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 036 高等学校の初任者教員の皆さんへ−その3− 事件は現場で起きている

 高等学校の初任者の先生へ、のシリーズの3回目です。
 初任者の先生へというタイトルでいろいろなテーマを考え、中堅もベテランも管理職も含めて、自分たちのやっていることを見つめ直してみようという意図で書いています。

 2009年10月10日(土)に、名古屋の南山大学まで出かけて、
読売教師力セミナー2009「ネット社会をどう生きる」というイベントに参加してきました。もちろん、招待されたとか何か特別な参加ではなく、ちゃんとファックスで申込書を送って、参加料500円を払って、ごく普通に参加したのです。
 このセミナーは、読売新聞が主催し、
愛知教育大学教職大学院志水廣教授等が仕掛け人となって、もう何年も前から毎年どこかで開催されているものです。私自身は何年か前の三重県津市での開催に続いて、2回目の参加です。

 毎回、毎回、どなたかの
模擬授業とそれについての分析・反省が行われ、その後にその会ごとに設定されたパネルディスカッションなどが行われます。主たる対象は小中学校の授業についての課題であり、来場している先生方の多くは小中学校の先生ですが、学生や教職とは関係ない一般市民の方も結構参加されます。もちろん高校にとっても教員もいろいろ示唆を受ける点は多くあります。


 今回のテーマは「ネット社会をどう生きる」ですから、模擬授業は、ネット社会について、DVDを題材に小学生にいろいろ考えルールを教えていくという設定のものでした。授業者は、愛知県教育委員会義務教育課の主査のAさん、生徒は保護者などの一般の方です。
 写真は、授業後の分析・反省の時の様子で、NPO法人「元気な学校を支援し作る会の理事のO氏が授業のポイントを復習しているところです。このあと、
愛知教育大学教職大学院志水廣教授の分析もありました。 

 本題の前に、一言申し上げると、教員としてその力量や見識を高め、良好なモチベーションを持ち続けるためには、このような外部の講演やイベントに適度に参加することが必要です。確かに学校での授業研究や発表会、また、県や各市町村の教育センターでの研修も意義はありますが、それとは別にお金を払ってわざわざ遠くまで「勉強」に行くというのは、また格別な経験です。多くの場合「目から鱗」、時には「頭部にガンと一撃」の成果はあります。(時々、はずれもありますが)


 今回の「教師力」講座のテーマは、「ネット社会」でしたが、ここではそれはちょっと置いといて、授業分析・反省において志水廣教授の発言の中に出てきた、「事件は現場で起きている」について、お話しをします。
 この「事件は・・」という言葉は、以前からあった言葉とは思いますが、多くの人々に具体的なイメージを共有させたのは、ご存じ、織田裕二主演の東宝映画『
踊る大捜査線 THE MOVIE』(1989年10月31日公開)の中の台詞、「事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きているんだ」ということになるかと思います。
 この映画の趣旨は、この映画やその出発点となったTVシリーズ、さらには映画の第2作目『
踊る大捜査線 THE MOVIE2 レインボーブリッジを封鎖せよ』を手がけた亀山千広プロデューサーによれば、あくまで「組織論」であり、教育問題を論じているわけではありません。

 映画やTVの『踊る大捜査線』シリーズについての解説は数多く出版されていると思います。その中にひとつ異色の本があります。金井壽宏・田柳恵美子著『踊る大捜査線に学ぶ組織論入門』(かんき出版 2005年)です。上記の竃山プロデューサーの意見は、同書P104に書かれています。
 著者の金井壽宏(としひろ)さんは、神戸大学大学院経営学研究科の教授で、この本は映画『踊る大捜査線 THE MOVIE』の中の20の台詞を題材に、大まじめに組織論(官僚組織論)・リーダー論を述べたものです。とても面白い本です。


 もともと、「事件は現場で起きている」という怒りを込めた台詞は、現場の状況をしっかり把握していない官僚組織のトップが、解決へつながるとはほど遠い誤った指示を出して現場を混乱させるという状況が生まれた時、官僚組織の末端の現場の人間から発せられるものです。
 しかし、「
事件は現場で起きている」は、多くの比喩を可能にするきわめて含蓄のある台詞ですし、また、いろいろな場面へアナロジーできる台詞ですから、教育や授業の場面へ転用できます。志水廣教授もけっして官僚の「組織論」としてお話になったわけではありません。
 まずは基本を考えます。
 学校の教師が、「事件は現場で起きている」という台詞を言うとすれば、普通は次の場面が想定できます。
  ○文部科学省や教育委員会が、学校現場の状況を理解しないで見当外れの命令をだしたり施策を打つ。

 これは、何か往々にありそうで、初任者の教員にとっては期待したくない状況ではありますが、それに備えて何か対応しろと言うものではありません。これとは違って、志水廣教授の話は、新任教員にとって、もっと身近な話です。

 そこへ向かうために、それではここでひとつ、立場を置き換えて、アナロジーをします。
 校長の立場に立って、この台詞を部下から言われる場合を想定してみてください。
 教室や授業や校内外の生徒の動きを把握しないで校長室にばかりいて、おまけに○○主任等イエスマンの偏った人間からの情報ばかり信頼し、学校のリアリティを見据えることができない、そのくせワンマンの校長がいたとしましょう。
 そういう校長は、生徒の問題を解決する方向で指示を出すのではなく、きっと自分の思い込みでいろいろ見当違いの指示を出し、かえって学校中を混乱させてしまいます。こういう場合は、職場の先生方から、「事件は校長室で起こっているんじゃない。教室で起きているんだ。ちゃんと現状を見て解決策を指示しろ。」という台詞を発せられそうです。

