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 PD患者 北米大陸を歩く  2024/12/01記述

 2024年夏7月,妻と私は孫(長男の長子,男)をともなって,アメリカ旅行に出かけました。私は2014年にPD(パーキンソン病)を発病しており,病歴10年目です。PDのハネムーンの時期(PDにおいて発病後しばらくは服薬等で病気をうまくコントロールできている期間)も終わって病気は段々「佳境」に入りつつあります。
 昨年、2023年の12月には,DBS処置手術を受けた。(これについては,「なんだこりゃ」と「日記」に詳しく述べてあります。)→なんだこりゃ44)これによって,転ばないで過ごせるという点では大いに改善されましたが,歩くことはまだ不自由な状況であり,タイトルは「北米大陸を歩く」と大きく出ましたが,実際には旅程の大半は自分は車椅子にのって,妻や孫に押してもらうという旅となりました。 
 さてどんな旅になったでしょうか。

 友人の支援がなければこの旅はありえません
 車椅子こそ命綱です  【PDと英語力】 
 空港,入国審査手続きヒヤヒヤでした
 アイオワ,伝統を考える
 ワシントン,アメリカはいつ反省
 ニューヨーク,地下鉄に乗る
 旅で気づいたこと 結論

1 友人の支援がなければこの旅はありえません地図01行程説明へ

 2023年の夏,妻が思い出したようにあることを言いだし始めました。

「もう一度アメリカへ行って,今度はスティーブ夫妻に会いたい。会いたい。」

「私がパーキンソン病で車椅子が欠かせないし,スティーブは骨肉腫に罹って治療中だし,無理無理。」

大丈夫。今から準備すれば何とかなる。」

 妻の言うもう一度とは,彼女は2000年と2005年にアメリカを観光旅行で訪問していて,今度が3度目の米国と言うことになります。尤もこの2回は,「ラスベガス・グランドキャニオン4泊6日」と「NY3泊5日」という,今なら弾丸ツアーに近いものではありましたが・・・。
 彼女の言う「今度はスティーブ夫妻」とはこれまでもこの「未来航路」のページで何回も紹介してきた
アメリカアイオワ州に住むアメリカ人の友人夫妻のことです。(→アメリカとの草の根交流記
  1992年私とスティーヴがclose up財団のプログラムに参加し相互にホームスティ。
  2009年スティーヴの次女H、福井県の外国語指導助手として来日し,3年間勤務。岐阜の我が家へ何度もステイ。
  2011年スティーヴ,2度目の来日。
 こうして,私とスティーヴは1992年以来32年の友情を温め合ってきました。
 しかし,この間,閉所恐怖症のスティーブの妻Mには,飛行機で日本に行くという選択肢はありえず,会える機会はなかったのです。
「それならこちらから出かけよう。」 妻は双方の夫が病気であることも忘れて,2023年秋頃から果敢に,積極的に,無謀に,計画を立て始めました。以下その骨子です。

  1. この数年間国内旅行を共にした友人のKさんに頼んで,JTBの旅行プランナーを紹介してもらい,いろいろ便宜を図ってもらう。
  2. 英会話能力を向上させるため,渡米まで自家用車の中を中心にひたすら英会話を流す。
  3. 現地で随行員として日本語の分かる人をできるだけ依頼し,意味のある旅行にする。
  4. ホテルはそこそこのランクのものとする。

 ところが,2023年12月2出て来たJTB案を見て驚きました。値段が恐ろしく高いのです。20年前の弾丸ツアーの時は,家族5人出かけて,合計で150万円前後でした。もちろん今回は20年前とは事情が違っており,200万円程ではないだろうかと予想していました。しかし,実際にJTBから来た見積もりは,3人で330万円という恐るべき数字でした。
 これではいくら何でも高すぎます。最大の問題は円安でした。自分たちの計画での為替レートは,1ドル=149円というまだ最悪ではありませんでしたが,それでも20年前の1ドル=105円前後と比べれば月とすっぽんです。
 飛行機の料金,燃料油,アメリカの物価高・・・何れも最悪です。
 私は見栄も捨てて友人夫妻とその娘にメールしました。 

