自由民権・日露戦争2
<解説編>
709 日露戦争日本海海戦の海軍軍艦建艦史上の意義は? 03/01/19記述 12/03/25修正   |問題編へ|

戦艦三笠、日露戦争後に発行された写真葉書より。

横須賀に保存されている三笠と東郷元帥像。


 左上の写真は、帝国海軍戦艦三笠の現役時代の勇姿です。 日本海海戦の時は、当時の最新鋭の戦艦であり、連合艦隊司令長官東郷平八郎が座乗しました。

 三笠は今も横須賀港の岸壁に記念艦として保存されています。それが右の写真です。東郷平八郎元帥の銅像も凛々しく建っています。(詳細は、クイズ710で説明。→) 


 戦艦三笠は、日清戦争後、清から得た賠償金を財源に行われた海軍大拡張計画によって建造が決まり、イギリスのヴィッカース社バロウ工場で起工され、1902年に完成しました。
 ※このころの戦艦はすべて外国製です。詳しくは、クイズ→
生糸と日露戦争の日本海海戦の大勝利の関係

 ※戦艦三笠要目

 基準排水量

15.140t 

 全長/最大幅

131.7m 23.2m 

 速力

18.0kn 

 武装

30p砲×4 15cm砲×10 8cm×12 

記念艦三笠の正面。30p2連装主砲塔。


 下の平面略図では、当時の戦艦の大砲の配置がよく分かります。日本以外他の国の戦艦も、主砲は30cm×4(2連装砲塔が2基)、あとは、15cm砲、12cm砲、10cm砲など、数段階の中小口径砲を搭載していました。
 ※データの引用と作図は、以下を参考にしました。
  泉 江三著『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦上』(グランプリ出版2001年)


 正解の説明に入ります。上の図を見てください。
 砲撃力だけで相手戦艦を撃沈できないと言う考えがあった証拠に、船体には、砲撃力以外に有力な攻撃方法が工夫されていました。
 船体の一番先頭の喫水線下に、「
衝角」(しょうかく、英語でラムram)とよばれる、出っ張りが付いていました。
 何のためかおわかりですね。

 正解、「敵船艦の船腹に衝突して、その衝撃力で相手を沈める」ことこそが、有効な敵艦への攻撃手段と考えられていたのです。

 このいわば、「
体当たり撃沈法ramming」は、ギリシア・ローマの古代世界以来、海戦の常套手段で、20世紀初頭のこの時代の軍艦にもそのための衝角が付いていたのです。
 事実この威力は抜群でした。
 日本海海戦の直前、当時の最新鋭の巡洋艦「吉野」(4,150トン)は、味方の装甲巡洋艦「春日」(7,628トン)に、誤って、ほとんど直角に衝突され、船腹に大穴をあけられて、あえなく沈没してしまったのです。(ロシア艦隊が迫っている大事な時にです。(-_-;))
 砲撃力の確かさと、衝角の危険さの両方を体験した日本海軍は、世界にさきがけて、1905年以降に建造をはじめた軍艦からは、すべて、衝角を撤去しました。


 
 横須賀の記念艦三笠内にある三笠模型です。
 艦首部アップしたものですが、鋭い衝角の様子がよく分かります。


 さて、二つ目の問題の軍艦の建造上の発想の変化というのは、衝角の撤廃のことではありません。
 これについては、日本海海戦以前から、海戦の動向を注目していたある国によってその偉業が成し遂げられました。その国とはイギリスです。
 当時の世界一の海軍国イギリスは、日露戦争における日本とロシア海軍の戦いをはじめから注目していました。1904年8月10日、日露海軍艦隊は、旅順沖で決戦を行いました。いわゆる
黄海海戦です。この戦いはそれほど有名ではありませんが、実は戦艦という艦種が登場して以来初めての、戦艦対戦艦の決戦だったのです。しかも、その時の日本海軍の戦艦は、イギリスの造船所で造られたものです。すなわち、戦いの結果や戦艦の被害等の状況は、イギリス海軍にとって、その後の戦艦建造計画を左右する大事な海戦であったわけです。
 この戦いの結果沈没した戦艦はありませんでしたが、イギリスにとって幸いなことにロシアの戦艦ツザレヴィッチが、大損傷を受けて、山東半島の青島に入港してきたのです。英国の中国駐在武官等はあらゆる手段を使ってその戦艦の情報を集めました。その結果、次代の戦艦建造計画に関していくつかの重要点が確認されました。そのうちの主な点を上げると以下の様になります。

