2002-2     

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034 2002年 8月11日(日)見たぞ〜、ついにじっくり見たぞ〜、富士山           メニューへ

 人によってそれぞれ、「どうして〜」ということがあるかと思います。私の場合は、それが、「富士山をじっくり見たことがない」でした。
 これまで、東京へ向かう新幹線の中から、富士山を見る機会が何十度あったでしょう。それから、箱根・御殿場・富士サファリパークなどなど、富士山の周りで過ごしたことが何度あったでしょう。
 
 ところが、私は、多くは天候の悪さにより(一部、新幹線の中で眠っているのも理由)、富士山の全貌をじっくりと見たことは、一度もありませんでした。
 一度、10年ほど前の3月の晴れた日に、先輩の先生と乗った新幹線の中から、くっきりとその姿を見る機会があったのです。しかし、その先輩にとっては、富士山は珍しいものではなく、感動する私の気も知らないで、別の話題の会話がはずんでしまい、結局は、じっくりと見ることはできませんでした。
 あとは、アメリカから帰るデルタ航空の機内から、真上からの富士山を見たくらいです。

 8月11日と12日、初めて山梨県に行って来ました。
 1998年に、つくば市の教育研修所で経験した、文部省の中央研修の同窓会です。
 お盆の帰省の時期に当たったので少し不安でしたが、往復609`、自動車で単独行してきました。往路はとりわけ好調で、12時半に出発して、3時45分には甲府市の東の石和(いさわ)温泉に着いていました。

 桃とぶどうを溢れるほど買ったのは言うまでもありません。

 そして、富士山です。

 夏であるにもかかわらず、くっきりと見えました。
 往路、小渕沢インターチェンジを過ぎてから、えらい高い、とがった山が前方はるか遠くに見え始めました。
 実は私、それが富士山であることは、しばらく気が付きませんでした。
 弁解のため、理由その1。頂きに雪がなく、何となくとがった山に見えて、イメージの中の富士山とは違っていた。その2、これまでずっと私の前に姿を現さなかったあいつが、そう簡単にお出ましするとは思わなかった。
 
 次の日は、甲府の友人に無理を言って、案内してもらいました。
 河口湖のほとりへ行き湖畔から、そして、太宰治と井伏鱒二の『富嶽百景』で有名な、天下茶屋(てんがちゃや)から、十分その勇姿を満喫しました。

河口湖畔からの富士山。よそ者には、頂きに雪がないと寂しい。手前の湖の青が強調されすぎて、写真としては失敗作。

『富嶽百景』の中にある、「富士には月見草が似合う」の名文句を刻んだ太宰治の碑

  

035 2002年 8月31日(土)映画「ウインド・トーカーズ」           メニューへ

 映画の話をするのは久しぶりです。
 昨年の夏に、「パール・ハーバー」「千と千尋の神隠し」のことを書いて以来です。この間、映画を見なかったわけではありません。あらたまって、この日記に登場させなかっただけです。
 ごく最近も、「日だまりのグランド」・「海辺の家」・「タイムマシン」と、いくつかの映画を見ました。
 この中では、「海辺の家」が、いかにもアメリカらしい家族愛を描いて、非常にいい映画でした。ビデオが出たら、こっそり借りて、一人でじっくり見て涙を流すにはいい作品です。

 さて、夏には付き物の、大宣伝と「巨額の製作費」の鳴り物で公開されているのが、
ウインド・トーカーズです。
 監督は、ジョン・ウー。主演は、
ニコラス・ケイジ、アダム・ビーチ。これは、私が絶対見るジャンルにしている、得意の「戦争映画」です。
 ニコラス・ケイジといえば、「天使がくれた時間」が印象的です。これまたアメリカ映画らしい、「人生考えさえもの」映画の中で見せた、誠実なうまい演技が印象に残っています。
 
