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PD患者の私が北米大陸を巡ります。果たして・・・ 2024/12/31記述 | |
2024年7月,車椅子に乗った私が,妻と孫(小学校6年生)を伴って出かけた北米旅行記です。さてどんな旅になりましたでしょうか。 |
1 | 友人の支援がなければこの旅はありえません |
2 | 車椅子こそ命綱です 【PDと英語力】 |
3 | 空港,入国審査手続きヒヤヒヤでした |
4 | アイオワ,伝統について考える 孫,乗馬に挑戦 妻,料理に挑戦 |
5 | ワシントン,アメリカはいつ反省したのか |
6 | ニューヨーク,地下鉄に乗る |
7 | 障害者(PD患者が)旅で気づいたこと 結論 |
4 アイオワ,伝統について考える |
北米旅行の最初の訪問地はアイオワです。 |
写真02-01・02 (撮影日 24/07/23) アイオワの大地 |
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左:左手の木々が友人H宅の屋敷森。1992年に来たときはもっと背が低い可愛い森でした。 |
写真02-00 (撮影日 2005年頃) H家の全景 親戚の人がセスナ機で撮影しました。 |
【孫,乗馬に挑戦】 |
写真02-03・04 (撮影日 24/07/23) H家の納屋 |
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左:マウスに固形食料を与える孫。 |
写真02-05・06 (撮影日 24/07/23) キャットに乗る |
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左:鐙に左足をかけて思い切り右足を回転させれば…・ 右:なんとかお尻を鞍の中央まで乗せれば・・・OK |
写真02-07・08 (撮影日 24/07/23) 乗馬に挑戦 |
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左:まだ少し緊張気味。一人で乗っているように見えますが,引っ張ってもらっている右手が写っています。 |
写真02-09・10 (撮影日 24/07/23) 妻も挑戦。怖がると目線が自然に下を向いてしまうのです。 |
【妻は料理に挑戦】 |
と,その前にH家について,ちょっと紹介します。 |
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写真02-11・12 (撮影日 24/07/23) 左:H家の玄関。馬小屋の側からの撮影です。 |
写真02-13・14 (撮影日 24/07/23) 妻が日本から持参した日本食。カレーライスとそうめんサラダ。 |
妻が日本から持参した日本食は,なんと主食カレーライス(ビーフ,ジャガイモ,人参,さとうのご飯=純粋ジャポニカ米),副食そうめんサラダ(そうめん・千切り玉子焼き・ハム・胡瓜)でした。 |
さて,最後に登場する爺としては厳かに,【歴史と伝統について考える】というテーマを掲げました。日本とアイオワ(アメリカ)について昔を振り返る意識を比較してみようと思います。 |
写真02-015・16 (撮影日 24/07/23) デモインのキャピタル・ヒルにあるアイオワ州議会議事堂 |
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アイオワ州は全体として山岳がなく低い丘がうねっている地形です。面積はこの州だけで日本の2/5程もありますが,州内の標高差は,最高-最低=194m しかありません。このキャピタル・ヒルはデモイン市内の高低差をうまく利用して建築されています。 |
上のクイズの答は,「カリフォルニア州」です。カリフォルニアが31番目の州となりました。 |
今回,「アイオワの歴史を勉強したい」というリクエストを出しておいたら,「1992年の一度目の訪米の時にも訪れたかもしれないが」と恐縮しながら,キャピトル・ヒルとアイオワ歴史社会博物館へ連れて行ってくれました。以下はその地で感じた伝統や歴史に関する雑感です。ほんの雑感ですからお許し下さい。 |
友人Sは,「日本という国は2000年近い歴史がある立派な国で・・」というセリフを使って日本の素晴らしさを讃え,「それに対し合衆国はせいぜい300年の歴史しかない。」と謙遜しますが,少なくともキャピタルとそこにそびえ立つ議会議事堂に関しては,誠に堂々たるものです。 |
写真02-17・18 (撮影日 24/07/23) アイオワ州議会議事堂内部 |