「費用を総額1万4000ドル以下(約200万円)に抑えたい。比較的安くて安全なホテルを紹介して欲しい。」

「任せておきなさい。
 まず,デモインでは空港と我が家の中間にある,カジノや競馬場も備えた,praile medows を予約してやろう。
 ワシントンでは,ヒラリーのマンション近くのビジネスホテルに予約を取ろう。高級ホテルでなくともそれで十分だろう。そして,きみたちがデモインとワシントンにいる間は,常に私と妻と娘の誰かがあなた方を案内する。どうだい。」

「待て,それではあなた方に経済的にも時間的にも過重負担となってしまう。いけない。」

「何を言う。私が2回目に日本に行ったとき,あなたはそうしてくれた。お返しをするだけさ。」

 

「まいった。ありがとう。」 

 

写真01 (撮影日24/07/23) デモイン郊外のホテル プレイリー・メドウズ。こんなにいいホテルの宿泊をS氏はおごってくれた。きみが岐阜に来たときと同じと言うが,人数が違うよ。今回我らは3人だぜ。

 

 写真02 (撮影日24/07/24) ワシントンDCとヴァージニアの境にあるホテルハイヤット・パレス。Sの娘Hの紹介。Hのマンションから至近でHの自動車でワシントン市内へ出かけるのに便利でした。

 アメリカ人にも当然「義理」「人情」はあるのです。
 こうしてなんとかかんとか2024年の春には,下の地図のように我が「PD患者北米大陸を歩く」の8泊10日の計画ができあがりました。費用は何と総額180万円(約12,000ドルでした。皆さんに感謝。
 

 地図01 全行程地図 往路の中部国際-羽田ーDallas・Fortworthと,帰りのNY・J・F・Keneddy→羽田→中部国際は,JALとAAの共同運行で,日本人のフライト・アテンダントが乗務していましたが,DFW→Des・MoinesとDes・Moines→WARRはAAの国内線となり、日本人乗務員はいませんでした。もちろん,鉄道であるAMTRAKは,全く日本人乗務員はいません。


2 車椅子こそ命綱です  地図01行程説明へ||PDの英語力|| 旅行記のメニューへ  |

 それでも支出総額は昨年の私の年金収入総額に近くなり,こうなるとどうしても「単なる遊びに終わらせたくない」という気が働いてしまいます。幸いに我が孫は,「食欲や美意識よりも知識欲」という爺(私)と父(私の子)の遺伝子をしっかりと守ってくれている様子なので,一杯学び、一杯体験するという旅になりました。
 ところで,訪問先は重要ですが,PD患者である私には,目的地までの移動手段の確保が,旅の成功を左右します。
 

写真03-6 (撮影日24/07/21) 左上:私の車椅子(wheel chair)はカタログ上のサイズを把握され,JTBを通してAAやJALに報告されます。 

 

右上:どの空港にも「SPCIAL ASSISTANCE」のカウンターがあり,搭時間の1時間前に行って手続きをします。 

 

左下:手続き終了後,飛行機積み込み用の荷物として梱包された私の車椅子。この時点でこの車椅子には,しばらく乗れません。

 

右下:自分の車椅子を受け渡した後搭乗までの時間は,写真のJAL特製の木製の車椅子で過ごす。搭乗時間の少し前に呼ばれることになります。

 飛行機に乗る時はカンターから呼ばれます。「特別のサポートが必要な方,○○さん」という感じです。そこで地上支援員が飛行機の入り口(搭乗口の扉すぐ外)まで車椅子で運んでくれ,そこからは自力で自分の席まで歩くのです。この時まだ乗客は誰も搭乗していないので,障害物は座席のみです。
 健常な方なら何でもないことですがPDの場合は,竦み足が生じるとまずいことになります。中部国際空港の機内で不覚にもちょっとよろけてしまったところ,フライト・アテンダントの女性が「どうぞ,おつかまりください」と言って自分の右手を曲げて前に差し出してくれました。「人間手摺り」に掴まれという意味です。細身の女性だったので共倒れを恐れて一瞬途惑ったが,掴まってみるとこれが微動だにせずなかなか「頑丈」で,以降は遠慮なく利用させてもらいました。妻には睨まれましたが,他意はありませんよ。


