迫することによって.右足の大腿部やくるぶしに激痛が走るのである。(原理は右下図)

 この座骨神経痛の痛みがなかなかのものである。変なたとえだが.太股の内側から外に向かって.「生け花の剣山でかきむしられている」といった感じである。
 いろいろ治療したtが.痛みは消えなかった。
 治療のうちで最も圧巻のものは.神経根ブロック注射だった。
 レントゲン室で医師が私の腰のレントゲンの映像を見ながら.痛みの部分に痛み止めと治療薬を打つという注射なのだが.この時.針をどこまでさすかがすさまじい。
 「一応皮膚には麻酔を打ちます。したがって.注射針を刺した時は痛くありません。しかし.背骨の膜を突き刺して神経のところまで注射針が届かないと効き目がありませんから.針が神経に届いて痛いところで.『痛い』といってください。そこで薬を注入します。」と主治医のS医師。

「えっ.背骨の神経まで????」
 これを聞いて.恐怖を感じない人間はいないと思う。極度の緊張感の中でこらえたこの痛みは.相当なものだった。
 しかし.この究極の治療も.結果的には決定的な効果を持つに至らなかった。
 そのため.主治医から.突出している椎間板を切除する外科的手術を受けることを奨められた。これにはかなり悩んだ。というのは.「手術しても直る確率は少ない」・「術後の回復が思わしくない」などなど.手術への以前からの悪評があり.また.整体師のベテランからは.「背骨を外科的に削ると.その後いろいろなところのバランスが崩れて.よいことはない」というアドバイスも受けたからである。

 しかし.他の手段ではどうしても痛みが取れないことから.決断した。その時の思いは単純だった。「もう一回サッカーがしたいな。」
 かくて.1994年6月1日.どこにでもある普通の椎間板ヘルニア除去手術が.私に対して施された。手術そのものは.全身麻酔の間に行われるので.患者には.何の記憶もない。覚えていることはただ二つ。
 病室で.注射された筋弛緩剤が気持ちよくて.手術室まで運ばれる間.まるで極楽にいけるようないい気分だったこと。「麻酔をかけます。数を1,2.3.とゆっくり数えてください。」といわれたが.酒飲みではない私は.すぐに麻酔が効いてしまい.1と2までしか発音した記憶がないこと。

 もうくどくどと書いても読んでもらえそうにないので.このへんでやめよう。
 術後の3週間の絶対安静もちゃんと我慢したという努力もあって.手術は結果的に成功した。入院期間は.2ヶ月半に及んだ。
 また.サッカーができるようになった。もっとも.クッションの椎間板をひとつ取られた背骨は.本人の感覚的には.クッションどころか.体の中心のバネをひとつ抜かれたようで.運動性能は.以前の60%程に落ちてしまった。
 加えて.腰痛も座骨神経痛もその後も時々起こり.1998年には2度目の入院(1ヶ月).再びの神経根ブロック注射もうけた。幸いこの時は.この注射だけで痛みは治まった。
 S医師曰く.「腰痛を一生の友達にして.うまくつきあってください。」
 嫌な友達だがしょうがない。

 全国の皆さんにご忠告。
 直立二足歩行している人間には.腰痛は不可避的なもの。
 致命的なダメージにならないようにするためには.「痛かったら.休む」という.自分の体への当たり前のいたわりをもつこと。間違っても.痛み止めを注射して.サッカーやフルマラソンをするという暴挙を犯さないこと。(誰もしませんね。(^.^) )

 業は.心安らかに受け止めなければならない。
  ※目から鱗「直立二足歩行のプラスとマイナス」 


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