2006-04
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094 2006年 9月23日(土) 映画「出口のない海」、人間魚雷回天        

 最近の日記は、ほとんど映画鑑賞シリーズのみと化しています。

 それでも書きます。
 この未来航路を継続してご覧になっておられる方は、我が家族が「
出口のない海」を見に行かないはずはないと思っておられるでしょう。
 期待どおり(^.^)、見てきました。私と次男Yの二人だけでしたが。

 ストーリーは、1943年の学徒出陣によって兵役についた大学野球のエース(甲子園優勝経験者)が、必死の特攻兵器である人間魚雷回天乗り組みを命じられ、幼なじみの恋人を思う気持ちを抱きながら、死と向かいあいつつ自分なりに生きる意味を見いだしていく苦悩を描いた、戦争、青春、and「哲学」映画です。(そう期待して見にいきました。)

原作小説は、横山秀夫の同名小説『出口のない海』です。(1996年マガジン・ノベルス・ドキュメント、2004年講談社、2006年講談社文庫)


 『男たちの大和』は、戦艦大和という軍艦そのものにストーリーがあり、また、描かれている群像が、士官や学徒士官ではなく、一般の兵隊というところに魅力がありました。
 『男たちの大和』について、作者辺見じゅんさんは、民俗学の取材のために、たまたま岡山県の山奥に住む年老いた女性を訪ねた1978年ごろ、たまたま戦艦大和の乗組員だった息子からの最後の手紙を見たのが、『男たちの大和』を書くきっかけになったと言っています。その手紙とは、「お母さん、どうか私のことはけっしてけっしておわすれください、さようなら」です。
 
 6万トンを超える巨艦、群がる敵機、3000人以上の人間の生命の最後。
 「大和」という舞台は、ダイナミックで、凄惨で、そして「一瞬」でした。

 一方、「
出口のない海」はというと・・。
 死と直面しつつ訓練をくり返し、心の葛藤をくり返しながら、必死の特攻兵器回天に座乗して、一人で敵艦に体当たりする。『出口のない海』は、静的で、内面的で孤独な世界です。

 原作は、遺書を残されたWさんという学徒出身士官をモデルにしていますが、そこへ、野球を絡め、幼なじみとの恋愛を絡めたストーリーになっています。

 映画「
出口のない海」の家族の評価はこうなりました。 

お薦め人 お薦め度
(3点満点)
コ  メ  ン  ト
ずばり、映画を見た後で、原作小説『出口のない海』(講談社文庫)を読みましょう。
妻N −−− 3男Dの監督(?)に居残るため欠席。
次男Y(20歳) 大和に比べるとしょぼかった。潜水艦の緊迫感がない。回天搭乗の意味も曖昧。
3男D(16歳) −−− 前期期末試験勉強のため欠席 (-.-)
 

 ※映画「出口のない海」の公式サイトはこちらです。

 ちょっと厳しい評価となりました。
 先に読んだ、原作小説が感動的過ぎたのかもしれません。
 期せずして厳しい評価をしてしまった次男Yと、何が物足りなかったかを「協議」しました。

  1. 次男Y「冒頭の潜水艦シーンに、緊迫感がない。『Uボート』や『K19』など、外国映画にはものすごい緊迫感があったのに、これはしょぼかった。最初のシーンで失望させると、回復に難しい。

  2. 私「回天の知識がある日本史教師には分かったが、回天って何というレベルの一般の方には、当時の緊迫感、回天という兵器そのものの非人間性など重苦しさが伝わりにくかった。

  3. 私「当然ながら、主人公たちの「死に臨む苦悩」も今ひとつだった。」

  4. 次男Y「最後の遺書はよかった。あれは原作の通り?」私「その通り。言い言葉だったね。ああいう訴えるものがもっと多いと、奥行きの深い映画になった。」

 人の作品をああだこうだいうのは、簡単です。

 いやよくぞ、この重いテーマに挑戦された。それだけで十分です。
 おかげで、また歴史を勉強し、回天搭乗経験者(生き残った方)の著書もたくさん読むことができました。そういう機会を作ってくれたこの映画に感謝です。


 例によって、映画の評価以外に、未来航路にしかできない、兵器「回天」についての解説を追加します。これをご覧になって映画を見ると、ストーリーがよく分かります。
 また、参考となる著作物も紹介します。 


