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016 スティーブ、19年ぶりの再来日 2011年10月31日記述 

 なんと、アイオワ州の我が友スティーブが、19年ぶりに再び日本にやってきました。
 
 この計画が持ち上がったのは、昨年のことです。
 前ページで紹介したように、次女のヒラリーは、2009年8月から、福井県の高校でALTとして働いていました。この7月末で彼女の任期が切れて帰国する前に、父を呼んで再び日本を見せようというわけです。 


 写真14−01・02 美濃和紙の紙漉に挑戦                 (撮影日 10/01/09)  

 ヒラリーは福井で働いていた2年間に、2度岐阜にやってきました。
 1度目は来日直後の2009年9月、2回目は、2010年1月です。上の写真は2回目の時のもので、家から30kmほど離れた美濃和紙の里会館で和紙作りに挑戦しました。
 


 2年間の日本滞在で、ヒラリーの日本語会話能力は当然ながらずいぶん上達しました。

「ヒラリー、この2年間の日本滞在はどうだったか。」

「いろいろいい勉強になった。特に工業高校で英語を教えるのはなかなか大変だった。それでも、アメリカの大変な学校の生徒よりずっとまじめに授業に参加してくれる。心が打ち解ければ、あとはうまくいった。」 

 

「日本にいる間に、ずいぶんいろいろなところへ出かけたね。

 

「九州も四国も北海道も行った。4つの島に全部行った。外国も、台湾・ベトナム・韓国・フィリピンとたくさん行った。楽しい2年間だった。」 

 こんなことを言ってはなんですが、日本に来るALTは、月給は30万ほどもらえ、これはアメリカの同年代の若者に比べると破格の高給です。しかも、学校の長期休業中に有給休暇を取ることが可能なため、旅行にも行けます。
 ヒラリーもその特権を生かして、日本での2年間を満喫したようです。

 彼女はもともと大学時代にスペイン語を専攻しており、大学卒業後、日本へ来るまでの間に、「ピースコーズ(Prace Corps)」の一員として、ロシアの隣のウクライナ共和国へ行って、2年間ロシア語を教えてきました。
 この経歴の彼女がこれからどうするのでしょう?

「ヒラリー、アメリカに戻ってから、どうするの?」

「まだ仕事は決まっていない。外交関係の仕事に就きたいので、先日も、アメリカの大阪領事館に連絡して、就職のための面接もしてもらった。またこの秋に、本国で面接を受けることになると思う。」 

 

「若者の就職は日本ではなかなか難しい状況にあるが、アメリカでも同じか?」

 

「アメリカでもそう簡単ではない。自分の専門を生かして、給料の高い仕事を見つけるとなると、競争率が高い。」 

 我が次男もまだ非正規労働者ですが、ヒラリーも戻ったら就職という試練を乗り越えなければならないようです。 


 写真14−03・04 私たちが福井に遊びに行きました。名所、東尋坊と永平寺です。(撮影日 11/06/05)  

 スティーブは、2011年7月15日(金)に関西国際空港に到着しました。
 もちろんはじめは奥さんのメアリーも一緒に来るように勧めたのですが、メアリーは閉所恐怖症だそうで、「とても13時間もの飛行機は耐えられない」ということで、スティーブの単身での再来日になりました。

 ヒラリーと広島・福井・金沢等を巡り、旅行日程の最後に我が家にやってきました。7月22日(金)、23日(土)と滞在し、24日(日)の午後には、関西国際空港へ向かいました。2泊3日の岐阜滞在です。
 再開は岐阜駅です。福井から特急しらさぎ号に乗って、一人で岐阜駅に降り立ちました。ヒラリーは、最終日のこの日に学校へ立ち寄らなければならないため、夕方別の列車で来ることにしていました。
 改札口で、きょろきょろしながら階段を下りてきたスティーブをつかまえました。彼の方は19年前とあまり代わっていませんが、私の方は相当風貌が変わりました。(-_-;)

「やあ、ひさしぶり、元気だったか。このところかなり暑かったが、よく眠れたか?疲れてはいないか?」

「本当に久しぶりだ。大丈夫だ、日本へ来る前のアイオワも暑かった。2度目の日本へ来て、見るものがいっぱいで、興奮している。疲れてなんていない。」 

 