 今度の作品では、彼は第二次大戦中のアメリカ海兵隊の
軍曹ジョン・エンダースを演じます。
 1943(昭和18)年のソロモン諸島戦線で、「なんの変哲もない沼地の死守」という上層部の命令に従ったばかりに、部下を全員を死なせ、自らも左耳と三半規管に機能障害を負う負傷をした彼は、その負い目から、耳も聞こえるふりをして再び戦場行きを志願します。
 新しい任務は、
インディアンのナバホ族の通信兵ベン・ヤージー(アダム・ビーチ)を警護するという任務でした。
 
 これからの話はどこまで事実でどこから創作か、確認できていません。
 当時アメリカ軍は、日本軍に知られずに前線で迅速に部隊間の通信を行う方法の確立に苦心していました。そこで新しく試みられた方法が、ナバホ族の青年たちを通信兵とし、前線で、暗号化せずに無線でそのままナバホ語を使って重要事項を伝達するというものです。

 英語なら日本軍の中にも分かる人間がいますから暗号化しない無線は論外ですが、ナバホ族のことばなら、たとえ日本軍に傍受されも、日本人にそのことばが分かる兵士はいませんから、安全かつ迅速な方法というわけです。
 ところが、この場合、ナバホ族の通信兵が日本軍の捕虜となってしまうと、この方法がばれてしまいます。
 そこで、ナバホ族通信兵には、専属の護衛がつけられました。この護衛、実は、通信兵が捕虜となる危険がある場合、秘密を守るためにやらなければならない任務は・・・・、という聞いただけでその理不尽さに悩みそうな設定です。
 映画のタイトルは、ナバホ族通信兵の交信のコードネームが、「ウインド・トーカーズ」、つまり、「風に語りかける人」だったところから付いています。

 1944(昭和19)年6月、二人が所属する海兵隊部隊は、
マリアナ諸島の要衝サイパン島に上陸します。部隊は何度も危機に陥りますが、そのつど、ヤージー通信兵の正確な通信で、後方からの砲撃・飛行機の爆撃が実施され、日本軍を蹴散らすことに成功します。
 アメリカ映画にはよくあるパターンですが、アメリカ兵の射撃は正確で、日本兵はばたばたとやられます。2時間20分近くの間に何人の日本兵がやられたでしょうか。

 ところが、日本軍とて、このサイパン島は、簡単に明け渡すわけには生きません。
 理由の一つは、この島は、太平洋戦争開始後に占領した島ではなく、第一次世界大戦中にドイツから分捕って以来、30年間も植民地支配ししてきた島なのです。島内には、日本人もたくさん住んでいました。
 理由の二つ目は、占領されたら日本本土がここから飛来するB29爆撃機の爆撃エリアに入ってしまうという、軍事戦略上も重要な島だったのです。
 そこで、アメリカ海兵隊と日本軍の死闘が続き、アメリカ軍の死傷者も増えていきます。

 当時のアメリカ社会においては、インディアンという人々の地位は、今とは違って公然と差別を受ける存在でした。しかし、微妙な関係にある、エンダース軍曹とヤージー通信兵の間には、やがて友情も生まれていきます。
 さて、・・・。

 こういう映画では、どちらかが戦死します。そうしないと、ストーリーがエンディングを迎えません。

 映画の最初と最後は、ナバホ族の本拠地、あの西部劇で有名な、アリゾナ州のモニュメント・バレーの雄大な自然の情景が静かに映し出されます。ウインド・トーカーズということばの意味が自然と理解できるような、美しい荘厳な光景です。

 我が家の映画評論家次男Yの飾らない一言。「いまいち」
 戦争映画というものは、難しいものです。
 
 ついでに、マリアナ諸島について、付録の話です。(こちらが本編だったりして)
 岐阜県教育委員会が、中学生・高校生10名ずつをオーストラリア・ケアンズと
マリアナ諸島ロタ島に派遣する、海外研修が無事終了し、8月30日に、研修報告会がありました。
 20人がそれぞれ英語で報告し、会の進行の質疑応答も英語というシビアな報告会です。
 20人はさすがに倍率何倍もの難関を突破して研修への参加を許されただけのことはあって、なかなかのものでした。

 その中で面白かったのはマリアナ諸島ロタ島の参加者・先生の話です。
 上の映画の所でも書いたように、マリアナ諸島は、太平洋戦争途中でアメリカに占領されるまで、日本が30年にわたって支配してきたところです。その結果、次のことが事実であることが明らかになりました。