戦隊の主力は戦艦である。

全周方向への主砲射界(どの方角へも多くの主砲が打てること)が重要である。

衝角(ラム)は有害である。

福井静夫「世界に大恐慌を与えたたった1隻の戦艦」阿部安雄・戸高一成編集『福井静夫著作集第6巻世界戦艦物語』(光人社 2009年)P64−65から抜粋

 これによって1905年春、日本海海戦に先立って革命的な発想の戦艦の設計ができあがりました。さらに、日本海海戦での日本軍の勝利を確認したイギリスはこの軍艦の建造を急ぎ、1905年10月、この戦艦をポーツマス軍港で起工したのです。これが、戦艦ドレッドノートです。1906年の暮れに完成しました。
 
 この戦艦のすごいところはいろいろありますが、まずはなんといってもその強大な主砲力です。戦艦三笠では、主砲の30cm砲は4門しかありませんでしたが、ドレッドノートはなんと10門も搭載していました。そのかわり、15cm砲とか10cm砲とかの中型砲は一切搭載していません。
 つまり、砲撃力だけでは不安=衝撃力(敵艦への衝突)も必要という発想がある限り、口径の大きい主砲ばかりを積むという思い切ったことはできなくなります。
 しかし、砲撃力で十分だと判断できれば、ただひたすら多くの主砲を積むようにデザインすればいいわけです。ここが発想の大きな転換でした。
 もう少し詳しくいえば、敵艦に接近すると、戦艦は主砲は打てなくなり、発射速度が速くて、命中率の言い中口径砲が必要となります。
 衝角を廃止し、衝撃力=体当たりという発想を捨て、砲撃力だけで敵艦を倒すという発想に統一できれば、必然的に中口径砲も必要がなくなり、その分、主砲がたくさん搭載できるというわけです。

【2013年1月12日補足】 ドレッドノートを生んだもう一つの考え。「
斉射
 上記のように、
ドレッドノートは基本的には大口径砲の威力を優先したところから発案されました。しかし、細かくいうと、もう一つこの時期に採用された新しい考えがその誕生の要因となりました。
 それは、「
斉射」(各砲の統一射撃)による命中率の向上という考えです。
 日露戦争以前までは、戦艦に4門ほど装備されていた砲は、たとえば左舷の敵艦を射撃する場合、二つの砲塔が個別に射撃をする「独立射撃」方式をとっていました。砲戦距離が長くない時は、それでも十分命中弾が得られました。
 ところが、主砲の口径が大きくなり、砲戦距離が長くなると、なかなか簡単には命中弾は得られなくなります。
 この場合により命中率を高める方法が、
同一口径の主砲は、統一の照準と射撃管制(砲の仰角など)によって射撃する、「斉射」です。一斉射撃のあと着弾を観測し、片方にそれている場合はそれを修正して、次に挟差(きょうさ、着弾が敵を挟むこと)を得られた場合は、さらにその次には命中の確率が高いというわけです。
  この発想に立てば、中小砲の搭載を犠牲にしても、主砲をより多く搭載し、斉射によって早くより多くの命中弾を得るという発想になります。イギリス海軍のジョン・アーバスノット・フィッシャー提督は斉射の有効性を主張し、その理論によって、以下の説明図02にあるドレッドノート級の誕生となったっわけです。
 ※秋元健治著『戦艦大和・武蔵 そのメカニズムと戦闘記録』(2008年 現代書館)P9−12


 実は、日清戦争の際の黄海海戦では、日本艦隊と清国艦隊とも、主力艦の大口径砲よりも、速射できる中口径砲の方が敵により打撃力を与えたという実績もあって、日露戦争以前は、大口径砲中心主義に踏み切れませんでした。
 しかし、イギリスの先駆的なドレッドノートの設計・建造と日本海海戦において発射速度が向上した大口径砲の砲撃力によりロシアバルチック艦隊が壊滅したことが、戦艦の建造プランを砲撃力中心に変えていったのです。
 言わずもがなですが、このドレッドノート型がこれ以後太平洋戦争までの戦艦の基本形となりました。30cm級主砲を積んだものを
ド級戦艦、13.5インチ(34cm)以上のものを超ド級戦艦といいます。漢字では、弩級という字があてられました。

 今でも、「
超弩級」というと、「何かとてつもなく大きくてすごい奴」を意味する言葉になっています。まあ、若い人は多分使わないでしょうが・・・。
 ※その他の参考文献
  工藤美知尋著『日本海軍と太平洋戦争(上)』(南窓社 1982年)
  野村實著『日本海軍の歴史』(吉川弘文館 2002年)
  大江志乃夫著『バルチック艦隊』(中公新書 1999年)