「それはよかった。
 来ると決まってから、3月に東日本大震災があり、その災害や特に原子力発電所の事故と放射能のこともあり、本当に来られるかどうか心配していた。日本への外国人観光客は激減しているし、日本にいたALTの中にも帰国した人もいる。」

「大丈夫だ。そんなことでは、約束は破らない。」

 

「ありがとう。
 メールで送った計画の通り、今日は、これから名古屋へ行く。明日は、郡上へ行って、夜は鵜飼を見学する。その前の会食では、我が家にホームステイしたあの時に一緒に食事した私の友人のK氏夫妻も一緒に来る。
 日曜日は、交流でアイオワに行った私の仲間たちと再会する。」
 

 

「いろいろな計画をありがとう。期待している。」 

  「広島はどうだったか?」 
  「なかなかうまく言葉では言い表せない。とても印象的だった。」 


 写真14−05・06 左名古屋のJRタワービル 右JRリニア鉄道博物館  (撮影日 11/07/22)  

 19年前に最初に新幹線に乗った時もいたく感動していたスティーブでしたが、この博物館でも夢中でした。アメリカでは鉄道はあまり日常的な乗物ではないですが、彼は興味津々です。


 食事をしながら、話はいろいろなことに広がりました。
 スティーブは私より年齢はかなり上ですが、まだ現役の高校教師です。アイオワ州は日本とは定年制度が異なり、高齢でも、能力があれば働けます。 

「今63歳だったかな。いつまで教師として働くの?」

「65歳までは、普通にフルタイムで働く。それからは、フルタイムではないが、たぶん、70歳までは働く。」 

 

「日本ではまだ定年は60歳だから、私はあと3年半で定年を迎える。それからはどうなるかわからない。結果的にきみの方が長く働くことになる。」

 

「60歳で定年なんて、信じられない。まだ働けるのに。」 


「ところで、19年ぶりに日本へ来て、いろいろ変化があって面白いが、最も印象的なのはなんだかわかるか?」

「みんなが携帯を持っていることか?いやそれはアメリカでも同じか。わからない。」 

 

「1992年に来た時は、日本の女性の髪はみんな黒色だった。今は違う。みんな茶色になっている。どうしたんだ。」

 

「どうしてしまったんだろう。私も嘆かわしいと思っている。」 

 スティーブの奥さんは、ネイティブ・インディアンの直系ですから、髪の色は黒です。(→前ページ参照)写真を見ると今もそのままの黒髪で、染めてなんていません。ヒラリーの姉のメアリー・グレイスも、母の遺伝子を受け継いだのか、髪の色はこれまた黒です。そして、染めてなんかいません。
 「きみたちのアイデンティティとは何か」とスティーブに聞かれているような気がしましたが、この説明をするには、私の英語力は不十分すぎます。笑っているしかありませんでした。
 そう、確かに19年前は、髪を染めている日本人はほとんどいませんでした。
 


 写真14−07 郡上では、食品サンプルの製作体験工房へ行きました (撮影日 11/07/24) 

 写真14−08・09  郡上にて (撮影日 11/07/24)  

 左:天ぷら作りに挑戦するスティーブです。  右:二人ともどんな日本食でもOKです。箸使いも上手です。


 話題はサッカー女子ワールドカップの決勝戦、日本vsアメリカに飛びました。 

「サッカー・女子ワールドカップの決勝戦を見たか。」

「もちろん見たとも。きみも見たのか?1992年に私がサッカーが好きだといった時は、アメリカ人は野球とフットボールだと言っていたじゃないか。サッカーに興味はあるのか。」 

 

「私自身はそれほどでもないが、少女にはとても人気がある。女子ワールドカップの試合はTVの視聴率は高かった。」

 

「一つ気がついたことがある。他のボールゲームはどの種目でも、男女にかかわらず、アフリカ系アメリカ人の比率が多くなっている。しかし、女子サッカーのアメリカチームは、ほとんどが白人女性だった。どうしてだろう。」 

 

「いいところに気がついた。それにはちゃんと理由がある。
 女子サッカー、とりわけ人気が高い少女サッカーは、学校スポーツではなく、クラブスポーツで運営されている。フットボールやバスケットボール・野球なんかとは違う。クラブスポーツだと、クラブへの入会の費用、練習場所への送り迎えなど、どうしても親の所得の高さがスポーツをする機会のあるなしにつながってしまう。それが、アフリカ系の選手が少ない理由だ。」

