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 034 高等学校の初任者教員の皆さんへ−その1− どのような教師が魅力的か

 4月に、本県の高等学校、特別支援学校の初任者の皆さんに、先輩教師としてお話をする機会がありました。以下はそのお話の内容です。


1 はじめにお祝いと「感謝」 
 皆さん、こんにちは。
 教員としての正式の採用、おめでとうございます。心から祝辞を送ります。また、同時に、皆さんが教師という仕事に就いてくれてありがとう。心から感謝申し上げます。
 こう言うと、多くの初任の先生方は、「お祝いはわかるけど、感謝って、どうして?」 と思っていると想像します。いかがですか?(会場の多数の先生方がうなずく)
 あえて感謝と申し上げるにはちゃんと理由があります。
 ここに、ある調査結果があります。高校のPTAの全国連合会とリクルート社が2007年に実施した、高校生の「
なりたい職業・なりたくない職業調査」です。これによると、次のようになっています。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 ※調査結果は次のサイトにあります。次のクイズ02も同じデータ使っています。
   「
社団法人全国高等学校PTA連合会 株式会社リクルート「キャリアガイダンス」合同調査
    第3回「高校生と保護者の進路に関する意識調査」(2007)報告書 Ver.2
」(P16−17)
    http://shingakunet.com/career-g/data/data/20080414_repo rt01.pdf(PDFファイルです) 


 教師は就きたい職業の堂々第2位です。立派です。
 ところが、
就きたくない職業の第3位に入っています。第1位がフリーターですから、実質、政治家に次いでこちらも第2位ということです。
 では、なぜでしょうか。このアンケートでは、就きたい・就きたくないその理由も自由記述で聞いています。代表的なものを拾ってみます。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 就きたい理由もわかりますが、就きたくない理由も、至極当然な理由です。教師は嫌われる職業でもあるのです。生徒もいろいろ価値観をもち、ましてや、保護者に至ってはもっといろいろな価値観を持っています。その中で人を教えていくというのは、なかなか大変な職業です。本当によくぞ「同志」になってくださった。
 これが、初任者の皆さんに、「感謝」する理由です。


2 どのような教師が魅力的か
 教師になる以上、もちろん生徒や保護者から魅力のある教師になりたいと思うのは、当然のことです。それではどのような教師が魅力的なのでしょうか?授業がうまい、部活動の指導ができる、上手に相談に乗ってくれる・・・・。こういう具体的なことは、もちろん教師の魅力と言えるでしょう。
 しかし初任者の皆さんには、いきなりそれを期待することは無理です。それなら、皆さんには何の魅力もないのでしょうか?いえそうではありません。
 教師というのは、長くやっていれば、教え子で同じく教師になったという人が必ず何人もいるものです。幸か不幸か、私の現在の職場の中にも、元教え子がいます。彼らが私になんと言い、私が彼らにどういう思いを抱いているのでしょうか。私は教師になって33年目ですから、教え子と言っても、もう50歳になる人から若い人まで、年齢の幅はかなり広くなります。その教え子の年齢によって、思いは違ってきます。
 そのうち、自分が30代の後半以降とかになって教えた、つまり、教師として比較的格好がついてから教えた生徒に対しては、こちらとしては、自分が「まともな教育を授けた」という思いがありますから、自分自身が余裕を持って接することができます。相手も、こちらが自信を持って教育した内容をそのとおり評価してくれています。
 しかし、20数年、30年前、自分が若い頃に教えた生徒に対しては、かなり、複雑な思いがあります。経験を踏んだ今から見ると、若い頃、失敗ばかりだった、お世辞にもいい教師とはいえなかった自分に教えてもらった人物から、「先生、あの頃のことよく覚えていますよ」と言われると、真剣にドキッとします。勘ぐれば、「先生、今は立派なことを言っていますが、昔の先生の授業はひどかったですよ。よくそんな偉そうなことが言えますね」と、批判されているような錯覚を覚えます。
 しかし、実はそれはこちらの思い過ごしの場合がほとんどです。
 「先生の授業、とっても面白かった。あの時のプリントまだファイルに入れて取ってある。」
 などと、恩師を泣かせる発言をしてくれる人もいます。高校の時の授業のプリントを何十年も保存しておいてくれる。こんな教師冥利に尽きることはありません。
 私の本心は、
「私のそんな若い時代の出来損ないと言わないまでもお世辞にも熟成されていないプリントをいつまでも保存していないで、この現在の円熟・完成版と取り替えてあげるから。」
と言いたいところです。
 しかし、教え子の彼らにとっては、その「出来損ない」こそが「宝物」なのであり、その後どのようにバージョンアップされていようが、関係ないわけです。
 教え子たちが、未熟な自分と過ごした時間を今でも大切にしてくれている理由は何でしょうか。彼らに正式にアンケートを取ったわけではありませんので、彼らの言葉の端端からのつなぎ合わせにしか過ぎませんが、その理由はおおむね推察がついています。
 それは、単に私が若かったからだけではありません。
 簡単に言えば、私が、わかる授業の実現に、部活動の指導に、ひたすら頑張っていたからです。若い教師ですから当たり前といわば当たり前です。自分が未熟な分、「なんとかしなければ」と毎日毎日が悪戦苦闘の日々でした。その何とかしようといういわば上向きのベクトル、ポテンシャルが、今まさに高校で一生懸命学んでいる高校生諸君の気持ちと同調できたということです。数学的には、いくら未熟でも、成長しようとする方向性と度合い、グラフで言うなら傾きが急であれば、それはそれで魅力的だと言うことです。
 逆に言えば、年齢を重ねて中年やそれ以上になって知識や技術という点では円熟しても、その教師が成長していなければ、生徒にはあまり魅力的には映りません。同じノートを使って毎年同じ抗議をしているおじさん先生、というのは、決して魅力的ではないのです。それまでの蓄積も大事ですが、その時にどれだけ成長しようとしているかが、教師にとってとても大切なことです。よく言われることですが、生徒や保護者と共に成長というのが教師の理想です。


