2006-07
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097 2006年12月17日(日) 映画「硫黄島からの手紙」続 硫黄島の戦い3       


 「硫黄島からの手紙」、前週の続きです。
 アメリカ軍の当初の予定、「5日で占領」を不可能にし、なんと、36日間もの日数と日本軍の死傷者数以上の死傷者をださしめた理由は何だったのでしょうか?

 あちこちに書いてある話ですが、「未来航路」らしく、図と表と地図をふんだんに使って、太平洋戦史は初心者と言う方にも分かるように説明します。

 硫黄島は、面積約22万平方メートルの小さな島です。
 最高峰は島最南端の摺鉢山169mで、北部には、100前後の標高を持つ元山台地があります。
 日本軍は、摺鉢山と元山台地に陣地を構築して、アメリカ軍を迎え撃つ計画でした。
   ※地図は、以下の参考文献一覧にある諸図面を参考に作成しました。


2 水際撃滅戦術と後方縦深複郭陣地による抗戦戦術


水際撃滅戦術ともう一つの何とかというのはどう違うの?」

「島に敵が上陸してくると思いなさい。もちろん、何万人も攻めてくるのだが、豪華客船に乗って港に着いて降りてくるわけではない。敵前上陸だから、上陸用舟艇とか、水陸両用兵員輸送車とか少しずつ別れて乗って、そいつらが何百と上陸する浜辺に押し寄せてくる。

「映画『プライベート・ライアン』のノルマンディー上陸と同じシーンだね。」

「そのとおり。では、防衛する側の指揮官として、その上陸部隊をやつけるのにどうするか。」

「『プライベート・ライアン』のドイツ軍のように、海岸線に頑丈なコンクリート製の陣地をつくって、そこから大砲や機関銃を撃ちまくる。」

「そうだ。あのシーンは、すごかった。ああいうコンクリートの陣地をトーチカという。アメリカ兵やイギリス兵がばたばたとやられた。あの方法こそが、水際撃滅戦術なのだ。」

「つまり、海岸線に堅固な陣地をつくって、敵を上陸させないようにやっつける方法というわけ。」

「そのとおり。この方法でも、陣地の作り方によっては、上陸軍にかなり犠牲を強いることはできる。
1943(昭和18)年末からの中部太平洋におけるアメリカ軍の反抗に対して、それぞれの島の日本軍守備隊は、この方法でアメリカ軍上陸部隊を迎え撃った。」



表1 中部太平洋の島嶼における日本軍とアメリカ軍の戦い

島   名

面積平方km

日本軍
守備兵力

日本軍
死傷者数

米軍
上陸兵力

米軍
死傷者数

上陸日

占領完了
までの日数

タラワ(ギルバート諸島)

4.4

4,836

4,690

17,000

3,301

43/11/21

4日

クェゼリン(マーシャル諸島)

4.9

3,900

3,648

34,000

3,071

44/02/01

4日

サイパン(マリアナ諸島)

183.9

31,629

約30,600

66,779

14,111

44/06/21

19日

ペリリュー(パラオ諸島)

16.2

10,468

10,022

42,000

8,844

44/09/15

74日

硫黄島(小笠原諸島)

22

20,933

19,900

61,000

28,686

45/02/19

36日


表2 栗林中将と硫黄島の防備方針

44/06/08

第109師団長栗林忠道中将、硫黄島へ赴任。

44/06/20

栗林師団長、後方縦深陣地の構築を命令。

44/07/01

大本営は、硫黄島を含む小笠原諸島を防備する部隊として、小笠原兵団を設置。栗林中将が兵団長に就任。

44/08/20

大本営陸軍部が改正した「島嶼守備要領」を全軍に指示。
・従来からの水際配備の思想を根本的に変更
・後退配備による隊上陸防御方針を採用(上陸地点後方に縦深陣地を構築)

