何故低い評価となったのかを以下の3つのポイントで説明します。
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1939年、山本が海軍次官時代の日独伊三国軍事同盟への反対 |
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1939年前半、陸軍を中心にドイツ・イタリアとの三国同盟を締結する動きが高まります。五十六は対米戦につながるおそれがあるからとこれに反対、強硬派の怨嗟の的となり身辺に護衛をつけることを心配されるほどになります。ここは、山本が対米戦を望んでいないことを強調する大事な部分ですので、ナレーション付きで詳しく映像化されています。当時の状況を学習するにはうってつけです。
しかし、残念ながら歴史の授業の時に見る教材映画を見ているようで、若干退屈です。私たちはこの映画を夕方見たのですが、妻は、昼間の大掃除疲れもあって、このシーンでは居眠りをしていました。これが彼女の感想の「前半は難しい」の理由です。眠っていれば難しいのは当たり前ですが、興味のない人間の目を開かせるには、いささか問題がありました。
真珠湾に爆弾が投下されるシーンまで、最初から1時間3分ほどかかりました。 |
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半藤氏の『山本五十六』などによれば、五十六は明治維新の際に新政府軍にはむかった旧越後長岡藩出身で、養子としてその家老の山本帯刀(長岡落城後戦死)の名跡を継いだ人物であり、それ故に反骨精神が人一倍強かったとされています。その魅力は、随所に巧みに描かれています。
しかし、その反骨精神故に、逆の面も生じています。組織の長として、自分の立場や意図をうまく説明し、多くの部下を納得させて自分の思う方向に引っ張っていくということについては、五十六はいささか淡泊でした。
このことについては、映画ではいくつかのシーンに描かれていますが、本も読んでいない全くの知識のない鑑賞者にその心情が伝わったかは、大変微妙なところです。矛盾を持ったいささか不可思議な人物とのみ映ったかもしれません。
具体的には、真珠湾攻撃に込められた五十六の意図が中途半端なものになってしまい、変容させられてしまう過程がそれにあたります。五十六はこれまでの海軍の想定対米戦の伝統的な作戦計画である、アメリカ艦隊の来航を待ち受けてその力を漸減しつつ最後は艦隊決戦によって撃滅すると言う方法をあえて否定しました。この方法では、アメリカ艦隊が本当に決戦を求めて来航するかも不確かですし、現実にはその時期が訪れるまでに、艦艇建造や飛行機の生産能力の差によって、日本軍がじり貧となってしまうことを恐れたからです。
五十六は、アメリカの国力が桁違いに強いことを認識し、そのアメリカとの戦争では、開戦劈頭にアメリカ艦隊に壊滅的な打撃を与え、その出鼻をくじいて戦意を喪失させ、日本に有利な条件下で早期講話を実現すべきだと考えていました。
それ故に真珠湾攻撃では、多少の犠牲を払ってでも、アメリカ軍に大打撃を与える必要がありました。しかし、軍令部(海軍の作戦立案の最高機関)の指導者やハワイを攻撃した空母機動部隊の指揮官は、五十六の意図を十分理解せず、攻撃は中途半端なものとなりました。映画では、それについて、激怒せず現実を受け入れる山本の姿が忠実に描かれていますが、短い描写からその心情までを汲み取るのはなかなか難しいことです。 |
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山本五十六を描いた映画としては、年配の方ならご存じですが、1968年の東宝映画『連合艦隊司令長官 山本五十六』(主演三船敏朗 丸山誠治監督作品)があります。私が中学生の時の作品でしたが、戦争映画好きの軍国少年?だった私は、父親と映画館で見た記憶があります。
この映画は、東宝撮影所の大プールに模型の軍艦を浮かべての撮影でしたが、今回は、海戦シーンなどにはCGが多用されています。よかった点は、最後の五十六の乗機一式陸上攻撃機の撃墜シーンも含めて戦闘機の空戦シーンや攻撃機の魚雷投下、爆撃機の爆弾投下など、模型では撮影できない視点からの映像が巧みに織り込まれており、パイロットの目線からの戦場が実現されていることです。また、本物の海の映像にCGが組み込まれているため、プールを進む模型の軍艦とは波のリアリティが違います。
しかし、これまたその反面、物足りない部分も感じました。
爆弾命中シーンもCGで描かれているため、本物の火薬を爆発させて模型を壊して撮影したシーンに比べて、逆に迫力はもう一つなのです。メラメラと燃え上がる赤い炎の色、黒い煙の濃さなど、実写に比べると、何か薄っぺらな映像になってしまいました。この作品だけを見た人はそうでもないでしょうが、東宝の旧作と比べると、こうした違いが気になってしまいます。 |
私の方に知識がある分、辛口の採点になりました。