【PDと英会話】
 ちょっと話しが脱線します。自分の英語力について弁解します。
 私は英語教育は通常の中高6年間と大学2年までの普通教育しか受けておらず,いわば英語の会話等の教育で言えば普通のおじさんレベルです。しかし,公費での研修の機会が多く与えられたことに加えて自分の努力もあって英会話等の能力は,40歳代においては,普通のおじさんレベルでは最上級であると自負していました。
 ところが,今回の旅行を経験して気がつきました。ほとんど英語がしゃべれません。他人はもちろん再会した友人Sともダメです。原因を推察するに,そもそもPDが原因で,呼吸が思い通りできない,ひどい吃音で日本語の会話もできていません。会話というのはもちろん相互のやりとりですから,喋る能力は聞く・話すと一体化して,衰えてしまうのです。
 ホテルのフロントマン,タクシー運転手,鉄道のレッドキャップ・・・・何人にも話しかけましたが,英語音のパワー不足でアクセントがうまく表現できず,相手にあきれられてしまいました。結果,何が活躍したかと言えば,携帯スマホの翻訳機能でした。(-_-;)
 妻や孫は最初は爺の英会話に期待を寄せていましたが,そのうちそれよりもまずスマホをいかにうまく操って翻訳機能を使うかの方が重要であることに気付いていきます。
(*_*)
 

写真07-08 (撮影日24/07/21)  左:この旅行の私の基本的な出で立ち。車椅子に乗り所持品は杖・ポシェット(財布,3人分のパスポート),カメラ。旅行のスーツケースは3人分で一つ。妻と孫はどちらかが車椅子をどちらかがスーツケースを押して進んでくれましだ。

 

右:ダラス・フォート・ワース国際空港。成田国際空港の6倍の広さ(全米2位)を誇ります。 AA(アメリカン航空)のハブ空港。5つのターミナルビルと7つの滑走路を結ぶ高速無人電車スカイリンクが,時速50km~60kmで走行して,お客を捌いています。

 3 空港,入国審査でヒヤヒヤした目次へ| 旅行記のメニューへ  |

 日本からアイオワ州へ向かう直行便がなかったため,我々は東京羽田からテキサス州ダラスの空港を経由してアイオワ州デモインへ向かうルートを選択しなければなりませんでした。そうなると入国審査などすべてそのダラスと言うことになります。
 まだ飛行機が降下をはじめる前にもう顔見知りとなったフライト・アテンダントがやって来て言いました。

「長時間のフライト,お疲れ様でした。申し訳ありませんが,一番最後に乗降口の方においでくださるようお願いします。」

「ちゃんと迎えの空港地上勤務者は来ますよね。」

「はい,普通は名前を書いたボードを持って,待っていますのでご安心を。」

 いました,いました。「Mizuno」と名前が書かかれたボードを持って,アメリカン航空の車椅子を保持したアフリカ系女性が。そして直後にこの女性が我家をピンチから救ってくれることになるのです。


 彼女は,「We are busy.Because We do baggage claim, immigrant inspection,and moving to the ○○○○(聞き取れない) flight to Des Moinens in 2 hours.」といって私たちを急がせました。
 特に入国審査では何が起こるか分かりません。
 まず自分の車椅子の回収です。バギッジ・クレイムには私たちのほかには乗客はおらず,これは楽々回収です。
 ところが,私がドジを踏んでしまって,入国審査で躓きました。旅行前に自宅で「ESTA」(米国旅行許可証)を記入しているときにも気付いたのですが,アメリカの滞在先(ホテル・知人宅)の住所が必要だち言うのです。ホテル・知人宅の両方ともメモしてくるのを忘れてしまいました。
「address」
 審査官は妥協してくれません。ホテルの住所はもちろん,これまで手紙に何十回も書いた友人宅の住所など暗唱しているはずなのに,焦ってしまうと細かいところが思い出せません。
「だいたいあなたがしっかりと・・・・」ここで儂を怒るな。ますますあせるだけです。