44/09/15

アメリカ軍パラオ諸島ペリリュー島に上陸。守備隊、74日間の抵抗の末、敗北。



 日本は、第一次世界大戦後、旧ドイツ領であった赤道以北の南洋諸島を委任統治領としました。左図のマーシャル諸島・トラック諸島・マリアナ諸島・パラオ諸島です。
 もし、アメリカ艦隊との決戦となれば、西へ向かって日本へ来航するアメリカ艦隊に対して、これらの島々にある海軍基地からまず航空機が迎撃に向かい、敵勢力を漸減させたのち、連合艦隊が出撃してこれを撃滅すると言うシナリオを持ち続けてきました。
 その重要な海軍基地が、
トラック島であり、太平洋戦争開戦後は、その基地を守るために、東は日付変更線すぐ西側のギルバート諸島、南は、ラバウル、さらには、ソロモン諸島を占領しました。中部太平洋の島嶼は、本来、来航するアメリカ艦隊との決戦の場であるはずでした。


 ちょっと、ここで、敗北した日本軍の将兵の名誉のために、確認しておかなければないことがあります。
 硫黄との戦いが、「太平洋の戦場で唯一、アメリカ軍死傷者数が日本軍のそれを上回った戦い」であることは間違いのないことです。しかし、他の場所の日本軍将兵が、情けない戦いをしたわけでは、決してありません。
 タラワでも、クエゼリンでも、襲来したアメリカ軍に比べて明らかに劣勢な兵力でありながら、日本軍守備隊は善戦しました。
  タラワやクエゼリンは、硫黄島よりもさらに小さな環礁で隠れる丘もないような平坦場所ですが、日本軍は強固な陣地をつくって、米軍に多大な出血を強いました.。

「善戦したけど、やはり、水際撃滅戦術では、無理があった。」

「どうしてだろう?」

「映画を見ている限り、あの戦艦の艦砲射撃は強力だね。水際陣地はたとえ堅固なトーチカでも、破壊されてしまうんじゃない。」

「全部が全部やられてしまうというわけでもないのだけれど、やはり、アメリカ軍の艦砲射撃や航空機の攻撃は脅威だった。
 たとえば、タラワ島の戦いでは、砲撃によって通信線が寸断されて連絡が取れなくなり、しかも、戦い初日に、守備隊司令部のトーチカに艦砲の巨大砲弾が直撃して、さしもの堅固なトーチカも粉砕されてしまった。司令官柴崎少将他が即死してしまわれた。」

「サイパン島は、大きな島でしかも守備隊も十分いたのに、あまり長く抵抗できなかった。」

「サイパンの場合は数は揃ったが、上陸直前のことで、海岸にも十分な陣地を構築できなかった。砂浜にタコ壷陣地(人間が穴を掘って中に潜む陣地)ぐらいでは、艦砲の攻撃にひとたまりもない。
 それから、
水際撃滅作戦をとると、それがいったん打ち破られると、後があっけない。具体的には、弾薬や食料の貯蔵場所をどこにするかという問題がある。どういう意味かわかるかい。水際撃滅作戦となると・・、」

「弾薬や食料も水際に貯蔵する。ということは、いったん防衛戦を破られて後退すると、とたんに弾薬食糧不足となってしまう。」

「実際に、サイパンではそうなった。
 そして、はじめから「持久戦」を覚悟しておかないと、最後は、日本軍のいつものワンパターンとなってしまっていた「
バンザイ突撃」(夜間バンザイと叫びながら全滅覚悟でアメリカ軍の防衛戦対して行われた突撃。多くの死者を出して、結果的に、アメリカの勝利(占領完了)を早めました。)が行われてしまう。」

「ということは、栗林中将は、海岸線とは違う山の方に陣地をつくって、しかも、映画の中でも出てきたけど、簡単に突撃して死ぬな抵抗しろと言い続けたところが、立派というというか、アメリカ軍を苦戦に追い込んだというわけだね。」