 このことは、単に私ひとりの思いだけではありません。
 皆さんが教職教養で勉強した、次の法律にも別の表現で書いてあります。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。


 常に上向きのエネルギーを持って成長すること、それを法律では、研究と修養につとめなければならないと表現しています。簡単に言えば、「研修」です。
 「生徒や保護者と一緒に自分も成長する」、このことこそが、教師の魅力でもあるし、また、「偉そうに人前でいろいろ講釈をたれる」という存在が許される基本です。
 しかし、このことは、すべての教師に十分に理解されているかと言えば、必ずしもそうではありません。年齢を加えれば、成長のテンポは緩くなっていく場合が多いですし、また、若くても逆に「困った存在」になる人もいます。
  「若くして高臺に上る」
という古典から引用された言葉があります。「高臺」と難しい漢字が使われていますが、「高い台」という意味です。
 この言葉は、人が若くして権限のある地位に就くと、まるで自分が偉くなったような錯覚に陥って、謙虚な姿勢を忘れてしまうという意味の戒めの言葉です。
 具体的には、役人とか警察官とかの地位を想定してもらえれば、理解しやすいです。20歳代でも、警察官の制服を着てしまえば、何か自分が特別の力を持ったと錯覚してしまって、「おいこら」と言うのが普通になってしまうという感じです。
 教師も、一歩間違うと、「高臺」に上ってしまいます。「おい、おまえ」の世界に入ってしまいます。生徒が自分の指示を聞くということを錯覚して、横柄な態度が身についてしまったとしたら、それは、悲しい錯覚です。
 どうか、自分で成長することの大切さとその基本として謙虚さを、常に忘れずにいてください。 


3 教育長の願いに関連して
 4月の冒頭の新任式で、教育長が、初任者の皆さんへ次のようにお話しをされました。

@ 教育の目的と手段を間違えてはいけない。
 皆さんが持っている知識や技能をそっくりそのまま伝えることが教育の目的ではない。あくまで、教育の目的は、いろいろな手段を使って人を成長させること、人を変えていくことである。高校の先生方というと、知識や技能に偏り、自分が持っている知識や技能と同じものだけを伝えることが目的と錯覚してしまう場合が多いが、決してそうではない。