 三笠とともに日本海海戦で活躍した戦艦朝日。もちろん艦首には、衝角がある。昭和初期の写真葉書から。

 日露戦争時に建造が決まり、1909年に完成した戦艦薩摩。初めて日本人の手で日本でつくられた戦艦。但し、主砲の配置は、ド級の配置となっておらず、国際的には完成後すぐに2級戦艦となってしまった。昭和初期の写真葉書から。


710 小学校の社会の教科書に載っていて、高校の多くの歴史教科書には載っていない人物は?   問題編へ

 どの時代の人か分からない状況での質問でのクイズなら難しいですが、この時代の人というヒントがありますから、比較的簡単ではないでしょうか。
 
 正解は、東郷平八郎です。
 またもや登場、日露戦争クイズその4です。
 東郷平八郎は、日露戦争の時の海軍大将で、日本海軍がロシア海軍に対して大勝利をおさめた日本海海戦の時の連合艦隊司令長官です。
 日露戦争勝利の立て役者なわけですから、「偉大」な人物であることは間違いありません。小学校の教科書の記載例を2例あげます。

○東京書籍『新しい社会 上』 P87

「日本海海戦でロシアの艦隊を破った東郷平八郎らの軍人は戦争を勝利に導いた英雄とされました。」

○日本文教出版『小学生の社会 6 上日本のあゆみ』P91

「東郷平八郎の指揮する艦隊もロシア艦隊を破りました。」

 これ以外の教科書も同じような記述ですべて記載されています。

 ところが、内容的にはより詳しい歴史的事象を取り扱うはずの高等学校の日本史教科書には、東郷平八郎の名前は、ほとんどの会社の教科書には記載されていません。
 現行教育課程用(2003年度からの新カリではない)の日本史Bの教科書17冊中、記載されているのは、国書刊行会と実教出版の2社のそれのみです。

 新教育課程用の日本史Bの教科書は、現段階ではまだ2冊のみしか発行されていませんが、日本史教科書で最大のシェアを持つ山川出版の教科書には記載されていません。
 明成社版「最新日本史」
P203には、「東郷平八郎のひきいる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊と対馬沖で戦い、世界海戦史上、空前の勝利をおさめた(日本海海戦)。」とあります。
 今年度登場する新教育課程用の他の教科書会社の「日本史B」にも、ほとんど登場しないと思われます。

 
どうしてこのようないわば「逆転現象」が生じているのでしょうか。

 明解な説明はできませんが、多分次のようなところです。
 「東郷平八郎」は、前の学習指導要領の改訂の時に登場しました。文部科学省の新のねらいがどこにあるのかは分かりませんが、登場当時から、「なんで東郷平八郎?」と話題になりました。教科書会社としては、学習指導要領が掲載する42人の一人ですから、一応記述してあります。

 しかし、予想外の人物なので、一応教科書には載っていますが、教科書会社も、現場の先生方も、東郷平八郎でテーマを組んで長い時間かけて学習しようというつもりはありません。
 
一方、高校の場合は、学習指導要領にそんな指摘はありませんから、ごく常識的に考えて、海戦で活躍した一軍人は、登場させていないのです。

 ついでですから、東郷平八郎と日本海海戦の学習です。(こちらがメインだったりして(^.^))

 東郷平八郎が教科書で取り上げられるべき「英雄」であるとする場合、その理由は、もちろん日本海海戦の大勝利にあると思いますが、細かくいうと、次の2点がその功績です。

  1. 日本海海戦において、いわゆる「丁字(T字)戦法という画期的な戦術を使った。

  2. バルチック艦隊という強力な艦隊をほぼ全滅させ、自軍艦隊の損害はほとんどなしというパーフェクトな勝利を収めた。

 このふたつについて、もう少し詳しく実像を説明します。

1 丁字戦法について
 まずは日本海海戦の意味です。
 1905年5月の日本海海戦が起こるまで、日本軍陸軍は辛勝ながらすでに満州南部の要所を占領し、陸戦においては、ロシアに対する優位を保っていました。

 海軍も、旅順とウラジオストクを母港としていたロシア太平洋艦隊を壊滅状態に追い込み、日本と朝鮮半島との海上補給路を確保していました。

 しかし、ロシアが新たに派遣したバルチック艦隊(もとはバルト海の軍港リバウを母港とするのでこう表現する。実は、正確には第2太平洋艦隊、第3太平洋艦隊として派遣された)が、ウラジオストックを母港に活動すれば、日本の海上補給路は危機に瀕してしまいます。

 そこで、日本海軍としては、なんとしてでも、長路東アジア海域にやってきたバルチック艦隊を、ウラジオストックに着く前に撃破し、彼らに活躍をさせないことが最大の課題でした。
 