1 特攻兵器、人間魚雷回天とはどういうものか

 「特攻」というと、詳しくご存じない方は、飛行機に爆弾を抱いてそのまま敵艦に突入するというイメージをもたれるでしょう。
 この場合は、通常の戦闘機や爆撃機が必死の特別攻撃に使われるのですが、それ自体は特攻兵器というわけではありません。

 しかし、太平洋戦争の後半期、帝国陸海軍は、それ自体が必死の特攻にしか使わない兵器、いわゆる特攻兵器をいくつか製作しました。
 その代表的なものは次のとおりです。

桜花(おうか)

弾頭に爆薬を積んだ、一人乗りのロケット機。爆撃機もしくは陸上の発射台から射出され、敵艦船に体当たりする。

震洋(しんよう)

モーターボートのような小型艇の前部に爆薬を積んで、敵艦船に体当たりする。

回天(かいてん)

魚雷を人間が乗れるように「改造」し、搭乗員が操縦して敵艦船に体当たりする。


 回天は、海軍の小型潜水艇部隊に所属していた、黒木博司大尉(のち回天訓練中遭難死亡)と仁科関夫中尉(回天で出撃して戦死)が退勢を挽回するための秘密兵器として海軍上層部に開発を進言し、最終的には兵器としての生産および部隊の発足を天皇が裁可(承認)して誕生しました。 


 上の写真は、日本が誇った93式酸素魚雷。(広島県呉市の海事科学歴史博物館の展示物。撮影日 06/01/03)

駆逐艦、巡洋艦などの水上艦艇から敵艦へ向けて発射される魚雷。潜水艦から発射されるものはやや細身で、さらに、飛行機から発射される航空魚雷はもっと小型となる。


 魚雷というのは、どこの国ものでもそうですが、同じ爆発するものでも、爆弾や砲弾とは違って比べものにならないくらい精密な兵器です。何しろ自分で走るものなのです。

 走る動力は電池ではありません。
 電池では、スピードも遅い上に走れる距離(航続距離)がずっと短くなってしまいます。そこで、基本的には、内部で空気と燃料(石油が主成分)を燃やして、高圧の排気ガスをつくりそれでピストンを動かすという仕組みでした。
 日本以外は、燃焼に空気を使っていましたが、日本海軍は一工夫することに成功しました。
 空気の代わりに純粋の酸素を使う燃焼方式を開発したのです。これを名付けて
酸素魚雷といいます。この魚雷は、二つの点で他国の魚雷より圧倒的に優れたものでした。

 第1に、空気には酸素は5分の1しか含まれていませんから他国の魚雷は、燃焼した酸素以外に、空気の残りの成分である窒素が燃焼せずに残ってしまいます。
 どんどんできる窒素を魚雷内にためておくわけにはいきません。窒素は、魚雷本体から海へ排出されわけですが、それは泡となって海上へ出て行きます。この泡は魚雷の航跡となり、敵の艦船からは魚雷の進行が容易に発見できるという欠点につながっていました。

 しかし、酸素魚雷では、燃焼の結果生じた二酸化炭素は出ますが、窒素は出ません。二酸化炭素は水に溶けてしまいますから、同じく魚雷の外に排出されても、海に溶けて、僅かに白っぽい痕跡が残るだけとなります。
 つまり、
酸素魚雷の優れた点その1は、敵艦から発見されにくいことでした。

 第2は、同じ量の空気と酸素を搭載して燃焼に使うとして、空気と純粋酸素とでは酸素の量が5倍も違います。これは、酸素魚雷の方が、魚雷の燃焼ガスの力と燃焼時間の長さにおいて、圧倒的に優位なことを意味します。

 つまり、
酸素魚雷の優れた点その2は、空気魚雷に比べてスピードが速く、その航続距離は圧倒的に長いかったことです。

 もちろん、どこの国もこんな原理は分かっていました。
 しかし、純粋酸素は理科の実験でもお馴染みのようにすぐに爆発する危険な代物でしたから、その利用が技術的にできなかったのです。