  「なるほど、よくわかる理由だ。」 


 長良川の鵜飼い見物では、スティーブ、ヒラリーともとても興味を示してくれました。
 鵜飼いは、岐阜市の観光の目玉ですが、現実にはリピーターは少なく、観光客数は伸び悩んでいます。外国人である彼らが興味を示してくれた理由は二つあります。
 ひとつは、夜の鵜飼いが派始まる前に、夕方から長良川河畔の鵜匠の家に出かけ、準備段階から観察したことです。
 鵜匠の家では、午後4時過ぎからそれぞれの役割分担に応じて作業が始まります。鵜船に薪を運ぶなどの準備をする人、鵜匠の家の鵜を飼うプールで、その日に出場する鵜を選び、船まで運ぶなどです。
 それらはなかなか興味深いものでした。 


 写真14−10・11 鵜匠の杉山秀二さんの家で    (撮影日 11/07/24)     

 左:鵜匠の家にお邪魔して、鵜の飼育場を興味深く観察するスティーブ。
 右:本日本番に「出場」する鵜の選定。鵜飼が成功するかどうかのカギを握ります。
 

 写真14−12・13 長良川河畔で    (撮影日 11/07/24)     

 左:船にはいろいろなものが積み込まれます。篝火用の薪も2種類あります。本番まで間、火だねとして燃やす普通の木材、そして、本番で使う松材です。松材は油がしみていて一度火が付けば雨が降っても消えることはありません。
 右:たいまつ原料の積み込みです。


 写真14−12・13 鵜飼船への積み込み    (撮影日 11/07/24)     

 左:右は篝火の籠を支える支柱の根本に、むく毛の木で緩衝装置を作っているところです。むく毛はベアリングのような効果を発揮し、支柱がくるくるなめらかに回転することを助けます。
 右:いよいよ本番の鵜の出陣です。籠の中に2羽ずつ入っています。


「日本には鵜呑みということばがある。」 

「う・の・み?」

「直訳すれば、鵜が魚を丸ごと飲み込んで胃袋へ納めてしまうということだが、そこから別の意味が生まれて、物事の真偽を確かめず、人の言うことをそのまま信じるということになっている。」 

「鵜という鳥はどれぐらいの魚を飲み込むのか?」

「鵜飼いの最中は暗くて遠くてよく分からないが、何匹というレベルではなく、10数匹、20数匹というレベルだ。」 

「すごいもんだ。」

「もちろん鵜飼いではそのまま飲み込まれては漁にならないので、鵜ののどの部分にひもを結んで、魚はのどのところで止まるようにしてある。鵜匠は鵜が魚を飲み込んだと見たら、ひもを引いて鵜をたぐり寄せて船の上に上げ、ひものところで止まっている魚をはき出させる。これがその漁師が手にする獲物というわけだ。」 


 写真14−14 夕闇が迫って、いよいよ乗船時刻です。    (撮影日 11/07/24) 

 夕食の後いよいよ本番です。
 夕食をともにしたK氏ご夫妻も参加です。K氏は英語の先生なので、私の難解な通訳とは違って、スティーブもヒラリーもとても安心していました。

 ここで、外国人の彼らが興味を持ってくれた理由のその2に偶然めぐりあいました。
 私たちが乗船した船の船頭助手兼解説者は橋由香子さんという女性の方でしたが、この方の説明が見事でした。興味深いお話しを織りまぜながら、とても分かりやすく、ポイントを得ています。
 一応岐阜市民の妻と私は、これまでも何回か接待として鵜飼いを利用したことはありますが、正直、「面白い、自分たちだけでもう一度来よう」と思ったことは一度もありませんでした。しかし、橋さんの解説は、そう感じさせるものがありました。やはり、観光においては、ハード面よりはソフト面、結局はもてなす人の問題です。 


 写真14−15 長良川の鵜飼い、鵜匠の見事な手綱さばき   (撮影日 11/07/24) 

 面白かった解説の一つです。

「スティーブ、船頭助手さんの説明によると、あの首のひもは、微妙な強さで締まっていて、実は、小さな魚は通り抜けて胃袋に到達するが、大きな魚は、とらないようにしてあるそうだ。全部胃袋に言ってしまっては、もちろん漁にはならないし、全部止めてしまっては、鵜が働く意欲をなくしてしまうからだめだそうだ。」 