 1945年2月19日、上陸一日目の南海岸の様子。左手が海、右手高くなっている方向に千鳥飛行場があります。

 海側には上陸用舟艇が並んでおり、狭いビーチに水陸両用車、トラクター、物資などが並べられています。遠くに見える山が、この4日後に星条旗が掲揚される摺鉢山です。
 摺鉢山との位置関係から、写真の場所は南海岸の東側の方、第4師団の上陸地点と推定できます。


 同じく海岸から日本軍陣地を攻撃するアメリカ海兵隊ロケット部隊。専用の発射台を積んだトラックからの発射。
 ロケットは、自分で火炎を噴射して飛ぶ兵器で、今と違って誘導弾ではないためピンポイントの命中は期待できませんが、逆に簡単にかつ大量に発射できるため、ある一定地域に打撃を与えるのには有効な兵器でした。アメリカ軍はサイパン島攻略戦からこの新兵器を使用しました。硫黄島の戦では日本軍も密集している海兵隊の攻撃に多用して効果を上げました。


 上の2枚の写真は、本やウエブサイトからのコピーではなく、左の封筒からのコピーです。この封筒は実際にアメリカで使用されたものです。
 封筒の右上に、前回「2006年12月3日」の日記で紹介した「摺鉢山星条旗掲揚記念切手3セント」が貼られています。
 そして、この封筒そのものが、上記の2枚の写真を刷り込んだ、「硫黄島の決戦記念封筒」なのです。


 上の表1・2をご覧下さい。
 栗林中将は、大本営の正式指示(1944年8月)の2ヶ月も前に、独断で硫黄島の防衛方針を変更しています。
 今から冷静に考えるとこういう判断もあり得るのですが、当時としては、なかなか難しい決断だったと思います。ペリリュー島が後方縦深陣地による抵抗によって、2ヶ月以上抵抗するのは、この年の秋のことです。決断の時点では、その効果はわかっていません。
 
 敵が押し寄せて上陸してしまうのを我慢して、敵が上陸地点に密集するのを待つというのは、心情的になかなか難しいことと予想できます。
 彼は、アメリカやカナダ勤務の経験を通して、普通の陸軍人にはない合理的な思考力や判断力を身に付けたとされていますが、状勢を分析する希有な才能のたまものだったのでしょう。
 
 栗林はまた、将兵に、「バンザイ突撃」とはまったく反対の抗戦方法を命じました。
 彼が将兵に配布した「敢闘の誓い」6箇条には、次の文言が見られます。

  • 5 我等は数十人を幣さざれば死すとも死せず。

  • 6 我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん。

 しかし、最大の名誉は、その命令を忠実に実行した将兵に与えられるべきでしょう。

 陣地構築命令から上陸までおよそ6ヶ月、将兵は、食糧不足・水不足・資材不足の中、火山による硫黄と高温に悩まされながら、摺鉢山と元山台地に延長10数キロの地下道と陣地を掘削しました。これは、いわば、自分たちの墓穴を掘っているのと同じです。それを将兵は掘りました。
 深いところでは地下20m以上にも及んでいます。この陣地は、アメリカ軍の砲撃や爆撃にびくともしませんでした。

 そして、上陸から、36日間。
 元山台地の地下壕で、将兵は、ねばり強く戦いました。
 
 
映画では、日数の経過が表現されていなくて、その苦労の実感が今ひとつだったのは、残念でした。
 しかし、この硫黄島2部作は、アメリカ人には有名でも、日本人の戦後世代にはあまり有名でなかった硫黄島の戦いを、少なくとも、お茶の間のレベルの話題にしたという点で、意義深いものとなりました。

 硫黄島シリーズ、いろいろ調べて、長く書いてきてしまいました。最後は日記らしく、庶民的な感情で終わりにします。
 今もなお、硫黄島の洞窟陣地に眠る多くの英霊のご冥福を祈ります。

  参考文献一覧


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