  • 観光客目当ての若い人ばかりではなく、若い頃日本の教育を受けた老人たちの中には、結構日本語を話すことができる人が多くいること。

  • 現地人(チャモロ族)の名前の中に、日本語の単語が入っている例が結構あること。ロタ島の知事さんの名前は、○○○○・オカ・○○○○でした。また、ガイドさんの一人は、なんと、○○○○・キンタロウでした。

 面白い話ではありませんか。   


036 2002年 9月23日(月)エゾシカ・イルカ・クジラ・キタギツネ      メニューへ 

 とりあえず、無事北方領土から帰ってきました。ついでにまわった道東の探検も無事終了しました。
 8月18日(水)の朝8時名古屋空港を出発し、23日(月)の午後9時5分に名古屋空港に到着するまで、飛行機は4回合計5時間、自動車は400`、船は170海里17時間、そして、色丹島のでこぼこ道。
 よくぞ無事帰ってきました。我ながら。

 そのうちに出会ったものは、日本各地から集まった仲間たちと、色丹島の多数のロシア人、道東の親切なおじさんおばちゃん、そして、エゾシカ・イルカ・クジラ?・キタギツネ・・・・。

 撮影したデジカメの写真、349枚。メモしたノートA5版、17ページ。
 
 今日は数字だけ挙げて、眠ります。明日から、時間を見つけて少しずつ旅行記に書き加えていきますから、よろしくお願いします。  


037 2002年10月 5日(土)映画「ジャスティス」正義と責任        メニューへ 

 またまた、戦争映画です。今度のは、推薦版です。1200円(土曜のレイトショーの料金です)の価値ありです。
 作品名は、グレゴリー・ホブリット監督、ブルース・ウィリスと新鋭コリン・ファレル主演の『ジャスティス』です。

 アメリカには、明らかに日本映画にないジャンルがあります。それは、裁判映画です。この作品は、戦争映画と裁判映画を合体させた作品です。しかもそこに、捕虜収容所からの脱走、黒人差別をからませ、盛りだくさんの内容と緻密なストーリー展開によって、実に面白い作品となりました。

 時は1944年末、場所はヨーロッパ。
 コリン・ファレル演じるハート中尉は、もとはイェール大学法学生。ヨーロッパ戦線へおもむいたものの、父が上院議員であることから後方の安全な司令部勤務をしています。祖父も父も上院議員という上流家庭の出身という設定です。

 ヨーロッパ西部戦線では、ノルマンディー上陸作戦から半年後の1944年12月の段階で、連合国軍は、フランス・ベルギー・オランダを奪還し、ドイツ軍をドイツ本国へ追い返します。
 ところが、反撃を狙ったドイツ軍は、新鋭戦車部隊を中心とする精鋭部隊をドイツ・ベルギー国境のアルデンヌの森に集結させ、連合国軍を一気に大西洋岸まで押し返し、その分断を狙います。
 これは、いわゆる映画『バルジ大作戦』(1965年アメリカ映画)として知られる、ドイツ軍の起死回生の作戦でした。

 ファーレル中尉は、勤務するベルギー町の師団司令部から同僚を前線に送る途中に、この反攻作戦のドイツ軍とぶつかり、あえなく捕虜となってしまいます。
 ドイツ軍司令部に連行された彼は、ドイツ軍将校の尋問(拷問)を受け、3日目で、連合軍の燃料集積所の場所を教えてしまいます。このあたりも、『バルジ大作戦』を御存知の方は、ストーリーがだぶって面白い部分です。ドイツ軍がこの作戦に成功するかどうかは、不足する燃料をいかに連合国軍から奪うかにあったからです。

 ファーレル中尉は、真冬のドイツ領内を、南ドイツのアウグスブルグ郊外の捕虜収容所まで列車で運ばれます。
 この収容所の連合国軍捕虜の最上官の地位にいたのが、ブルース・ウィリス演じるマクナマラ大佐です。大佐は、新入りのファーレル中尉に、捕虜になったとき及びその後の取り調べの状況を問いただします。
 
