2005-10
| 日記のメニューへ | | 一つ前に戻る  | 次へ進む |
085 2005年04月03日(日) それぞれの春                

  春は、卒業、入学、転勤などなど、別れと出会いの季節、それぞれの人生の節目となることが起こる季節です。
 我が家では、次男Yと三男Dがそれぞれ高校と中学を卒業し、大学と高校へ進学しました。まあ、こんなことはどこの家庭でも普通にあることですが、それ故、どこの家庭にもある小さなドラマが私の家にもありました。(ということですから、以下は単なる親馬鹿文章です、お許しあれ。)

 次男Yのことから話を進めましょう。
 彼は、3年前、とある県立普通科高校を2度受験して、2度とも不合格となりました。
 岐阜県では、学校特色化選抜と一般選抜と、高校を2度受験することができますが、その両方とも落ちたのです。
 最近少し違ってきましたが、岐阜県では、高校は公立高校に行くことが当たり前であり、他県のように私立の名門校は存在していませんでした。特に、15年ほど前までは、中学校では、全県の受験生のほぼ全員が受ける模擬試験を資料とした非常にタイトな受験指導が行われており、公立高校不合格者を出さないことが中学校の指導の腕の見せ所でした。

 しかし、ここ10年ほどは、中学校が模擬試験を受験指導に使わなくなったことによって指導が緩やかになったことや、入試制度そのものが変わったことや、さらに、それに応じて、それまであまり受験指導を売りにしていなかった私立高校も受験指導に力を入れ実績を上げてきたなどの大きな変化が生じ、受験の様相も変化しました。

 結果的に、例えば岐阜市内の、塾ランキング上位の普通高校では、定員の1割2割という大量の不合格者が生じ、その生徒達が私立高校に回るということが毎年起こるようになりました。

 次男Yは、韓国映画を見て感動し、韓国へ行く修学旅行がある県立K普通科高校を受験し、見事?失敗しました。
 中学校の先生の指導では、十分に合格する力があるはずであり、私もそう思っていましたが、受験も勝負事の一つ、下駄を履いてみなければわからない代物でした。
 ※この辺の事情は、2002年の「日記」に書きました。23 25 26

 次男Yは、私立U高校に進学しました。
 進学実績を上げる方針を明確にした私立高校ですから、公立高校のような完全学校5日制ではありません。反対に、土曜日は月に1度の休みを除いて、むしろ週6日制というべきです。
 教育課程も、詳しくは書けませんが、いろいろうまく作ってあって、まさしく受験に邁進できる体制の中で、3年間勉強しました。
 県立K高校にいけば、サッカー部に入ってというプランでしたが、肉体的に疲れる部活動はほどほどにして、彼は、勉強に励みました。
 幸いなことに、1年生の担任は、昔の私の教え子のお母さん、2・3年時の担任は私の教え子、教科担任にも、教え子のお母さんや私の同級生がいて、先生方から温かく見守ってもらえるという
環境があったのもラッキーでした。

 英語が得意なことから外国語学部を志望し、3年になる時に、国立文系コースか私立文系コースか悩んだ時、敢えて、国立文系コースを選び、5教科7科目型のセンター試験を目指しました。

 結果的に、これは、いい判断となりました。
 英語は得意であるものの、ものすごく得意という状況にはならず、愛知県の私立N大学外国語学部は不合格となりましたが、反対に、センター試験では数学も含めてどの教科でも満遍なく点数をとれた結果、愛知県立の大学に合格することができました。

「父さん、リベンジできたかな。」
「ん、リベンジって、何が?」
「僕って、県立K高校落ちたわけでしょう。そこの生徒は僕の受かった大学にそう簡単には受からないよね。」
「そういう意味か。ああ、受からないよ。リベンジできた。」

 16歳から18歳までの3年間。彼がそれだけを考えていたわけではないでしょう。しかし、何も心にひかからなかったわけではなかったでしょう。
 入試というものは、いろいろ過酷な運命をもたらします。


 これは愛知万博(愛地球博)の交通手段として脚光をあびているリニモです。
 何故ここでリニモかというと、実は、次男Yの通う大学が愛知万博長久手会場のすぐそばにあるのです。
 自宅からバス・JR・地下鉄・リニモと乗り継いで、1時間45分かけて通学することにした彼にとって、万博開催期間中の混雑は、非常に気がかりです。


 三男Dは、公立中学を卒業して、県立高校を受験しました。

 彼は、実は2年生の時は、1年生から入っていた部活動もやめてしまい、体調も心の状態も優れず、欠席や遅刻も多くなって、さらに結果として当然成績も芳しくなく、本人も苦しみ、私や妻も気が気ではありませんでした。
 
 彼を支えてくれたのは、新任でこの中学に来て、1年・2年と受け持ってもらった若い英語の担任です。
 また、数学や英語が苦手な彼が、反対に得意科目と胸を張ることができた、国語の指導をしていただいた先生方です。
 おかげで、3年生の時には、図書委員会の委員長にも立候補できるようになり、立ち直りました。
 父や兄とは違う自分の道を見つけることが、彼の「自立」の苦しみの過程でした。
 
 旧担任が、卒業式にメッセージを送ってくれました。
「これからの人生の中でも素晴らしい人との出逢いや体験を数多くされることと思います。どんな時でも誰といても自分らしさを大切に生きて欲しいと願っています。どんな自分になるにせよ、何をやっていくにせよ、今の自分がすべての始まりであり、あなたらしさが必要なのです。」
 
 友達や先生方に支えられて、勉強での自信も取り戻し、三男Dは、次男Yの場合とは逆に、合格する見込みが非常に低かった県立N高校普通科に合格しました。不合格者が70人以上もいる試験でしたから、本当に奇跡的でした。

 それぞれの春。
 まだ、これから、これから。本当の試練はこれからだぞ、頑張るのだぞ。 


| 日記のメニューへ | | 一つ前に戻る  | 次へ進む |