 日本はその困難さを精密な技術で克服したのです。


 回天を前から撮影した写真。

 
人間魚雷回天は、後半分に93式魚雷の推進部分をそのまま使いました。直径は609mm。
 前半分には、人間の乗れるように、直径1メートルの太い船体をつなぎ合わせていました。そして、頭の部分には
、TNT火薬、1.55トンと信管を装着していました。

 
93式魚雷は火薬の量が492kgでしたから、その3倍です。
 「人間魚雷回天はどんな敵軍艦でも1発で倒す。」とされていました。


 回天を後から撮影した写真。上の写真とも、東京九段の靖国神社遊就館所蔵。(撮影日 03/11/28) 

 回天の操縦者(搭乗員)は、この直径1mの部分に、座って状態で操縦しました。
 最初の出撃は1944(昭和19)年


2 回天搭乗者の苦悩

 回天による攻撃は、1944(昭和19)年11月に開始され、終戦まで続きました。

 この間に、10代後半から20代前半の2000名あまりの若者が回天の操縦訓練をおこないました。
 この集団は、出身別に大きく3つに分けることができました。

 第1は、
海軍士官学校、海軍機関学校をでた、正規の士官です。このグループは命令によって回天部隊の各指揮官となりました。
 第2は、
志願または学徒出陣等によって学業途中で海軍に入り、予備士官を経て士官となった、学徒士官です。海軍入営後、水雷学校等で学習の途中に、「志願」という形をとって回天部隊に配属になりました。
 第3は、海
軍飛行予科練習生出身でこれまた志願によって回天部隊に配属になった兵です。彼らは、戦争の途中で、大量に必要となった飛行機の操縦者の養成という必要に応えて、10代半ばで飛行予科練習生に志願していました。

 第2、第3のグループは、いずれも訓練の途中で、戦争の退勢を挽回する必死の兵器に搭乗する者を志願するかどうかという選択を迫られました。その兵器の名前も、それが必死の人間魚雷であることも、何も分からない状況の中で、「俺たちが頑張らねば」「未知の困難に挑戦する」という若者らしいごく自然な気運に動かされて、志願することになってしまった若者です。


 うち、訓練中の殉職者15名、終戦直後の自決者2名、戦死89名の犠牲者を数えました。また、回天を搭載して出撃した潜水艦のうち、8隻が撃沈され、艦長以下乗組員が戦死しました。同時に、回天1基に一人ずつ付いていた整備兵合計35名も犠牲となりました。

以下参考にしたのは以下の書物です。
回天刊行会編『回天』(1976年)
横田寛著『あゝ回天特攻隊』(光人社 1992年) 著者は予科練出身の搭乗員
神津直次著『人間魚雷回天』(図書出版社 1989年) 著者は学徒士官
鳥巣健之助著『回天特攻担当参謀の回想』(光人社 1995年) 著者は第6艦隊(潜水艦部隊)参謀
重本俊一著『回天発進ーわが出発はついに訪れず』(光人社 1989年) 著者は潜水艦イ47航海長)
永沢道雄著『発進セシヤ「回天」海底の沈黙』(NHK出版 1999年) 著者はジャーナリスト


 回天の訓練基地の所在地です。
 1944年訓練開始時は、山口県の
大津島(おおつしま)基地だけでしたが、訓練人員・部隊の拡大にともなって、同県(ひかり)、平生(ひらお)にも基地が開設されました。
 さらに、1945年5月には、大分県
大神(おおがみ)にも開設されます。
 映画「
出口のない海」では、光基地が舞台となっています。