 そして、さらに、もうひとつ、アナロジーをします。これが、この話の本題です。
 上の校長の立場を
教室で授業している自分の立場に置き換えてください。

  • 一方的に説明する。

  • 生徒の反応が観察できない。

  • 生徒が反応する時間を与えない。

  • 生徒が反応しても自分に都合のいい部分しか取り上げない。

  • 「わかりましたね」と決め台詞して、勝手に次に進んでいく。

 もしこんな風に授業が進んでいったとしたら、生徒諸君はきっと、「何を勝手にしゃべっているんだ。自分たち生徒の状況(現場の状況)が分かっていない。今の部分は全然分からない。事件は現場で起きるんだぞ。」と思うに違いありません。実際にこれを声に出して言うことは希なので、気がつかない場合が多いでしょうが・・・。

 志水廣教授はこういう風に授業が進んでしまうことを戒めて、授業者の教師レベルにおける「事件は現場で起きている」という台詞の意味を考えなければならないと言われました。生徒の状況が把握できない教師は、教室の状況が把握できない校長や、学校が把握できない教育委員会や文部科学省と同じ存在になってしまいます。
 一方通行の授業ではいけない、双方向の授業でなければならないというのは理屈では分かりますが、具体的には一体どうすればいいのでしょうか。
 その解決策の一つは、生徒の発言に対して、いろいろな「
なるほど」が言えることです。
 もちろん、これにはまず前提があります。生徒にきちんと発問しなければなりません。発問をした上で、生徒から返ってきた答えを受け入れることば、これが「
なるほど」です。
 質問をしてもなかなかいい答えが返ってこない場合が多いでしょうが、あせって、または、何の気にもせず、正解以外を切り捨てていっては、生徒の意欲は瞬時に低下します。
 算数の授業を例にします。「二等辺三角形とはどういう三角形ですか」という質問に、「二つの辺の長さが同じ三角形です」といわれれば、「はいそうです」となります。これは何も問題はありません。
 ところが、「一つの辺だけが長さが異なる三角形」と言われたら、あなたはどう反応するでしょうか。
「それは定義の仕方が違っている」と切り捨ててしまうか、「
なるほど、あなたが言っている意味を別の表現で言うと・・・。」という具合に、その発言を受け入れるることができるかどうか。

 実は、もっと苦しい状況で「なるほど」といわなければならないかも知れません。時には、厳しさも必要という意味で、「なるほど」ではなく、正解しか認めないという場合もあるかも知れません。
 しかし、それでも基本は、「なるほど」です。

 読売新聞の1面の下の方にある「編集手帳」の記事の中に、次の文章が載っていました。

 8年前にノーベル化学賞を受賞した白川英樹さん(72)が中学時代の思い出を語ったことがある。物理の時間、ひとりの生徒が「雲はなぜ落ちてこないのですか」と教師に尋ねた。「雲をつかむような質問だ」と教師は話をそらした◆先生も分からないから一緒に考えてみよう。「そう答えてくれたら、私は化学ではなく物理の道に進んでいたかも知れない」と。学校の教室が好奇心の芽を摘み取る場になることもある。」

※  『読売新聞』 (2008年12月10日)

 「雲をつかむような質問だ」というのは、「笑点」的には座布団1枚というところでしょうが、白川教授にとっては、そうとは映りませんでした。「なるほど、面白い発想だ。」と言える余裕がなかったということが、白川教授にとっては残念なことだったのでしょう。

 解決策のもう一つは、机間指導の中で、次のことができているかどうかです。

  • つまずいている生徒の状況が確認でき、アドバイスができるか。

  • 次に指名する場合や、黒板の前で答えを書かせるなどの場合に備えて、生徒の記述の中から課題等を見いだせるか。

  • 特にうまくできている生徒を発見し、上手に褒めるストーリーが描けるか。

 これらができずにただ机の間を回っている場合は、机間指導ではなく、「机間散歩」になってしまいます。もちろん、指導以外に、「机間鎮圧」(携帯いじりの注意、居眠りの注意その他諸々)をしなければならない場合は、その苦労は何倍にもなりますが、ただ鎮圧だけをしていても次へはつながっていきません。

 教師は、学習という生徒の
認知活動を促す存在です。
 そのためには、生徒の認知活動が行われてれいる現場、つまり、生徒の頭の中や生徒の机の上から情報を集めなければなりません。

 生徒は、中学校までは比較い的多くそういう授業を経験しています。
 どこでどういう具合に高校の味を出すか、また、中学と同じであるべき部分をどのようにうまく継承していくか、そこが工夫のしどころです。
 もし、自分が昔高校時代にそういう授業を受けたからといって、まったく一方通行の授業しか実施しないのであるならば、それこそは、あなたが嫌うはずの、
教室現場を知らない校長や学校現場を知らない教育委員会・文部科学省と同じ硬直した存在になってしまうのです。
 解決には、他にもいい方法があると思います。
 いろいろな方法を工夫して、「
認知活動の現場」を把握してください。健闘を祈ります。


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