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 042 学校で大切なこと 春雑感4 「自分探し」、そして「自分づくり」

 今回は、今までと違って、とても歯切れの悪いお話をすることになるかもしれません。

 平成8年度の私は、当時岐阜市の南部に存在していた二つの学校(一つは普通科の女子高校、ひとつは工業高校)を統合して、総合学科の学校を作るスタッフをやっていました。
 当時、総合学科は全国的には誕生して3年目に当たっており、本県としては、翌平成9年度に初めての開設することになっていました。
 その時自分たちが考えていた総合学科のコンセプトは、普通科や専門学科とは違って、入学してから自分の個性を見極め、進路設計をいろいろ考えて科目選択をして、自分の進路を固めつつ進路実現へ向かうというものでした。これは基本的には今も変わっていません。

 その結果、当時の新入生に呼びかけるために用意したキー・ワードが、「
アイデンティティの確立」「ライフ・プランの作成」「個性の発見」「自分探し」「自己実現」などでした。

 ※

これらのキーワードは、現在も、岐阜総合学園の教育目標等に受け継がれています。
  →岐阜総合学園高等学校HP http://www.gifusogogakuen-h.ed.jp/index.html

 その時以前まで私は、新任以来、ずっと普通科の学校に勤務し、20年間ごく普通に進路指導をやってきました。しかし、総合学科にかかわってから、上記のキーワードをずいぶんこだわって使用するようになり、生徒もこの言葉で指導するようになりました。そして同時に、新たな悩みを持つことになったのです。
 それは、簡単に言ってしまえば、
個性は発見するものか、伸ばすものなのか、はたまたつくるものなのかということです。
 えっ、「馬鹿なことで悩むな」ですって。
 う〜ん、58歳のこの歳になると、また馬鹿なことに悩みたくなるんです。


 個性という場合には、広義には、暗記力・論理的思考力・表現力などに優れているとか、歌を歌うことや絵を描くことが上手とか、スポーツが得意とか、人前で話すことが得意とかいろいろな能力も含まれると思います。狭義には、いわゆるその方の性格でしょうか。
 まずは、狭義の意味に考えて、個性を自分が安心できる立ち位置という点に限定してみましょう。
 たとえば、あなたは次のどちらのタイプですか。
     

 @

 一人でいる方が好き(=友達が少ない)  友達と騒ぐ方が好き(=友達が多い) 
 A  整理整頓が好き   整理整頓には無関心 
 B  一つのことにのめり込むことが好き   いろいろなことに手を出すことが好き 
 C  他人と異なることをすることに抵抗感はない   他人と同じことをすることに安心感がある 
 D  基本的に他人の言うことを聞く   自分の主義主張を貫く 
 E  将来を悲観的に考える   将来を楽観的に考える 

 この僅か6つのポイントであっても、実際にはいくつかの組み合わせタイプが存在し、それが狭義の個性と呼ばれるものの実体となるのでしょうか。ちなみに、私は、項目@からDはA、EはBです。(^.^)
 これに上述の能力を加えたものが広義の個性となり、能力の方は、いろいろできる方がこれは完全に、「魅力的な個性」の持ち主ということになるでしょう。


 では、高校生の進路という場合、どちらの意味の個性でしょうか?
 「自分探し」という視点では狭義の個性となるでしょうし、自分の将来(職業や社会での身の置き方)を決めるという場合でも、自分がストレスを感じない立ち位置を求めるという点からは、狭義の個性が重要でしょうし、実際に職についてお金を稼ぐという点では、広義の個性でなければなりません。


 最近読んだ本で、若者たちの個性についての意識の分析で気になったものがありました。筑波大学の土井隆義教授の分析です。
「子どもから青年まで、最近の若者たちは、個性的であることを「キャラがたつ」と表現します。(中略)
 従来、キャラクターとは、ドラマやショーなどの登場人物の特徴をさして用いられたように、出演場面を盛り上げるための明確で強烈な性格を表す言葉でした。それは、観客の関心を惹くために意図的に創られた個性だったのです。だから、どんなキャラクターを打ち出せるかが、芸の力として問われました。たとえば、「お客様は神様です」とにこやかに力強くうなってみせた往年の国民的歌手、三波春夫のキャラクターは、演技によって構築された様式美の一つであって、楽裏ではいつも憮然としていたという個人的なパーソナリティとは別個のものでした。
 ところが、近年のテレビ制作者が「キャラがたつ」と表現するとき、その意味はまったく違います。彼らは、いわゆるプロフェッショナル性よりも素人らしさを出演者に期待し、演技ではない持ち前のパーソナリティを評するためにこのような表現を用います。だから、「天然ボケ」のように生来的な持ち味のある人間こそが、もっとも「キャラがたつ」人物ということで珍重されるのです。逆に、そこにわずかでも演技性が透けて見えてしまうと、一気にしらけてしまいます。芸によって創られた性格は、キャラとはみなされないのです。たとえば、お笑いタレントの明石家さんまに人気が集中するのは、あたかも楽屋裏のすがたと同じく素のままにふるまっているかのように感じられ、そこに演技性が透けて見えてこないからでしょう。 
 日常生活の文脈でも、最近の若者たちはこのような意味で「キャラがたつ」という表現を用います。彼らが価値を見出すのは、あくまで素のままの存在感なのです。ここから類推されるように、若者たちが切望する個性とは、社会のなかで創り上げていくものではなく、あらかじめ持って生まれてくるものです。人間関係のなかで欝欝しながら培っていくものではなく、自分の内面へと奥ぶかく分け入っていくことで発見されるものです。自分の本質は、この世界に生まれ落ちたときからすでに先在していると感受されているのです。
 したがって、もし自分の本質がよく分からないとすれは、それは自分の内部に潜んでいるはずの可能性にまだ気づいていないからだということになります。自分らしさをうまく発揮できないのは、自分が輝いていると感じられないのは、秘められた「本当の自分」をまだ発見していないからにすぎないのです。だから重要なことは、なんとかそれを見出して、うまく開花させてやることだと思っています。」