 中尉は「何もしゃべらなかった」とうそを付くのですが、大佐は、瞬時にうそを見抜きます。理由は、大佐自身も同じドイツ軍将校の尋問を受け1ヶ月も耐えたという経験があり、その将校が、僅か3日で中尉を開放すると言うことは、中尉が白状したと言うことにほかならないからです。

 大佐は、中尉を嫌って、収容所の将校兵舎には入れず、下士官兵舎を割り当てます。大佐と中尉の緊張の始まりです。

 ほどなく、収容所へ新入りが入ってきます。
 空軍第332戦闘機隊の黒人士官パイロット、アーチャー中尉とスコット中尉の二人です。
 この時代は、陸軍や海軍でも黒人の士官は非常に少なく、黒人はまだ公然と差別される対象でした。黒人差別解消のための公民権運動は、戦後、ケネディ大統領の時代に盛り上がるわけですから、この時代の空気は推して知るべしです。

 この空軍の部隊は、映画『ブラインド・ヒル』(1995年アメリカ映画)でも取り上げられた話で、無能な黒人に飛行機の操縦などできるわけがないと言う反対を押し切って、アメリカ空軍で初めて作られた黒人のみの戦闘機部隊です。こんな話をここへ絡めてくる当たり、この作品の心憎い構成です。

 収容所内でも、差別は続きました。
 アーチャー中尉は、黒人を嫌う、ベドフォード軍曹にはめられて、ドイツ軍に射殺されます。

 そして、今度は、ベッドフォード軍曹の死体が発見され、側に立っていたスコット中尉に殺人の嫌疑がかけられます。
 マクナマラ大佐は、収容所のドイツ軍司令官ビッサー大佐に、正式な裁判の開廷を要求。アメリカに留学しファーレルと同じイェール大学に学んだビッサー大佐は、その要請を認め、裁判が開廷されます。

 その裁判で、スコット中尉の弁護人となったのが、ファレル中尉です。
 
 一方、ドイツ軍の捕虜収容所と言えば、映画『大脱走』以来、連合国軍兵士の脱走なくっちゃ面白くありません。もちろん、この映画にも、組織的脱走が、計画されています。

 さて、裁判の行方は、真犯人は、脱走の結末は、・・・・・・。

 映画『真実の行へ』で裁判もの映画の面白さを存分に見せてくれた、グレゴリー・ホブリット監督ならではの、緊張したスリリングなストーリーが展開されます。
 『プライベート・ライアン』や『ウインド・トーカーズ』のように、やたら戦闘場面ばかりの戦争映画とは異なるものです。

 映画が問う、真実とは、責任とは・・・。
 最後に、マクナマラ大佐は責任を取る究極の選択を行うため、帰ってくるのです・・・・・。ブルース・ウィリスが映画『アルマゲドン』に続いて、カッコイイ役をやります。

 今回は、ほとんど映画解説になってしまいまいた。(^.^)
 



038 2002年11月 4日(月)映画「The Ring」さだことサマラ        メニューへ 

 日本の映画文化が海外へ輸出されていくことは、品物以上になんか素朴に嬉しい気がするのは、私だけでしょうか?

 鳴り物入りで公開です。
ハリウッド版「The Ring」
 「なんだこりゃ」で「貞子を悩ます方法」を書いて結構うけてしまった(^.^)私としては、未来航路のサポーターのみなさんのご要望(???)に答えて、是非ともレポートしなければなりません。(なんだこりゃ「貞子を悩ます」をご覧になっていない方はこちらへ
 早速映画を見てきました。

 映画のストーリーは、ほとんど、日本版リングのリメイクです。これについては安易といえば安易です。したがって、ここでストーリーをお話しすることは、何ら差し支えないと思います。
 つまり、日本版の主役の女性(松嶋菜々子)・別れた元夫(真田広之、貞子にやられる)・その子どもの男の子・貞子・その母、ここまでの構成は、全く一緒です。
 条件設定というか舞台装置というか、呪いのビデオ・地方の宿泊施設・井戸も、すべて同じです。
 監督は、ゴア・ヴァービンスキ、Dream Wroksの作品です。
<配役>

  • レイチェル・ケラー(ナオミ・ワッツ)主役の女性、シアトル・ポスト紙の記者

  • エイダン・ケラー(デイヴィッド・ドーフマン)レイチェルの息子、日本版よりストーリーに重大にからむ

  • ノア(マーティン・ヘンダースン)レイチェルの元夫、エイダンの父親、最後に呪われて死ぬ

  • サマラ・モーガン(?)さだこと同じ、超能力?を持った女の子?