 上の地図は、グーグル・アースGoogle Earth home http://earth.google.com/)の写真を使って作成しました。

 形式的に「志願」したとはいえ、回天に搭乗して死を迎えることについては、それぞれに苦悩がありました。

「3月6日
今日はすぐ上の柿の命日だ。女学生だった姉が、急性肺炎で死んだ日だ。もうあれから8年になる。
 いい姉だった。
俺ももうじき、姉さんのところへゆく。そしたら、おふくろと三人でいっしょにおいしいものでもたべたい。
 末っ子のユタ坊は、とにかく、国のためにものすごい手柄をたててそちらにゆくのだから、そのときはうんとほめてもらいたいものと思う。
 果たして、これが遺書になるだろうか。これらの文が自分のほんとうの心の底から出た、赤裸々なものといえるだろうか。
 これ以外にも、隊内のある一部の上官に対する不平や不満、ごく限られた一部のことであるが、最近開いてすごく憤激した、ある高級幹部の裏面など、書きたいと思うことは山ほどあった。国を憂い、特攻基地の今後のことを真に考えたならば、いくらでもある。そんなところに目をつぶって、きれいごとばかり並べたって、いったいなんの価値があるのか。これは真実の告白ではなく、死んでからいい子になろうと思って、だれかに読んでもらうつもりで書いたものじゃあないか。はっきり、これが打算でないといえるか!
 いや、それよりも、いまの俺の真実とはなんだろう。どこにあるんだろう。正直に自分を批判してみよう。回天特攻で死ぬのはいやではない。自分から飛び込んできた道なのだ。
けれども、よく考えてみると、これは、目に見えない大きな軍隊というものの意志にひきずられているのじゃあないのか。むしろ惰性でそれと同調しているのだ。そして、心の底に残されている″生きたい″という本能に無理に目をつぶりつづけてきたのじゃなかったのか。さらにその上に、功名心というものが自分をかりたてているのだ。
 いまさら自分の真実、自分のほんとうの心はどこにあるんだろう、と自問自答したところで、ずいぶん矛盾した話じゃないか。なぜ俺は、いますやすやと寝息をたてている古川兵曹や山口兵曹のように、すなおな気持になれないのだろう。
<破いちまえ、こんなもの。余白のところへ、古川兵曹ではないが、”無”とでも書いておけばいいじゃないか>
 決心してしまうと、じつにさっぱりする。思いきって、二十枚以上になっていた手記を力まかせに引き裂いた。
 破りながらふっと、映画『未完成交響曲』 のラストシーンを思い浮かべた。
 ハンスヤーライ扮するシューベルトが、楽譜を破りながら、その余白に、『わが恋の終わらぎるごとく、この曲もまた永遠に終わらぎるべし』
 と書きなぐる印象的なシーンがあった。
 中学時代に、そのシーンがあまりにもよかったので、何回あの映画を見ただろう。
『我もまた、シューベルトならねど未完成なり。ただし敵艦轟沈の悲願だけは完成させるべし − 書き残すこと、何もなし』
 シユーベルトになぞらえて、こんな文句を思い浮かべて私は満足した。
<これでいい、これでいい。これですっかりいいんだ!>

 他の三人は、スヤスヤどころか、もうグーグー大きないびきをかいて寝入っている。
日記をまるめて紙くず籠に投げ込んで、なんだか急におとなになったような気がした。
<さあ、これで俺も、まじりけのない柿崎隊員のモサのひとりだぞ>
 そんな誇りをかみしめながら、改めて毛布をかぶりなおして眠りについたのである。」

横田寛著『あゝ回天特攻隊』(光人社 1992年) P175−177
横田さんは、海軍飛行予科練習生(予科練(出身です。3度出撃して、3度とも、回天の故障により出撃できず帰還しました。結果的に終戦を迎えています。


「5月6日
 あと一月の命のなかに、今までの胡乱な生涯の結論を見出だそうとでもいうのか。
 辞めきれない秒時計の針がまわって行く。
 私の突撃の時と、動きのとれない時と。
 それでも、そっと恐れてみることもあるのだ。
 上わすべりだったためにのみ、
 私は今まで平気な冷淡な顔をしていた。
 そして今、初めて今、私はほんとうに、
 私の過去を狼狽している。
 あと一月の生命に、何んの装‖飾もない私を、見つけ出そうとしての私のあがき。
 私には、もう自分自身がなくなってしまっているようだ。
 深さ三十五メートル、浮かび上がることもなくて、海底をごしごしと這いまわる魚雷にも乗った。
 傾斜四十度、同乗者の顔を靴の下に見て、三十メートルの海の砂に、動かなくなった魚雷も操った。
 ハッチを開けると、内圧の高さにパッと白い煙が筒内いっぱいにひろがって、顔中がポカッとなぐられるような魚雷もあった。そして当隊の凄腕の一人として、自他ともに許される男にもなった。
 よくもかくまで、生きながらえたものと、よそびとは泣くかも知れぬような私の毎日。」

