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 019 「学力」をめぐって1 学力低下の報道                              

 完全学校週5日制と小中学校の新学習指導要領の導入にともなって、「学力」をめぐる議論が盛んです。
 文部科学省や県教育委員会の公式見解ははっきりしています。
 要約すれば、次のようになるとおもいます。
 
 単なる知識を教える部分は厳選して縮小し、その分、ゆとりの中で、自ら学び自ら考えるなどの「生きる力」を育むことができるような、課題追究的学習・主体的学習・体験的学習を増やす。
 そのための具体的な特色が、学習指導要領の内容のおよそ3割削減でしょうし、総合的な学習の時間の導入です。
  この項では、それらを前提として、ちょっと個人的な思いを述べたいと思います。
 まず、「学力」の低下を言う場合、それがどのような集団の学力をどのような尺度で測っているのかということの確認をしないと、議論がすれ違ってしまうことを注意しなければなりません。
 
 学習指導要領の内容という点からは、1977年の改訂の際に、教科内容の削減が打ち出され、今回の改訂でも、およそ3割の削減となりました。児童生徒が学ぶ知識の総量は、少なくなっていることに間違いありません。
 1977年以前は、小学校5年生の算数の1年間の授業数は210時間ありましたが、2002年からは、150時間となりました。
  この点について、最近のマスコミは、世界の他の先進国と比較して、「改革の方向が逆方向である」とか、これでは数学・理科などのとくに「理科系において世界のレベルから離される」とかの批判を続けています。

 学習する知識量の削減は、すべての児童生徒を対象とした場合、以前のような知識詰め込み教育が、教育の画一化とともに様々な弊害を生んできた、という反省にたって進められてきたものです。
 1970年代から80年代、90年代と、「落ちこぼれ」、「校内暴力」、「いじめ」、「不登校」、「学級崩壊」と、学校現場はその負の部分に苦しみ、マスコミもそれに対する痛烈な批判を繰り返してきました。

 今の教育改革の流れは、これらの問題を克服すべく、考えられてきたものです。それが、 「知識詰め込み教育」からの改善、21世紀の変化に対応できる人間に必要な「生きる力」の育成です。
 また、視点を変えれば、「小中学校・高校で学ぶだけで、はい終わり」、「教育は学校だけで完結」、という学校中心主義の発想をあらためて、生涯にわたって学んでいくという方向への転換であったわけです。そのためには、学校は、知識を学ぶことを少し犠牲にしても、生涯にわたって学んでいく力、主体的に取り組む力、意欲を育てなければなりません。具体的には、自ら課題を設定する、調べる、発表するといった手法を学習し、その能力を育てていかなければなりません。
 こういう意味での改革だったのです。

 しかし、今は、そのマスコミの報道は、ほとんど、「学力低下」に向けられています。
 マスコミというものの本質、「話題性があれば、何でも批判」という体質がでていると思うのは、言い過ぎでしょうか。当事者の教育界は、冷静に対応しなければなりません。
 教師が「最近の子どもは学力が低下している」という場合も、どういう集団の子どもに対して、どういう学力が低下しているのか、視点を明確にしないと、議論がかみ合いません。
 
 たとえば、右のグラフは、ある高校の大学合格者数のグラフですが、これを見ると、20年30年前はともかく、最近の10年間でも、減少傾向にあります。
 これを見て、すぐさま、この学校の生徒の学力が落ちているとは即断できません。
 この学校は、県下でも有数の進学校ですが、この15年間に、岐阜県の生徒数は大きく減少しそれにともない、この学校の学級の定員数も、学級数も減少しました。この学校に長く在籍している教師も目には、当然、全体としての生徒の学力は低下していると映るはずです。この10年間グラフの減少傾向は、その結果かもしれません。
 
 マスコミの中にも、冷静な論調の載せるものもあります。
 次は、5月17日の『日本経済新聞』夕刊に掲載された「十字路」というコラムに、野村マネジメントスクール主任研究員遠藤幸彦氏が執筆されたものです。

「(前略) ではいったい学力低下とはどういうことだろうか。指摘されている現象としては、計算や漢字といったいわゆる「読み書きそろばん」の能力低下が多いようである。寡聞にして英会話やパソコン操作を問題にしている議論を知らない。これではまるで旧世代が自分たちの得意分野だけを取り上げて嘆いているように見える。つまり、今日要請される基礎学力とは何かがあいまいなままの学力低下論なのである。
 また、公立小中学校の週5日制反対論(日経ビジネスの調査によれば67%)に典型であるが、学力は学校(あるいは塾)でつけるもので家庭では無関係という立場も目につく。社会生活に必要なものであれば、まず家庭が教育の場であってもおかしくないはずにもかかわらずである結局親の世代が「教える」ということを教えられてこなかったということに原因があるのではないか。
 いずれにせよ、ノスタルジーに浸っているだけでは教育を改善することはできないのは確かである。」

 基礎基本を反復してしっかり教えること、自分で追究したり、自分でレポートをまとめたり、それを発表したり、議論したり、そして、人の議論を受け入れたり。一言で言えば、コミュニケーション能力を培って、自分自身の内面的自立と社会全体の「豊かさ」を実現していくこと。
 大きな目標は同じでも、各論となると、なかなか意見は一致しません。

 議論は、広い視野を意識しつつ、しかも同じ視点で、そして冷静に進めていきたいものです。 
 


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