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左:驚いたのはどんな堅苦しい博物館でも施設でも必ず写真のような見学に来ている家族連れがいたことです。夏休みと言ってしまえばそりゃそうですが。下の階にはちゃんと売店があって,子ども達は文鎮・ノート・クリアファイルなど文房具雑貨を中心に喜んで購入していました。 |
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右:議事堂の内側の最上部を撮影したものです。 |
写真02-19 (撮影日 24/07/23) アイオワ州議会議事堂。もちろん現役です。 |
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10数年かけて1886年に完成。日本でいうと大日本帝国憲法の発布の3年前。 |
写真02-28・29 (撮影日 24/07/23) デモイン議会議事堂階下の売店 |
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議事堂見学に来た一般社会人や学生・児童・生徒の心をとらえようと,文具類を中心に工夫を凝らしたオリジナル・グッズが並んでいます。 |
アイオワの話と岐阜の話を比較しながら考えます。 |
写真02-20 (撮影日 24/06/04) 完成・開庁されたばかりの岐阜県庁 |
左の一番背が高い建物が,外見はどことなくクラシカルですが2023年に完成したばかりのピカピカの新岐阜県庁(多分5代目)です。 |
写真02-21・22 (撮影日 24/12/15) 岐阜県庁のライトアップ 2・22売店のミナモ |
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左:北朝鮮人権侵害問題啓発週間・世界エイズデーなど特別の日はシンボルカラーやマークをライトアップ |
実は上の4代目県庁の前の3代目県庁もその建物が残っています。 |
写真02-23 (撮影日 24/12/19) 岐阜県庁本館(3代目) |
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3代目岐阜県庁は1924(大正13)年に建設されましたが,岐阜空襲での焼失を免れ戦後もその姿を留めました。市中心部にあったため拡張もままならず手狭となり,1966年岐阜市郊外藪田に建築された4代目に席を譲ろました。その後も岐阜総合庁舎として教育委員会岐阜教育事務所などが置かれていましたが,耐震性の問題から2012年閉庁となりました。 |
写真02-24 (撮影日 24/12/19) 1924年完成の岐阜県庁の本館。岐阜市役所17階展望室から。 |
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一番手前左の白い三階建ての建物が旧岐阜県庁(3代目)です。右上の濃い緑の三角の部分が金華山の山裾です。左上の川が長良川,山裾と川の間が旧岐阜町の中心部です。旧県庁の住所,岐阜市司町は,官庁街ができることを記念して新しく付けられた住所でした。 |
写真の3代目県庁が市街地の中にあり,手狭であったことは事実です。そうでなければ,庁舎としては結果的にその後50年以上にわたって使用が可能な建物から新たに新庁舎を建てて出て行くという発想は起こらないはずです。
これらの諸点により県庁移転を推進した松野幸泰氏等の評価は高いものがあります。しかし,今となって考えると,中心市街地から県庁が出て行くマイナスもかなりのものがあったと言わなければなりません。
特に2についてはそもそも岐阜市が江戸時代には中山道の宿場町・城下町加納と名古屋藩領の岐阜町の2つをルーツとしていたという,他の多くの県庁所在地とは異なる事情も絡んできます。 |
写真02-25 (撮影日 23/03/03) 竣工した5代目岐阜県庁から市街地中心を望む。 |
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竣工したばかりの新県庁20階の展望室から旧市街地の中心を撮影。中央の高層ビルが岐阜市役所。右端の高層ビルはシティ・タワー43。中央の山が金華山,標高338m。その頂には戦後建設されたコンクリート製の岐阜城が聳える。 |
あちらこちらに書いていますからくどいと思いますが,それでもまた言いたくなります。 |
写真02-26(撮影日 10/03/10) 高知城天守・大手門 |
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写真02-27(撮影日 10/03/14) 市役所前電停から松山城天守を臨む。 |
デモインのキャピトル・ヒルのはなしから岐阜県庁へ。話が跳んでしまいました。 |