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015 ヒラリー、日本へ来る また新しい交流  2009年10月04日記述 

 人生、どんなことで新しい展開がおこるものか、時にはまったく想像できないものです。遠いアメリカのアイオワ州で、1992年に出会った少女とと、それから17年も経て、また日本で会うことになるとは、いやはや夢のようです。

 我が友、スティーブの次女のヒラリーが、2009年7月に日本にやってきました。そして、9月20日(日)に、岐阜で17年ぶりに再会したのです。


 
 左上は1992年9月アイオワでの写真。右端のヒラリーは、1984年生まれの8歳、この時小学校3年生。
 
 右上は、私がヒラリーに再会することが決まったあと、父スティーブが送ってくれた家族の写真。「久しぶりに会ったときに間違えないように」と。
 
 左下は、17年振りに再会した25歳のヒラリー。岐阜駅の改札口で。身長は173cm程の、父に似て背の高いお嬢さんになっていました。


 彼女が日本へ来たのは何故か?
 観光旅行?
 いえ違います。
 ヒラリーは、なんと
JETプログラムALTとして、某県へ赴任したのです。
 
 ちょっと専門的な用語を使ってしまいました。説明します。
 彼女は、アイオワ州立大学でスペイン語を学んだあと、2007年から2008年にかけて、
ピースコーズ(Prace Corps)の一員として、ウクライナで英語教育に携わりました。
 
ピース・コーズというのは、かの有名なケネディ大統領が上院議員時代に始めたアメリカ青年の海外派遣ボランティア事業で、現在でも、発展途上国でたくさんのアメリカ人が活躍しています。
 日本でいうと、青年海外協力隊のようなものです。
 ウクライナで1年半暮らしたヒラリーは、昨年夏の帰国後今度は、日本へ行くことを考え始めました。
JETプログラムを受験して、ALT(Assistant Language teacher 外国語指導助手)として、日本へ渡るという計画です。
 
JETプログラムは、日本の英語教育の充実を図るために英語を母国語としている外国人をALTとして日本へ招聘している事業で、地方公共団体が総務省、外務省、文部科学省及び財団法人自治体国際化協会(CLAIR)
の協力の下に実施しています。JETプログラムが創設されたのは1987年度で、現在では、日本全体で、6000人程のALTが各都道府県で活躍しています。
 1990年代はその数はどんどん増えていましたが、最近では、各自治体の財政難が反映して、その人数は減っています。
 
 しかし、大学を卒業してるという条件だけで、20代前半で給与が月給30万円ももらえること、渡航費も支給されることなどいい条件であるため、競争率は比較的高いものとなっています。このことは、日本の教育現場にとっては、高負担ながら比較的良質のALTを獲得できるということにもつながっています。
 現在国内に居住する外国人をALTとして雇用する場合は、就労(金稼ぎ)目的が第一となりますが、それとは異なり本国にいる青年をわざわざ日本へ渡航させてALTとする場合は、渡航する本人としては、単なる金稼ぎの他に、日本文化への興味、日本やその教育に対する関心といったものが高いことが期待されます。それが、JETプログラムALTのよさです。

 ヒラリーの場合は、典型的にこのパターンに当てはまります。
 父のスティーブは、ヒラリーが小さい頃から複数の日本人を自宅にホームステイさせた経験があり、私と相互に訪問しあってからは、私との交流を続ける中で、特に日本やその文化に関心を持ち続けてきました。ヒラリーは、そういう家庭で育ち、日本への関心をずっと意識し続けてきたわけです。
 2008年の秋に、ヒラリーがJETプログラムに応募すると聞いてからは、私とヒラリーとが直接メールを交換し、まずは、結構倍率が高い中で書類選考、面接試験等をどうやって切り抜けたらいいかをアドバイスしました。
 これには、自分の学校にいた先輩ALTにも一役買ってもらいました。つまり、彼が受験したときの面接の様子を教えてもらい、傾向と対策をアドバイスしてもらったのです。
 彼は次のように、ヒラリーを勇気づけてくれました。
「ありふれた通り一遍の志望動機では、相手には何のインパクトも与えない。採用担当者や面接指導官は、たくさんの応募者の書類をチェックし面接を行わなければならない。あなたのウクライナでの経験や、あなたの家庭の日本との交流はすごくアピールできるポイントとなる。」

 2月にコロラド州のデンバーで面接試験を受けたヒラリーは、4月に合格通知をもらい、5月には日本での勤務地が決まりました。希望する勤務地を書く欄があって、一応本県を記入したようですが、それとは違って、本県の隣接県の一つに赴任することになりました。結果的にはすぐそばにいるより、行き来できるほど近いところにいる方が、過干渉・過保護にならずよかったと思っています。
 JETプログラムALTは、7月の末と8月の初めに2団に分かれて来日します。
 ヒラリーは、第一陣の一人として、7月末に成田空港に到着し、京王プラザホテルで数日間の研修をしたあと、県の仕立てたバスで任地に向かいました。
 県庁所在地の駅前近くのアパートに住み、週5日のうち、4日をJRで10分ほど工業高校に通勤し、もう1日はアパート近くにある普通科進学校に勤務するという勤務シフトを与えられました。
 日本に住むことはもちろん、電車で通勤することも、高校で教えることも、みんな初めてです。私は実はとても心配でした。