 回天刊行会編『回天』(1976年)P262 和田稔少尉の日記の引用より
和田少尉は、東京帝国大学出身の学徒動員によって兵役についた学徒士官です。同僚の中で先陣を切って、1945年5月28日、イ363号潜水艦で出撃をしましたが発進の機会に恵まれず帰還しています。
 7月25日、再出撃に備えて訓練中、消息を絶ち死亡と認定されました。
 終戦後の9月18日、枕崎台風(九州をななめに横切り瀬戸内海から中国地方西部を襲った)が起こした海のうねりによって、海中に突き刺さっていたと思われる和田少尉の回天が再浮上し、遺体と日記が収容されました。

 この一連の事情は、神津直次前掲著『人間魚雷回天』P222−225に説明されています。

 映画「出口のない海」は、和田少尉の事件をストーリーの核にしています。


3 回天による攻撃の成果

 人間魚雷回天は、通常の駆逐艦、巡洋艦に搭載している93式魚雷の3倍の火薬を弾頭に積み、人間が運転する魚雷です。当然、通常の魚雷攻撃よりも大きな戦果が期待されました。
 しかし、結果的には、そううまくは行きませんでした。

 
その理由の第1は、回天の操縦性・能力です。
 回天は、搭載されている潜水艦から発進して一度洋上に浮上し、潜望鏡(回天の場合は、特眼鏡といいました。)で敵を捜し、もう一度潜水して、敵艦に体当たりしました。この方法は技術的に相当難しいものです。

 まず、海の中で、上下左右、思いのままに潜水艇を操ると言うことが、そもそも難しいことです。自動車とはわけが違います。前述の和田少尉の日記にはその難しさが表現されています。

 また、現在の水準から考えればこのような兵器には、命中率を高めるための小型レーダーやソナーなど敵艦を捕捉する装置が積載されてしかるべきです。
 しかし、もともとそのような技術に後れていた日本は、安上がりに戦果を上げることもあって、回天には何も取り付けませんでした。敵をとらえる手段は、人間の五感のみだったのです。
 敵艦が泊地に停泊している場合はそれほどではありませんが、航行中の場合は大変です。潜望鏡で敵艦を眺める短い時間に、敵の速度や自艇との距離を目測し、予想体当たりポイントへ向けて回天を操縦するわけです。
 
 
その理由の第2は、アメリカ軍の対応です。
 回天の最初の攻撃は、1944年11月20日、中部太平洋のウルシー環礁(アメリカ艦隊の泊地、グァム島の南西約500km。現在のミクロネシア連邦。)に対して行われました。この時は、2隻の潜水艦から5隻の回天が発進し、アメリカ側の資料によって確認されているところでは、艦隊油槽船ミシシネワ(1万1300トン)が攻撃を受けました。同船は、満載していた重油やガソリンが炎上し、20分で沈没しました。

 この泊地に対する最初の攻撃はうまくいきましたが、それ以後しばらく続いた泊地攻撃では、次第に大きな戦果が上がりにくくなります。
 理由は簡単です。ウルシーでの被害を深刻に受け止めたアメリカ軍は、すぐにすべての泊地に対する警戒を厳重にしました。おりしも、大西洋ではドイツの敗勢が明らかとなっており、ドイツ海軍の潜水艦(Uボート)退治を任務としていた艦船に余裕が生じていました。アメリカはこれを太平洋戦線に投入して、経験に裏打ちされた優れた技術によって、日本の潜水艦に対する攻撃を積極化しました。
 そういう状況にもかかわらず、日本軍は、2匹目のドジョウを狙って、泊地攻撃をくり返しました。

 
その理由の第3は、日本軍の作戦の失敗です。
 戦況が悪化すると、日本海軍の各部隊は、しだいに冷静な戦果の確認ができなくなってきていました。たとえば、飛行機の場合、未熟な搭乗員が敵艦の周りに上がった水柱のみを見て「敵艦轟沈」と報告し、それを「これだけの戦力を投入したのだからこれぐらいの戦果はあってしかるべき」と思っている軍の上層部の願いが後押しして、沈めてもいない敵艦を沈んだものと思い込むという結果となってしまいました。

 状況や戦果を冷静に認識できなければ次の作戦そのものが失敗につながり、若い命を無駄に散らしてしまうことになります。回天による攻撃についても、そういう面が強く出ました。
  