 ここまでその成り行きを冷静に見ていたアフリカ系女性が,
「Do you remenber your friend phone number?」
 そうです。電話番号なら,これまた記憶はしていませんが,どこかにメモが・・・・・・。何やかやとやっている私たちは審査ゲートの行列の本流からはずされてしまい,「問題者グループ」扱いとなっています。
 ようやく友人一家の番号が見つかりました。しかし,うまく通じるかどうかはわかりません。
「ちょっとそれかして。(というような意味のことをアフリカ系女性は言いました)私が電話するから」
「この2番目の人に通じたわ。・・・審査官,この人が彼の友人の妻。(自分のスマホを渡して)・・・必要なことを聞き出してちょうだい。」
 このアフリカ系女性の機敏な行動で私たちは何とか難を乗り越えることができました。本当に感謝です。

【教訓1】滞在先の住所をメモっておこう。
 
 ところが,この時私たちは同時にもう一つの痛恨のミスをしたことに後で気付いた。このアテンドのアフリカ系女性にチップを渡せなかったのです。もちろんアメリカがチップ社会であることは知っていましたし,このあとレストランで,タクシーで何度となく渡すことになるのですが,この時はこれがアメリカに到着して最初の機会だったと言うこともあって,頭が日本からアメリカへ切り変わっていませんでした。日本では例えば車椅子を押してくれる空港職員にチップなどという発想はありませんから・・・。
【教訓2】最初のチップは空港で。 

 入国審査は切り抜けましたが,もう一つ難題がありました。
 異国の地の広大なダラス・フォート・ワース国際空港の中でデモイン行きゲートC21にどうやって辿り着くかです。ラッキーなことに,件のアフリカ系女性との契約はJTBを通して,「AAの国際便出口からAAのデモイン便のゲート(カウンター)までとなっていて,彼女も
「さあ行くよ,迷子にならないようにちゃんとついといで」という感じで,エレベーターを二つ,無人電車スカイリンクを2回乗り越えて3本乗り継ぎ,あっという間にC21に到着です。車椅子を押した彼女,人混みをかき分けた孫,スーツケースを押した妻。ご苦労様。

【教訓3】現地は現地案内人に任せよう。

 この時点で彼女の任務は無事終了です。私たち3人は初めて何の保護も誰の庇護もなく、この広い空港に佇むことになりました。見ると出発時間まではまだ少しあり,カウンターにAAの職員はいません。
 しばらくするとカウンターにようやく職員が現れました。このタイミングを計って,
「My name is Mizuno.I am handy-capped and I am necessary to use a wheel chair,・・・」
「OK,OK・・・・・・」
 どうやら分かってくれているようです。

 これで万事安心と思いきや,ここでまた危ういことが起こりました。
 妻と孫がトイレと買い物に出かけてしまってしばらくのち案内放送が入った。
「・・・・・Des Moines・・・・」
 読者諸氏は案内放送ぐらいは聞き取れなくてどうすると思われることでしょう。ところが,PD患者の特性のせいか全くそのリズムについてゆけず聞きとれないのです。
 同じように周囲で待っている乗客の動きからは搭乗ゲートが変更になったようです。しかも乗客の動きからすると複数のゲートの変更のようです。ようやく戻ってきた妻と孫をせき立てて荷物をまとめてカウンターに確認に行こうとすると,隣の椅子に座っていて一部始終を見ていたアメリカ人白人男性が,
「Are you ・・・ for Des Moines・・・New Gate is C25,Follow me」

写真09 (撮影日24/07/22) 

 写真10 (撮影日24/07/22)

 あとになって冷静に考えれば,ゲートの変更はこの表示板に示されており,アナウンスだけを聞くより分かりやすいものだったんです。

 全て終わって,シートに座って食べるアイスクリームの味は格別です。 

 この旅行の最中に見ず知らずの米国人に助けてもらった回数はこれを初めとして五指にあまります。なかなかやるじゃないか,アメリカ1。


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