 しかし、彼女は父譲りの、「なんでもやってみよう」という積極性と好奇心に満ちた女性でした。
 最初は、湿度が高い日本の夏に、「very humid」と言って閉口し、「今日は、ただ汗をかくために一日過ごした」などと苦労していましたが、すぐに元気になりました。
 
 もう少し落ち着いてからと思っていましたが、私の方から、「いろいろ心配だからあなたの所を訪ねてみたいのだがどうだろう?」と提案すると、「いや大丈夫。それより岐阜に行ってみたい、父親と同じように京都にも行ってみたい」との返事。
 もう少し落ち着いてからとも思いましたが、9月のシルバーウィークにその両方を実現することになり、まず20日に岐阜に来て私の家で一泊、次の日はみんなで京都に行って観光という日程なりました。
「岐阜までの特急の切符をみどりの窓口で購入しなければならないけど、できる?こちらで買って送ろうか?」
とメールすると、
「大丈夫、駅で確かめたけど、日本の駅には英語版の自動販売機がある。ウクライナでは、英語は一切表示されていなかった。しかもキリル文字で最初は訳が分からなかった。それでも何とかやってきた。英語で表示がある日本は、とても暮らしやすい。」

 確かに、その気があれば、何とか解決できそうです。

 かくて、9月20日(日)の10時半過ぎに、彼女は岐阜駅で特急電車を降り、改札口を出て私と再会することができたのです。


 岐阜観光の定番、金華山に登りました。行きはロープウエイ、帰りは徒歩です。
 右は、金華山登山道の一つ、「瞑想の小径」からの写真です。ヒラリーの頭の真上の、遙か向こうの小丘の麓が我が家です。


 外国人を招待すると、まず食事には気を遣います。
「ヒラリー、日本の食べ物で食べられないものは何かあるかい?」
「大丈夫、何でも食べられる。嫌いなものはない。これも父と一緒。まだ、納豆は食べたことはないけど、たぶん大丈夫。」

 ヒラリー、納豆は、実は私が嫌いです。(+_+)


 次の日は、知り合いの女性の先生も含めて、5人で京都に行きました。
 JR東海道線で米原まで行き、米原から新幹線に乗りましたが、ヒラリーは、新幹線に乗るのはこの時が初めてでした。米原駅の本線をとんでもないスピードで通過していくのぞみ号に感動していました。

 京都では、得意のレンタサイクルで市内ツアーを楽しみました。
 


 京都市内は、シルバーウィークのため、どこへ行っても満員でした。駐車場も、バスも満員です。
 その点、レンタサイクルは、天候がよければ最高です。


 東寺に行きました。
 この日は弘法様の縁日の日で、ものすごい数の露天が立ち並んでいました。人でも半端な数ではありません。食べ物はもとより、私には骨董品がとても魅力でしたが、今日は見るだけにしました。またいつか、お金をたくさん持って来てみたいものです。


 左は、清水寺の舞台です。右は、知恩院の山門です。このスケールにはヒラリーもびっくりです。


 この日の最後のメニューは、井筒八つ橋の焼成体験です。寺町通り四条上がるにあるお店の一画に体験コーナーがあります。焼くのはそれほど難しくありません。


 夕暮れの京都駅に、ヒラリーが帰りに乗る予定の特急電車がやってきました。ここで私たちと別れて、一人で帰りました。

 普通なら心配するところですが、本人はまったくそんな不安はありません。
「眠って、降りる駅を乗り過ごさないようにね。」
「大丈夫、大丈夫」


 父スティーブは、メールに次のように書いてきました。
「17年前のクロースアップ財団の交流事業はたくさんのお金を使ったんだろうが、手前味噌ながら、私たちの交流は最も効果を上げたと言えるだろう。」

 ヒラリーに聞いてみました。
「それぞれの学校の様子はどうかな?」
「1日だけ行く普通科高校は特に問題はない。工業高校の方は、なかなか難しい。生徒は授業規律が守れずに、授業中に勝手なことをしている。教師もそれを止めさせない。」
「そういう学校では、生徒は英語そのものは嫌いだが、ALTのやり方によっては、とても楽しい授業ができて、生徒がこちらを向いてくれる。それこそやりがいがあるというものだ。」
「ちょっと時間がかかると思う。」

 
ALTが、英語の授業において、その存在価値を示すのは、そう簡単なことではありません。
 学力の高い高校の生徒は、往々にして「受験勉強にはALTは必要ない」と思っている場合が普通です。また、専門高校の生徒は、基本的に英語の勉強は得意ではありません。
 さらに、ティームティーチングを組む日本人教師がどんな意識を持っているかも、これまた、ALTにとっては気がかりなところです。中には、ALTが英語で話す片端から、日本語に訳してしまうと言う勘違いの先生方もおられます。

 日本の学校には5月病というのがありますが、同じことがALTにもあります。ただし同じ時期ではありません、ALTの任期は8月からですし、実際に授業をするのは9月からです。そうすると、ALTの場合は10月になって、いろいろと悩みが深まり、精神的に不安定となります。
 それを乗り越えなければなりません。
 ただの金稼ぎではなく、本当に存在価値のあるALTになってほしいと思います。

 ヒラリーとは、次に来年の正月に会う約束をしました。
 それまでにはきっと、一回り、二回りも成長していることでしょう。頑張って、ヒラリー。


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