 ※

土井隆義著『「個性」を煽られる子どもたち 親密圏の変容を考える』(岩波ブックレットNo633 2004年)P24−25 


 この指摘は、「自分探し」を指導する教師としてはとても重要なポイントになると思われます。
 自分が何者であるか見極めることは真っ先に必要なことです。
 しかし、もし、生徒諸君が、自分の中に眠っている誰から見ても魅力的な「素のキャラ」を探し求めているとしたら、それは無い物ねだりの青い鳥探し症候群となってしまう危険性があります。誰もに人気があるようなキャラが、そうどこにでも存在しているとは思えません。
 そういう意味では、あのSMAPの大ヒット曲、『世界に一つだけの花』(2003年)の「一つとして同じものはないから・・・もともと特別なonly one」も、いやされる面と罪作りな面との両方をもっているといえるでしょう。
 ナンバーワンを目指して競争することが唯一の価値観ではなく、仮にその競争の勝者でなくても、あなたはかけがえのない存在ですよと自分を肯定してくれるという点、そのままの存在でいいんだよと言ってくれる点では、これまでにない癒しの歌といえるでしょう。テストでいい点を取るという価値観が強烈すぎるこれまでの学校社会においては、その有り様に反省を迫り、より多くの子どもたちに自己肯定感を育む歌でした。
 しかし、「特別なonly one」という言葉を、そのまま額面どおりに受け取めると、何か特別な個性がないと意味がないとも受け止められます。その個性を能力+性格ととらえるなら、特に能力もない、特に強烈な特色のない性格の子ども、学校の担任が時に使ってしまう「ごく普通の子」は、この歌の「特別なonly one」に該当するのだろうかとも思えてしまいます。
 もちろん、この歌にそのような新しい悲劇を生む意図はないと断言できますが、作者や歌い手の意図と現実とは、また違うものです。


 上記の引用文中で、土井隆義先生が言っておられるように、本来、自分の個性というのは、「社会のなかで創り上げていくもの」であり、「人間関係のなかで欝欝しなが培っていくもの」であると思います。
 人間というのは基本的に成長する動物です。時間とともによりいい姿になっていくことが可能な存在です。これは個性にも当てはまると思います。
 具体的には、@友達関係、A整理整頓、B一分野集中、C他人との同一性、D強調と自我の主張、E将来への見方、などについて、自分の素の姿、つまり持ち味は確認しながらも、さらによりうまくやるにはどうしたらいいかを考えていく。反対に、どうしたら決定的な破局を迎えないかを考えていく。そのためのいろいろな手だてやバイパスを造っていくことこそが、個性を伸ばしていくことだと思います。
 そういう意味では、「自分探し」「個性発見」はもちろん大切ですが、その次に、「個性伸ばし」「個性づくり」がより重要と言うことになります。


 我が岐阜県の生んだ、若き直木賞受賞作家朝井リョウさんの受賞作、『何者』は、大学生の就職活動、「シューカツ」を扱った作品です。
 高校生にはまだ体験できない世界ですが、そこに描かれる大学生の苦悩は、高校生にも十分共感可能な部分です。
 就職活動とそれを行うその本人の
成長につながる部分を二カ所引用します。

 ※

朝井リョウ著『何者』(新潮社 2012年)、

「就活がつらいものだと言われる理由は、ふたつあるように思う。ひとつはもちろん、試験に落ち続けること。単純に、誰かから拒絶される体験を何度も繰り返すというのは、つらい。そしてもうひとつは、そんなにたいしたものではない自分を、たいしたもののように話し続けなくてはならないことだ。」(P40−41)
「自分は自分にしかなれない。痛くてカッコ悪い今の自分を、理想の自分に近づけることしかできない。みんなそれをわかってるから、痛くてカッコ悪くたってがんばるんだよ。カッコ悪い姿のままあがくんだよ。だから私だって、カッコ悪い自分のままインターンしたり、海外ボランティアしたり、名刺作ったりするんだよ」(P264)


 勤務先にある、藪内佐斗司作の屋外彫刻「うつせみ童子」(撮影日 2013/04/14)
 蝉の幼虫から抜け出した童子の姿を表現し、生徒の成長を願った作品です。昆虫が幼虫から抜け出すように、人間の成長もはっきりわかるといいのですが・・・。


 人は時々、無理矢理に成長を促される時があります。それは受験であったり、就職活動であったり、結婚であったりします。
 その時、何か新しい自分をこしらえることができる気がして、背伸をびすることは、ごく自然なことだと思います。
 ちょっとした背伸びが約束になり目標になり、いつしかそれに到達できる。
 個性を伸ばすというのは、結局そういうことなのかもしれません。


 58歳になっても、新しい職場に移って新しいポストに就けば、「今年はどんな存在で生きようか」と悩む日々です。この歳になればおおむね固まってしまっている「個性」ですが、まだまだ「あがく」余地はあるように思えます。


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