  • アンナ・モーガン(?)サマラの母親、66回の流産の末、サマラを出産

  • リチャード・モーガン(ブライアン・コックス)サマラの父親

 ではこの映画の感想と見所は・・・。
 感想は、ひと言でいえば、アメリカ版の方が、日本版よりはるかに恐い作品となっています。どこからそう感じるのか、自分なりに感じた所を列挙します。
<見所>

  1. 恐く見せる映像効果という点において、これまでの数々の実績を持つアメリカ映画の方が、日本映画より上手です。たとえば、夕陽が沈む美しい光景から、一転してグレー一色の風景へ移るとか、美しい紅葉の木々の映像から一転して、恐怖の映像へとか、人間の目に映る一つ一つがうまく計算されて怖さが引き出されています。

  2. サマラの住む島(日本では伊豆大島)、モエスコ島の自然情景が、日本のそれよりはるかに不気味です。自然の持つ雄大さや奥深さは、日本での撮影にでは限界があります。

  3. 井戸のある場所も、アメリカ版の方が、少し手が込んでいて、また、理論的で納得できます。この点については、日本版の神社の床下は、今ひとつでした。

  4. レイチェルの子ども、エイダンがサマラと「交信」できるようになっていて、これがまた不気味です。日本版より格段と重要な役割となっています。

  5. 馬が大事な役で登場します。動物がからむと不気味さが増します。

 また、同じようなストーリー立ての中で、いくつか異なる点がありますが、それがまた日米の文化の違い、生活感覚の違いを示していて、興味深いです。
<相違点>

  1. 日本と違って、サマラにはちゃんとした両親がいて、その家族の問題が比較的具体的に表現され、それが、サマラの怨念の原因となっています。さだこの、「わけのわからないひたすら不気味な超能力者」という設定ではありません。家族の中に原因を持とうとするのは、いかにもアメリカ的です。全体に家族間の愛情が当たり前ですが、隠れたテーマになっています。また、サマラを井戸に落としたのは、父親でありません。

  2. サマラのビデオに登場する恐いものの象徴といった映像が、日本と随分違います。アメリカ版では、はしご段、むかで、馬、灯台・・・・。

  3. 何故、サマラがビデオに登場する様になったのか、ルーツの調査・精神病院・カルテ・診察時のビデオなどいろいろからませて、謎解きに重厚な厚みを持たせています。法律ものや裁判ものの手法をうまく使っていて、謎解きストーリーとしても面白いものがあります。

 というふうに、褒める所ばかりではありません。今ひとつの点もありました。
<今ひとつ>

  1. ストーリーにいろいろと細工を仕込んで重厚にしたため、理詰めになってしまい、おどろおどろしい怖さという点では、反対に薄れました。謎解き気分になると、怖さが薄れてしまうものです。

  2. サマラが全体に、「元気です」。井戸からの登場シーンも、元気です。ここでもおどろおどろしさとは別の感覚があります。

 というわけで、結論です。
 アメリカ版のサマラを封じ込めるキーワードは、この作品の範囲に限っては、「愛情」が有効と想像できます。
 但し、終わり方(エンディングは日本版とは違います)は、どの映画でも言えますが、シリーズ化へ向けて、今後の無限の可能性を暗示してエンディングを迎えていますので、サマラはもっとすごい存在なのかもしれません。

 昨晩、3男Dは、いつも一人で寝ている階下の部屋から、わざわざ布団を持って2階まで上がり、兄のいる部屋に移動して、一緒に寝ました。こわい、こわい。


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