 
1944年12月に出撃した金剛隊と呼ばれる6隻の潜水艦に搭載された24基の回天の場合は次のようでした。

「 金剛隊のうち一番はやく大津島を出たのは伊56潜で、東部ニューギニア沖のアドミラル島のセアドラ泊地へ向かったが、飛行機と水上艦艇による敵の警戒はきわめて厳重で、艦長は発射点への進入はとうてい無理と判断した。湾外で出てくる敵艦を雷撃しようと待機したが、その機会もなく20日に帰投命令を受けた。この艦に乗っていた柿崎実中尉(海兵72期)ら4人が生還した。

 金剛隊は24人が出撃して久家少尉とこの4人の計5人が生きて戻ってきた。
 一番遅れて出撃したのは伊48潜で、]日の4日前の8日に大津島を出て、20日に伊36につづいてウルシー泊地を攻撃する予定だったが、その後全く消息を絶った。戦後に判明したところでは、飛行機と護衛駆逐艦の連係プレーに捕捉され30数時間にわたる執拗な爆雷を受け、23日朝、撃沈されたという。吉本健太郎中尉(海兵72期)、豊住和寿中尉(海機53期)、塚本太郎少尉(慶大学・予備学4期)、井芹勝美一曹(一般兵科) の4人は、随行の整備員4人、艦長当山全信中佐以下122人の潜水艦乗組員とともに、ウルシー西方の海に沈んだ。

 12日の伊36の攻撃から幾日も経っておらず、厳重な警戒下にあるウルシー泊地に再度の攻撃をかけさせたのは理解し難い。レーダー、ソナーの完備したアメリカの対潜掃蕩部隊の実力を軽視していたとしか思えない。
 伊48潜を除く5隻の潜水艦は、21日から2月3日にかけて呉に帰ってきた。ふたたび関係者が集まり7日に金剛隊作戦研究会が開かれ、戦果を次のように判定した。

 伊47潜(ホーランディア泊地) 大型輸送船4隻撃沈
 伊53潜(コッソル水道) 大型輸送船2隻撃沈
 伊58潜(グァム島アプラ港) 特設空母1、大型輸送船3隻撃沈
 伊36潜(ウルシー泊地) 有力艦4隻撃沈
 伊48潜(ウルシー泊地) 油槽船1、巡洋艦1、大型輸送船2隻撃沈

 計18隻の戦果で、菊水隊のように大型空母、戦艦の撃沈はないが、彼我の損害からいっても特記すべき成果だった。しかし『戦史叢書 潜水艦史』は、「戦後の調査によれば、該当する記録はない」と注記している。同書は次のように記している。
 「なお、筆者(坂本金美元少佐)が(防衛庁)戦史室において、当時、米軍補給部隊の先任参謀としてウルシーにおった退役海軍中将に面接した際、同提督は、第2次玄作戦において、1隻の回天が給兵船の船底を通過し反対側で爆発したが、給兵船には被害はなかったと語っていた。回天の碇泊艦攻撃も困難なことを痛感した」
 また鳥巣建之助元大佐は、1月12日にウルシーに在泊中の弾薬運搬艦が豆潜水艦により侵水、傾斜、人員損傷の被害を受けたという記事を、元アメリカ海軍少将の書いた戦記で発見した。

 「これでもわかるように、回天の戦果で未発表、未確認のものがいくつかあることは想像できるが、大戦果をあげたという米軍側の裏づけは残念ながらない。回天作戦全体を通じ、輸送船などの撃沈破が相当あったのではないかと推測される」(鳥巣建之助『人間魚雷回天』)
 いずれにしても金剛隊の18隻撃沈が架空の戦果であるのは間違いない。海中で大爆発音を聴いたり、撃沈されて未帰還の潜水艦の挙げた”戦果”までが認定されている。回天の碇泊艦攻撃命中確度は75パーセントと想定されていたから、出撃の24基で18隻と計算したいところだが、未発進と自爆の6基を除くと、消息不明の伊48潜が4基とも発進させたと仮定しても、18基で18隻撃沈は命中率100パーセントになる。戦死した隊員の死を無駄だとは思いたくない気持ちも働いただろうが、ずさんな数字だと批判されても仕方ない。

