2007-06
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104 2007年11月12日(月) やっぱりすごい。映画『always 続・三丁目の夕日』     

 久しぶりに、次男Yと映画を見ました。 
 
「always 続・3丁目の夕日」です。
 
 実は、2005年の11月の第1作の公開の時は、劇場での鑑賞はパスしてしまいました。
 DVDがでてから、レンタルして来て、「これは見ておけばよかった」と後悔しました。
 なぜ、パスしてしまったかというと、理由は3つありました。

次の月に公開される予定だった「男たちの大和 YAMATO」の方に、気持ちが行ってしまって、いわゆる「大和モード」になっていたため、「3丁目の夕日」モードにはなれなかった。

大学生の頃から「ビッグコミックオリジナル」は愛読書となっており、原作の西岸良平「3丁目の夕日」は30年前から知っていますが、「ビッグコミックオリジナル」には、「3丁目の夕日」以外にもっと泣かせる作品も多く、私の評価の中では、「3丁目」はあまり高くありませんでした。

「3丁目」の時代設定となっている昭和前半は、団塊世代にとっては懐かしい時代ですが、昭和30年生まれの私には、「4・5年ほどずれた時代」という認識もありました。平成生まれの方から見ると、「同じジャン」ということになりますが、微妙な違和感こそが人の心を強く縛ります。
「3丁目」に登場する子どもたちは、「
団塊世代」であって、その次の私たちの世代、誰も名前を付けていませんから、とりあえず、「ポスト団塊世代」と言っておきますが、とは少し違うのです。


 しかし、DVDを見て、それらのこだわりは、とんでいってしまいました。その素晴らしさは、私が書くより、世間の評価を見れば明らかです。

 おかげで、まるで、罪滅ぼしのようにDVDを何度もレンタルして、本当に何度も何度も見ました。そのつど涙を流しました。複数回見た回数では、「
たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」のこの「3丁目」が、私個人としては群を抜いています。
 
 
何度も見たおかげで、あちこちのサイトに指摘されているいろいろ理不尽な場面(製作ミス)

冒頭のシーンで飛び上がっていく模型飛行機のプロペラの回転が、逆向き

東北本線の蒸気機関車が通過する荒川鉄橋の場面では、橋の橋台だけが消し忘れてある。

六子(堀北真希)が車中から眺める台東区の道路の中に、1カ所自動車が右側通行している部分がある。

淳之介と一平が乗り継いで出かけていく荻窪までの市電のルートが不自然

 
 などなど、がよく分かりました。
 
 その名作の続編です。
 公開日が近づくにつれて、期待が高まる一方、がっかりさせられる怖さと不安にも襲われました。そのための逡巡のおかげで、1週間遅れて見に行くことになりました。

 結果は、ずばり、よくやってくれました。またまた、絶賛の名作です。


  わが家の映画「
always 続・3丁目の夕日」に対する評価はこうなりました。 

お薦め人 お薦め度
(3点満点)
コ  メ  ン  ト
★★★ もうひたすら之感動。二番煎じにならず、脚本の段階ですでに大成功です。
次男Y(21歳) ★★★ 前作を見ていないけどよかった。
映画「always 続・3丁目の夕日」の公式サイトはこちらです。http://www.always3.jp/


 一作目と同じ人物・場面設定で、一作目のストーリーを知らないと、話が繋がらないという場面も何回かありましたが、映画でもDVDでも一作目を見ていない次男Yでも、感動することができたようです。



港区の三田から北側、赤羽橋・東京タワー方面を撮影した写真です。
 通りは桜田通り、国道1号線です。昔は、ここにも東京都電が走っていました。

 東京タワーの見え方(大きさ)からいうと、 「3丁目」の舞台設定はこの地点より少し北側でしょうか。

 3丁目の説明に、「東京の下町」という表現がでできますが、下町といっても、墨田区や江東区の下町とは場所が全然違います。


 ストーリーに踏み込まない程度に、よかった点をいくつか上げてみましょう。

よくある話ですが、ストーリーはあまり先が読めないと面白くありません。ある程度自分でストーリーが読めて、しかも最後の場面で、自分の予想以上にストーリーの方が巧だった、よかったという展開になれば、最高です。
小説家
茶川竜之介(吉岡秀隆)は古行淳之介少年(須賀健太)を養育する権利を懸けて、芥川賞に挑戦します。さて、あなたは、受賞できる方がいいと思われますか、それともできない方がいいと思われますか。
そして、どちらにしても、結果に伴って彼が得るもの、他の出演者が彼に示すものは何でしょうか。この展開が、実に巧です。

「あれ、今のって、なぜかな」と気にとめていると作品の終盤で、「なるほど」となって、感動が倍加する「部品」がいくつか盛り込んであります。ひとつだけ、絶対のキーワードを言っちゃいます。「タイトル」です。

昭和30年代のグッズへのこだわりは、驚くべくレベルです。上に書いた、「4・5年違う」私にも、分かるもの、嬉しいものが、いくつもあります。
これも一つだけ紹介します。
淳之介少年、鈴木一平少年(小清水一輝)が学校で給食を食べるシーンがあります。メニューは、脱脂粉乳、固形マーガリン、コッペパン、そして・・・、もう一つは、やはりあれしかないですよね。

懐かしの名場面は、東京タワー以外に、今回は、ふんだんに出てきます。
東京駅と「特急こだま」羽田空港と4発プロペラ旅客機DC6B、そして、頭の上に高速道路が走っていない昔の日本橋


