今年も夏本番となりました。
日本の夏の定番といえば、お盆・終戦記念と平和への願い、そして、甲子園の高校野球だと思っています。その3つ目の高校野球に、この4月から、教師として関わっています。
高校野球に関わるのは自分の人生で3度目のことです。
1度目は、なんと、自分が高校生の時、野球部に入っていたのです。といっても、普通の硬式野球部ではなく、軟式野球部です。私の通っていた学校は、岐阜県内でも珍しく硬式野球部と軟式野球部の両方がある学校でしたが、その軟式野球部の方に所属していました。もっとも、入学当初はサッカー部に入部し、そこで挫折して、1年生の9月に転部して3年生の8月までやりましたから、正味2年間の軟式野球部員でした。
お世辞にもうまい選手とは言えず、捕手をやっていましたが、本塁から2塁までボールがやっと届く程度の弱肩でした。打撃は2年間で65打数13安打、打率2割ちょうど低さでした。しかし、通算13安打で打点も13あり、つまり、その勝負強さから4番を任されていました。いや正確に言えば、そんな選手が4番をやらざるを得ないようなチームだったというわけです。監督の先生(この人は、のちに私たち夫婦の仲人をやっていただく恩人となりました)も、「きみらのは、野球とは言えん」と半分あきらめ顔でした。クラスの友人からは、「公式野球部」「難式野球部」と陰口をたたかれました。
それでも、高校生の特権で、ちゃんと生徒会から予算をもらい、練習場所も確保し、自分たちで練習メニューを考えて、しっかり練習はしていました。岐阜地区に自分たちも含めて高校軟式野球部が6チームがありましたが、我がチームは弱小とはいえ、それぞれの大会で最下位だったり、1勝もできなかったことは一度もありませんでした。知恵を持って技術や体力の不利を補っていたわけです。
2度目は、自分が初任教師として赴任した学校で、野球部副顧問になった時です。野球部指導歴20数年のベテランの先生のアシスタントをやりました。監督・部長の次の副部長です。自分の軟式野球部経験を買われての顧問就任でしたが、上述のように選手としての実績はたいしたことありませんでしたから、初歩からの勉強になりました。
ノック一つにしても、遠くへとばす外野ノックやキャッチャーフライを打ち上げるには苦労しました。基本的には、新任の足手まとい顧問でした。
この学校も進学校でしたので、野球部の成績はぼちぼちでしたが、2年目に1年生に有力投手が入部し、上級生の奮闘とうまくかみあってチームに勢いが付き、その時(1988(昭和53)年)の夏の予選は、準決勝まで進出しました。この時は本当にはらはらどきどきしました。あと2勝で甲子園というところまで来ると、「もし勝ってしまって代表になったらどうしよう」と考えざるを得なくなります。(^.^)
幸か不幸か準決勝で5−6で惜敗し、その夏も無事?に終わりました。
それ以降は、長い間、高校野球といえば、ただ自分の所属する学校を応援するという状況が続きました。
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