 奇襲は奇襲だからこそ効果をあげる。織田信長がもう一度桶狭間に攻め込んだら破滅されてしまう。11月のウルシーでのミシシネワ喪失にこりたアメリカ軍が、各泊地に完全な防備態勢を敷くのは当然予想しなければならない。勝っている方が状況に即応して対策を講じているのに、負けている方は一つ思いついたアイデアに固執して大失敗をした。これは大戦果ではなく、大失敗だったのである。

 警戒厳重な基地攻撃は無理だという認識は組織の下へいくほど、つまり大津島や光の基地隊ほど切実だった。第6艦隊も回天を運んで行く潜水艦も一緒に失ってしまうのでは元も子もないから、洋上の航行艦襲撃への作戦方針の切り換えを中央に要望しており、金剛隊の攻撃が決行されるより前の1月3日から、大津島の第一特別基地隊での射法研究会、机上襲撃訓練を皮切りに航行艦襲撃を訓練に取り入れるようになった。」

永沢道雄著『発進セシヤ「回天」海底の沈黙』(NHK出版 1999年) P172−174


 最後に念のために、1944年11月、回天が初攻撃を行った時点の日本海軍の状況を付け加えて説明します。
 というのは、普通に考えると、「
海軍というのは、潜水艦以外に、戦艦とか航空母艦とか、他の艦隊がいっぱいあって、潜水艦部隊の作戦など、脇役のひとつに過ぎない」と勘違いしてしまうからです。

 確かに、1944年10月までなら、他の海上艦船部隊が主役でした。
 しかし、10月のレイテ沖海戦によって、最早日本の海軍の水上部隊は存在しなくなり(大和は例外です)、これ以後は、海軍の作戦といえば、回天や震洋(モーターボート)による特別攻撃しかなかったのです。

この辺の日本海軍の末期的状況は、「目から鱗の話」『戦艦大和について考える』(片道燃料について)に詳しく書いてあります。こちらです。


 正確には、震洋は敵が上陸した際の防御兵器です。
 ということは、
終戦までの半年あまりは、回天による攻撃のみが「敵戦艦や空母を撃滅するという海軍の海軍らしい残された唯一の戦い」だったのです。
 
 しかし、それも、夢にしか過ぎませんでした。


 回天を搭載した潜水艦は、1944年11月時点で残っていた大型巡洋艦10隻ほどに限られました。
 上の模型の
伊68号は、ロンドン条約の制限下で1934年に竣工した、ちょっと古いタイプ。この艦は、1942年に改称されて伊168号となり、ミッドウエイ海戦の時には、アメリカ空母ヨークタウンを撃沈する武勲を立てました。回天作戦の開始前の1943年7月に撃沈されましたから、回天戦には加わっていません。
 回天を戦地に運んだのは、
乙型・丙型と分類されていた、戦争直前から戦争中にかけて建造された潜水艦です。(上の伊68号は1400トン。乙型・丙型は、2100トンクラスで、全長は伊68号105mより4m程大きくなります。)

 それに比べて、下の、甲板上に
回天5基を搭載した伊370号は、えらく短くずんぐりした潜水艦です。
 この潜水艦は丁型と呼ばれ、もともとソロモン海域などへ物資を運送する目的で建造された潜水艦です。全部で12隻建造されましたが、生き残ったものも1944年後半には輸送の出番はなくなってしまっていました。ところが、広い甲板が回天を積載するのに適しているというわけで、回天搭載用に改良されました。

 回天を搭載して、
361号363号366号367号368号370号が出陣しました。丁型はそもそも攻撃・戦闘用の潜水艦ではないわけですから、ハンディキャップはあったはずです。
 赤字の3隻が戦没、青字の3隻は、それぞれ2度の任務に就き、無事帰還しました。沈没率(3/6)、帰還率は、6/9(.667)です。
 回天の全攻撃潜水艦は16隻、、述べ出撃数は32回、うち全喪失数は8隻(沈没率8/16)です。全体の帰還率は、24/32(.750)です。丁型のみならず、任務に就いた潜水艦すべてにとって、過酷な戦いでした。


 国や組織が冷静さを失うと、その暴走によって、多くの人の心と命が踏みにじられます。

 人間魚雷回天により、あたら若い命を散らさねばならなかった方々のご冥福を祈ります。


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