2006-08
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098 2006年12月24日(日)   映画「武士の一分」藤沢周平3部作と武士道・羽前鶴岡   

 映画「武士の一分」を見に行くことについて、わが家族の意見はなかなか一致しませんでした。

Y

「時間がない時なので、興味がない時代劇にあまり行きたくない。」

「斬り合いはいや。『たそがれ清兵衛』ほどよくないって話だし。」

 
 それでも、無理矢理連れて行きました。
 「
武士の一分」は、ご存じの藤沢周平原作の時代小説を山田洋次監督が映画化した、藤沢・山田ワールドの映画3部作の完結編です。

 実は、前前作「
たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」は、うまくタイミングが合わずに、わが家族は私も含めて、映画館では見ていません。つまり、わが家族が映画館でこのシリーズの見るのは初めてです。もっとも、4人とも、TV放映やビデオで丸ごと及び、一部鑑賞したことはあります。
 私はと言うと、前前作・前作とも、ビデオで見て大変な感動を受け、これまで「たそがれ」は4回、「鬼の爪」は5回もビデオを見てしまったという、藤沢・山田ファンです。
 そこまで気に入っていることは、家族に隠して、強引に連れて行きました。

  わが家の映画「
武士の一分」に対する評価はこうなりました。 

お薦め人

お薦め度

(3点満点)

コ  メ  ン  ト

★★★

主人公の「目の見えない世界」を映像で著す工夫が見事だった。

妻N

★★

他の2作に比べて、ちょっとシンプルだったかな。でもよかった。斬り合いは怖い。

次男Y(20歳)

★★★

・・・(無言、文句言っていたのによかったので、照れくさくて沈黙の讃辞)

3男D(16歳)

★★★

「たそがれ」や「鬼の爪」以上により繊細な人の心動きがテーマの映画。

映画「武士の一分」の公式サイトはこちらです。http://www.ichibun.jp/

原作は、藤沢周平の小説『盲目剣谺返し』(『隠し剣 秋風抄』文春文庫 2004年所収)


 秋から冬にかけての、一連の映画、「
出口のない海」「父親たちの星条旗」「硫黄島からの手紙」では決して見られなかった、高い評価です。
 家族4人で合計11ポイントというのは、「
日本沈没」以来です。
 
 この映画には、特に難しい解説は入りません。
 見所を、ちょっとだけお話しします。

 その前に、これは3部作ですから、「
たそがれ清兵衛」「隠し剣鬼の爪」も含めて、藤沢・山田作品について触れなければなりません。

 私が「
たそがれ」と「鬼の爪」を気に入っている点は、次の諸点です。

  1. 話の舞台は、実在していない架空の羽前海坂藩です。山形県鶴岡を想定したこのドラマの舞台が、その辺境性(あくまで江戸中央から見ればですが)ゆえに時流に乗り遅れた小勢力と言うイメージを作り上げています。

  2. さらに、主役を演じるのは、藩士の中でも身分の低い貧しい平侍です。藩という巨大な権力機構の中で、主人公やその家族の運命を翻弄されます。その悲しさこそが、この作品群の感動の源です。

  3. 江戸時代と言えば、個人の自由よりも「お家の大事」が優先する家名第一の価値観の社会。そして、家と家との間では、格式がすべてに優先します。人々は、その抑圧の中でそれぞれの感情を半ば殺しつつ、一方でそれぞれの生き方をたくましく捜さねばなりませんでした。

  4. その中でもとりわけ女性は、男性上位の封建社会の中で、より以上に悲しい運命に陥る存在でした。

  5. 以上のことは、そのまま表現してしまえば、ただ悲しいだけの抑鬱に満ちた映画となってしまいます。しかし、山田洋次監督の世界はそうではありません。貧しい中で家族や愛する人を大事にする男、限られた選択肢の中で精一杯生きる女たち、その凛々しさと愛おしさが、見るものに感動をもたらします。私は、時代制限という極限の状況の中で映し出される恋愛物語と思っています。「鬼の爪」で松たか子演じる下女きえが言うセリフ、「それは旦那さんのご指図でがんすか」には、何度見ても泣かされます。

  6. 庄内平野を囲む峨峨たる東北の山々、稲と水田、そして雪景色。自然の美しさは、さりげなく映画が表そうとする心情をより豊かなものとしています。そして、庄内弁の醸し出す、独特のやわらかさと人情。東北地方の方にとって、その言葉は必ずしも誇れるものとはならないこともあるという事情は知っていますが、この作品群における庄内弁は、これ無しでは、この映画の成立はありえないといえるぐらい、重要な役割を担っています。