  上に高速道路が走っていない、昔の日本橋。「絵はがき」の写真から。
 日本橋については、目から鱗「街道を歩く1 もちろん最初はお江戸日本橋」で説明しています。


これは私の、「3丁目」時代の写真です。
 撮影された正確な日時は分かりませんが、自分の記憶では、おもちゃを一杯並べていたところを近所のおじさんに撮影したもらったのを覚えています。(このころ私の家にはカメラはありませんでした。今と違ってカメラそのものも貴重品でしたね。)

 ということや、姿形からいって、4歳から5歳頃の写真ではないかと思っています。
 昭和30年2月生まれですから、昭和34年〜35年頃の写真と言うことになります。
 ちょうど、「3丁目」の時代と同じ時代になります。
 手に持っている電車は木製ですが、畳の上に並んでいる電車や自動車は全部ブリキ製です。
 これが全部現存していたらどれだけ骨董品的な価値があるでしょうか。(^_^)
 左端に、
電車特急こだまがちゃんとあります。
 そのとなり2台の電車の窓には、中に乗って乗務している運転手の姿が描かれています。
 運転手が、左右に2人いるのが分かりますか。この時代は、ATSも何もありませんから、運転手と助手と2人で乗務していたのです。
 

 【追記】(07/11/18 に書き加えました。)
 特急
こだまといえば、小学校2年生(1962(昭和37)年)の時、今から思うととても面白い経験をしました。
 私が通っていた
岐阜市立白山小学校では、当時、毎年、学校からどこかに出かけて行う写生大会がありました。その時我々2年生が出かけたのは、国鉄(今のJR)岐阜駅だったのです。
 駅ですからホームとか電車が入った風景が写生対象となります。

 その時、電車好きだった多くの男子が考えたことは、「特急
こだまを描こう」でした。夢見る少年としては、ごく普通の発想でした。しかし、現実には、これはなかなか困難をともなうものでした。

 特急
こだまは、1958(昭和33)年11月から走っていましたが、当初は2往復のみでした。幸い、私たちが駅に行った昭和37年当時は、こだまつばめはと富士などの電車特急も、同じ151系という電車特急になり、こだまにこだわらず、「花形電車特急」を描くのであれば、昼間に岐阜駅に何時間か滞在すれば、何本かの「こだまタイプ」の電車特急を見ることができました。

 しかし、実は、
こだまは岐阜駅に停車せず、通過するだけの電車でした。映画「3丁目」の中でもこれは重大なポイントですが、こだまは東京を発車すると大阪までの間に、横浜・名古屋・京都の3駅しか停車しません。
 私のおぼろげな記憶では、
つばめは岐阜駅に停車してくれたと思います。
 いずれにしても、ほんの1分ほどです。
 超スピードで通過する電車や僅かに停車する電車を写生することなどほとんど不可能です。
 
 それでも、少年たちはけなげに頑張りました。
 そして、結局写生大会の時間ではうまく描けず、少なくとも私は、家に帰って、貸本屋で借りてきた少年雑誌から
こだまを探して、写真を見ながら絵を完成させました。

 懐かしい思い出です。 


「父さんにとって、昭和30年代の前半の時代はどんな時代だったの?」

「前にも言ったけど、この映画は、一平君や淳之介君のような、俗に言う団塊の世代と、その親の世代を描いた映画だと思う。今から思うと金もなく貧乏だったけど、それ以外にみんなが大事にしていた何かがあった、という誇りとそれに対するノスタルジックな思いがこの映画を支えている。実は父さんたちの世代は、団塊の世代の少し後の世代だから、少し違った感覚もあるのだけれど、おおざっぱにすればそういう共通する昭和30年代の「時代の文化」というものがあった。」

「いろいろな細かいグッズは懐かしいんでしょ。特急こだまとか。」

「特急こだまに、給食の○○○○○、舗装されていない横町の道、銭湯で飲むフルーツ牛乳、お菓子屋のスカばかりのくじ、ゴム動力の模型飛行機、街頭のあやしげな万年筆売り、洗濯板・・・・。みんなみんな懐かしいものばかりだ。」

「ベーゴマとかは遊んだの?」

「小さい頃、上の世代が遊んでいるのを見てはいたが、自分たちはあまりやらなかった。」

「そうなんだ。」

「父さんたちポスト団塊世代は、団塊の世代が盛り上げた「文化」のほとんどは見ていたが、自分たちはあまり熱心にそれをやらなかった。そして、確実にいえることは、それを次の世代には伝えなかった。
メンコやベーゴマを伝えた記憶は全くない。
そういう意味では、ポスト団塊世代は、
団塊文化に対する抵抗、裏切りの世代なのかもしれない。
日本は貧しい時代から確実に、経済成長の時代へと移っていった。
何もなかったわが家に、4歳の時にTVが入り、小学校5年生の時に冷蔵庫が、中学校1年生の時に軽自動車がやってきた。」

この映画の続編、続々三丁目の夕日はあるかな?」

「ない。いや、ない方がいいと思う。
今回の映画は昭和34年の設定だったが、その翌年は、安保闘争。そして、経済成長の時代にはいる。オリンピックは昭和39年。『
貧しくてもみんなで支え合って何とか生きていけて、そして平和だった時代』というのは、30年代の中頃が限界だと思う。」


 「続・3丁目」もまた、多分、ロングランになります。是非、映画館でご覧ください。ハンカチかタオルを忘れずに。 


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