「なるほど。」

「それから、鵜は大きな魚にしろ小さな魚にしろ、飲み込む時にのどで魚を締めて打撃を与え、はき出した魚は仮死状態だそうだ。」 

「つまり、ただそのまま飲み込んでいるわけではないということか。ということは、前になんと言ったか・・・」

「鵜呑み、丸ごと飲み込む。」 

「それそれ、その表現は、日本に昔からあるにしては、鵜の実態を正確に捉えていない表現ということになる。」

「その通りだ、「鵜呑み」と言う表現は鵜に失礼な言い方だった。鵜は、鵜呑みするんではなく、もっとお利口さんだった。いい勉強になった。」 


 写真14−16 出漁船による総掛かり   (撮影日 11/07/24) 

 写真14−17 漁の成果は   (撮影日 11/07/24) 

 最後に鵜匠さんたちは、船を川岸に着けて、魚をいっぱい飲み込んで丸丸とした鵜から、鮎をはじめとする魚をはき出させます。商品価値の高い鮎がたくさんいれば、豊漁です。食べた魚は鮎とはかぎりません。雑魚は捨ててしまうそうです。 


 鵜船全体の総掛かりを終えた後、おまけに最後の後片付けまで見て、一同満足して長良川を後にしました。 

  鵜飼いを終えて帰宅した後、9時過ぎにスティーブがあらたまって話があると言ってきました。メモと鉛筆を持っています。
 1992年に初めてあった時からの私たちの習慣です。難しい話・重要な話をする時は、私の貧弱な英語力を考慮して、重要な単語をメモしながら話をするという方法をすることになっています。

「私には夢がある。
 デモインの西160km程の所、アイオワの西部に、私の祖先が残した土地があって、それが親戚に分散されて所有されている。この土地を、みんなから買い戻して、そこに農場をつくりたい。」

「祖先って、いつ頃の人が残した土地なの?」 

 

「今から130・40年前。1870年代の祖先が政府から権利を得た。」

 

「それってひょっとして、日本の高校の世界史の授業でも学習する、ホームステッド法で獲得した農地のこと?」 

「ホームステッド法をよく知っているな。」

「高校の教科書に載っている。」 

 

「19世紀はじめにノルウェイから渡ってきた私の祖先ハンソン家が、アイオワの西部に住み着いて開拓した土地だ。南北戦争以後、ホームステッド法によって自作農地として権利を得た。」

 

「すごいね、まるで歴史の勉強の教材のようだ。今はどうなっているの?どれぐらいの広さなの?」 

「面積は32ヘクタール(注正方形に換算すると、570m×570mの土地)ある。今は私も含めて何人もの親戚が所有していて、土地そのものはただの草地になっている。」

「それを買い集めて昔の土地の面積にして、そこで農場をやろうっての?」 

 

「そうだ、それが夢だ。親戚の何人かは売却に同意してくれている。そのうち半分はすでに私と兄の名義になっている。残り半分を5人の親戚から購入するのに、合計20万ドル(約16,000,000万円)程かかる予定だ。」

 

「まるで、『大草原の小さな家』(Little house on the Prairie)の世界だね。」 

「あのドラマを知っているのか?」

「知っている。昔日本のテレビでも放映されていた。」 

 

「あの物語の舞台は、主にアイオワの北隣のミネソタだった。」

 

「大切にしたいアメリカの原点だね。」 

「そうだ、西部開拓、自然との闘い、素朴で敬虔な生活、動物とのふれあい、労働の成果としての神の恵みの収穫、家族愛。私たちが今も大事にしなければならないものがそこにはあった。」

「ハンソン農場の復活を願っている。」 

 

「いつか遊びに来てほしい。」

 

「分かった、妻と一緒に必ず行く。地平線に沈んでいく真っ赤な太陽を農場から眺めたい。」 


 写真14−12 自宅の小馬場で乗馬するメアリー。背景は一面のトウモロコシ畑 (撮影日 11/09月) 

 7月26日午後3時半過ぎ、スティーブはヒラリーともに、大好きな新幹線に乗って関西国際空港へ向かいました。
 初めてあって19年、まだまだ続く、はるか遠くの友との交際です。
 次に会うのはハンソン農場で。その時はいくつになっているでしょうか?


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