  7. 子どもや女中や下男、中間の言葉や仕草の中にある、古い日本の習俗や文化。炊事、薪割り、野良仕事、銘々膳での食事(流しでお茶碗を洗ったりはしません)、布団の打ち直し、囲炉裏の料理、着物の仕立て、拭き掃除、履き物を脱いで座敷に上がる作法、祭り、獅子舞、寺子屋の手習い、街道を通る荷馬車・・・・。これらを忠実に映像化することは、山田洋次監督のこだわりでしょう。ほんの10秒の布団の打ち直し(綿入れ)シーンのために、専門家(加藤(文)布団店)の指導を受けていることが、「たそがれ」の最後の部分には示されています。

  8. 悲しくせつなく生きる人々への限りない愛情と敬意、映画の全編を通して、監督の思いが伝わってくる作品です。

 
 「
武士の一分」は、この前2作に比べれば、設定や登場人物はシンプルになりました。
 
  この作品は、毒味役の役目中に貝の毒に当たって盲目となってしまった侍、三村新之丞(木村拓哉)とその妻加世(檀れい)と三村家の中間、徳平(笹野高史)の心のドラマです。
 
 「たそがれ」では大きな役割を演じた子役は登場しません。前2作と違って、自然の風景、雪景色、山々、田園風景等スケールの大きなものや、場面転換を促すものは出てきません。映像の中に登場する舞台は、ほとんど、三村家の屋敷とその庭だけです。

 この辺がシンプルと言われる所以です。
 
 ただし、それこそが、今回の山田洋次監督の意図するところです。
 主人公は、光を失って暗闇の世界に生きる男です。
 峨峨たる山々や田園風景は、主人公にとって意味はありません。自分の生活する住まい空間だけが意味のある世界です。春から夏秋にかけての季節の移り変わり、つまり、木々の芽吹き、飛び交う虫、蝶々、蛍、弱く吹く風、強く吹く風、舞う枯れ葉・・・、そして、家の中の様々な音、遠くの話し声。
 
 それらの小さな場面の設定が、尺八と琵琶と笙の音とともに、盲目の主人公の心情や、彼が感じる世界を細やかに表していきます。

 妻が出て行く時の雨、妻のたすき、そして「芋の煮付け」。いろいろなこだわりに思いを込めながら、夫婦の愛情がせつなく描かれていきます。
 前2作とは違った視点からの、見事な「
愛妻物語」です。
 TVのCMのイメージでは、何か仇討ちそのものと言った感じですが、実は違います。確かに、果たし合いはあります。しかし、重要なのは何のために誰のために戦うのか、その意味です。

 「
武士の一分」、まだまだ上演が続いています。
 ご夫婦でご家族で、大枚のお金をはたいても、それだけの価値がある映画です。
 ついでに、「
たそがれ」と「鬼の爪」をまだご覧になっていない方は、この年末年始に、レンタルビデオ屋さんに行ってください。 

「今年の年末旅行は、会津若松に行くと言っておいたが、これは、兄ちゃんが大学の卒業論文で、幕末会津藩のことを書いているので、父と兄が画策して決めた。」

「会津なら新選組の関係で興味がある。松平何とかという藩主がいた藩だよね。」

「そうだ。さすが、大河ドラマ「新選組」の大ファンだっただけのことはある。ところで、泊まる温泉地は会津ではない。」

「福島県じゃないの?」

「実は、湯野浜温泉と言って、山形県の南部の温泉だ。そのー、藤沢周平の作品群の舞台となった庄内鶴岡の近くなのだ。」

「時間もないのに、えらい遠いところへ。」

「車で往復、1800km以上はある。それでも行く。「たそがれ」「鬼の爪」「武士の一分」の舞台を、わが岐阜県人がわざわざ見に行く。ちょっと遠いかな?」

「ちょっとじゃなく、ずいぶん遠い。雪が降ったら遭難しそう。」

「それでも行く。」

 ということで、山形行き年末旅行を敢行することになりました。夜出発の車中泊、温泉1泊、また車中泊という強行軍です。雪よ、ふらないで。(^.^)
 宮城・山形・福島旅行記はこちらです。


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