A 自分が授業をしていたときは、常に次のことを考えていた。
 「自分がこの1時間の授業をしなければ、生徒がそんなことを考えもしかなったこと、それを質問したり考えさせたりしたい。」
B 説明責任を果たすことを常に考える。
 自分たちがしている教育が生徒にどのように効果が出ているかを検証し、保護者・一般社会に説明できなければならない。必ずしも数値ではかることばかりではないが、効果を自己評価しつつ進めていかなければならない。

 さすが教育長からの課題は、重みがあります。私どもにはそれはよくわかるのですが、とはいっても、皆さんには、そもそも「教育長って何?」という感覚の方もいると思いますので、お話になったことについて、少し解説をします。
 教育長は、小学校・中学校と高校との間で、授業の形態について、あまりにも大きな差があることに非常に危機感を持っておられます。小学校・中学校の授業では、児童生徒が主役、児童生徒が授業に参加しているという形が一般的なのですが、高校ともなると、知識や技術の伝授というのが中心になり、教師が一方的に教え込んでいくという画一的・一方的な、大昔と変わらない授業が続いているということへの危惧です。
 生徒たちの状況がどうなっているかを理解し、それに適した双方向の授業を構築していくことが、我々の大きな課題です。国際的な調査で、成人の科学的な常識に関しては、日本人の大人があまり成績が芳しくないというレポートが示されていますが、それも高校レベルでの「処理」の問題が関連していると思われます。
 ※科学的な常識についての調査はこちらです。→http://www.nistep.go.jp/NISTEP_News/news160/news160.html
 認知心理学的な常識ですが、ただ教え込んで記憶しなさいという「浅い処理」の授業で身につくことは、その後の中間・期末試験を過ぎればまたまた記憶から消え去ってしまうものです。
 また、授業の中には、別にそれを受けていなくても、後で教科書さえ読めばテストで点が取れると言う授業も少なからずあります。知識・技能主体の高校の学習では、ある程度はやむを得ない部分もありますが、できたら、先生方の授業の毎時間毎時間が、生徒にとって「目から鱗」であったら、こんなにわくわくすることはありません。夕食の食卓で思わず、「ねえねえ、お父さんお母さん、今日の授業でこんな面白いことを習ったよ」という会話が生じるような授業、そんな授業を期待しています。

 アメリカの有名な教育者の言葉を引用します。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 私なりに意訳すれば、
「凡庸な教師はただ話をするだけ、よい教師は説明することができる、そして、優秀な教師は具体例を示しながら自ら実践できる、さらに、偉大な教師は人の心に感動を与える」
 ということになるでしょうか。大変わかりやすい目標です。
 是非、よりレベルの高い教師を目指してください。 


4 おわりに コミュニケーションと健康
 初任から数年はの間は、高等学校の教師の場合は、特に教科指導を中心に、その基礎・基本を十分に身につける時期です。どうか、自分が経験した高校の授業にとらわれないで、新しいすばらしい授業を創造していってください。
 その際に大事なのは、コミュニケーションです。我々教員は、工場の労働者、オフィスのサラリーマンなど一般の企業と社員に比べて、より多くのコミュニケーションが必要です。@生徒とのコミュニケーション、A保護者とのコミュニケーション、そしてB管理職や同僚との職場でのコミュニケーションです。
 初任の方で落ち込んでいく場合、@とAで失敗し、さらにBもうまく行かなくて八方ふさがりとなってしまうというのがほとんどです。どの年齢でもそうですが、特に初任の先生の失敗はつきものです。手を抜いたり、逃げたりして生じた失敗は問題ですが、一生懸命やっても失敗したというのは、どこの世界でも誰かがうまくフォローしてくれたり、許してもらえるものです。
 どうかうまくコミュニケーションをとって、失敗を恐れずに頑張ってください。
 最後に、ご自身の健康は何より大切です。
 身体の異常、心の異常、どちらも遠慮せずに「私、ダメ」といってください。お互い様です。みんな助けてくれるはずです。
 
 皆さんの活躍を期待します。


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