しかし、この時代の重いテーマを大河ドラマ風に暑かった映画は久しぶりです。それ故、若いカップルが自主的に見に行くとはとても思えません。おじいさんが少年少女のお孫さんを連れて見に行っていただき、行き帰りにひとしきり蘊蓄を傾ける、そういう映画になってもらえればと思います。
最後に次につながる話をします。
山本五十六をテーマにした本は、半藤氏の本の前にも、阿川弘之著『山本五十六』(新潮社 1965年)をはじめとして数々の作品が出版されています。
最近の本で、新しい視点を提唱している本があります。
田中宏巳著『人物叢書 山本五十六』(吉川弘文館 2010年)です。新しい視点は次の点です。
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東南アジア占領戦とソロモン・ニューギニア戦は性格が異なることに日本軍は気づいていませんでした |
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トラック諸島の安全のためラバウルを占領して根拠地とし、今度はそのラバウルが空爆を受けるとなると、その安全のためにソロモン諸島やニューギニアのポートモレスビーの占領を企図した日本海軍ででしたが、それまでの東南アジア植民地での戦いと、ソロモンニューギニアでの戦いは、基本的に性格が異なっていました。
すなわち、ソロモン・ニューギニアの戦い、とりわけニューギニア戦いではアメリカ軍と並んでオーストラリア軍が犠牲を惜しまず奮闘をしました。これは、シンガポールやインドネシアを占領する際に植民地を防衛していた本国軍の淡泊な戦いぶりとは異なるものでした。その違いはどこから来るのでしょう。
それは、ニューギニア・ソロモンの戦いが、オーストラリアにとっては、国土防衛戦であり、あたかも日露戦争において満州・朝鮮半島を奪われれば日本本土の防衛が危うくなると言う発想と同じものだったからです。その国土防衛戦にオーストラリア軍は必死の態勢で挑んできました。
「内地にいた連合艦隊司令部が、戦いが植民地の再分配からオーストラリアの国土防衛戦に転化したことに気づくほど敏感であったとは思えない。」(同書P213)
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日本軍の陸海軍の指揮命令の分立は島嶼戦(とうしょせん)には決定的なマイナスにりました
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これまでの戦いでは、日中戦争は基本的には陸軍の戦いであり、また、東南アジアの戦いでも陸では陸軍が海では海軍がと言うように、日本の陸海軍はそれぞれ個別に戦いを進め、それでも勝利を収めることができました。
ところが、ソロモン・ニューギニア線では、戦いは基本的には島嶼戦となりました。一つの島を巡って、航空隊によって制空権が争われ、海軍が制海権を巡って死闘を演じ、さらに島では陸軍対陸軍が攻防を繰り返すという戦いとなりました。
「島嶼線の目的は島の獲得と飛行場の建設にあり、それゆえ戦いの中心は陸上戦であった。だが島の大部分がジャングルに覆われ、人間の生活圏も海岸地帯に限られるため、戦場もおおむね生活圏である海岸地帯に限られた。航空機は言わずもがな、海上に行動する艦艇の砲弾も届くため、陸海空の戦力が島嶼上の戦闘に参加することができた。島嶼線の本質は、陸海空の三戦力が参加が可能で、そのため三戦力を機能的に活用することによって大きな戦力、火力を生み出した方が優位に立つことにあった。」(同書P247)
この島嶼線においては、陸上部隊・艦艇・航空隊の陸海空の3軍の緊密な連絡jこそが勝敗のカギを握ります。
ところが日本軍は、もともと陸軍と海軍がそれぞれ個別に天皇に直属するという体制をとっていたため、大本営という両軍の協議機関はあっても、現地に両軍を統率する最高指揮官を設置すると言うことは体制上不可能なことでした。
これに対してアメリカ・オーストラリア軍は、たとえばニューギニアでは、陸軍のマッカーサー大将が南西太平洋軍最高司令官となり、両国の陸海軍・航空隊を指揮下に治めて、統一的な運用を実現しました。1942年後半から翌1943年初頭にかけて、未だ戦力において不十分な状況下においても、アメリカ・オーストラリア軍は陸海空戦力を一体化し、強力な火力を生み出して日本軍を押し返し始めました。
日本においては、「統一司令部の設置のためには統帥権を見直す必要があり、その行き先は天皇制の見直しにまで発展する可能性があり、結局日本の敗北まで見直しすることができなかった。これが戦争中、最初に現れた歴史の節目であるといっていい。」(同書P215) |
これまでにないなかなか面白い指摘です。
田中宏巳氏は、元防衛大学校教授(2008年定年退職)ですが、前掲書の前に、2009年に『マッカーサーと戦った日本軍ーニューギニア戦の記録』を著されています。
上記の視点からニューギニア戦を見直した649ページの大著です。現在読んでいますが、読み終わり次第、なんらかの形で紹介します。
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