 ところが、東郷司令長官には二つの危惧がありました。

日本・連合艦隊

ロシア・バルチック艦隊

戦艦

装甲巡洋艦

戦艦の主砲は、25cmまたは30cm。装甲巡洋艦の主砲は、20cm。

  • 単純な戦力比較では、右表のように、戦艦の数においては、日本の連合艦隊よりロシア艦隊の方がまさっている。

  • 1904年8月の黄海海戦では、ロシア側が決戦を避け、結果的に、逃げられてしまい、ロシア艦隊を撃滅できなかった。今度は何としてでも、逃がさず撃滅しなければならない。

 この結果取られた戦法が、通説では、右上の図に示されたような丁字(T字)戦法でした。日本語では丁(てい)、英語ではT(ティー)です。
 つまり、敵艦隊と反航する(すれちがう)と見せかけて、敵前で150度の大回頭(この場合、左への進路変更)を行い、ロシア艦隊の行く手をふさいで、逃げられないようにするという戦法でした。この回頭(反転)は東郷ターンとも呼ばれます。
 ところが、この敵前回頭は、速度をゆるめて行うため、敵艦隊から狙い撃ちされる危険性がありました。つまり、決死の覚悟のもとに実行された戦法だったというわけです。

 この戦法を実施して、強敵のロシア・バルチック艦隊を壊滅させたことが司令官東郷平八郎の名声を高め、小学校の歴史の教科書に登場することになったのです。

 ところが、1990年代なって、実は日本海海戦では、丁字戦法という特別な戦法は用いられなかったという説が唱えられました。
 ※戸高一成著「日本海海戦に丁字戦法はなかった」『中央公論』(1991年6月号)

 右の図は、日本艦隊が、特別な丁字戦法ではなく、ロシア艦隊とすれ違いを避けるため、反転して並航砲撃戦に挑もうとしたことを物語っています。

 「『東郷ターン』とよばれる、2時5分に発せられた180度回頭指令は、T字戦法への移行を示すものではなく、バルチック艦隊との射程をつめ、
並航コースを取ることを命じたものであった。最初に集中砲火を浴びせたのも先頭から5番目の戦艦『オスラビヤ』で、先頭を行く旗艦『スワロフ』に命中弾を与えたのは、2時12分以降である。その直後「三笠」も被弾。T時戦法態勢では説明できない。並航砲戦の結果である。」
 ※海野福寿著『集英社板日本の歴史Q 日清・日露戦争』(集英社1992年)

 丁字戦法の不自然さの指摘は、すでに1981年になされており、最近では、その他いろいろな面から、虚構に満ちた「日本海海戦伝説」の真実に迫ろうとする書物も増えています。
 ※黛治夫著「日本海海戦における砲術戦」鈴木健二編『NHK歴史への招待17 対馬沖の24時間』(1981年NHK出版)P77
 ※三野正洋著『天気晴朗ナレドモ波高シ 日露戦争の実相を読み解く』(PHP研究所1999年)P161
 ※大江志乃夫著『バルチック艦隊 日本海海戦までの航跡』(中公新書1999年)P216
 
 但し、新しいものでも、旧来の東郷ターンを認めるものもあり、必ずしも丁字戦法が全く否定されているわけではありません。
 ※NHK取材班編『その時歴史が動いた 1』(KTC中央出版)P56
 海軍兵学校卒で戦後防衛庁戦史研究室長、防衛大学教授を歴任した野村實氏は、右上図のような反転並航戦法こそが東郷があらかじめ練りに練っていた「丁字戦法」であり、この戦法こそが、日本海海戦の勝利の最大の要因であったとし、幻説論者を批判しています。
 ※野村實著『日本海海戦の真実』(講談社現代新書1999年)P144、P222


【補足】 05/08/21追記
 横須賀にある記念艦三笠では、東郷平八郎の戦法はどのように表現されているでしょうか?

 2005年2月にリニューアルされた艦艦内展示では、以前のような、「丁字戦法」という表現は使われていません。
 「東郷ターン」を実施したことは示されていますが、あくまで反航戦を避け、並航戦を挑むためのターンだったという説明です。

 

記念艦三笠。

後部主砲と右舷の副砲群。

 艦内のジオラマ。
 奥、東郷ターンを実施して並航コースに入る日本艦隊(灰色の艦船)。手前、バルチック艦隊(赤っぽく見える艦船)。

 奥の日本艦隊と手前のバルチック艦隊が並航戦に入った状態。


 東郷ターンという特別な戦法の実体がいささか不確定であったとしても、艦隊の

バルチック艦隊損害

艦種

総数

沈没

投降

脱出

戦艦

装甲巡洋艦

巡洋艦

海防艦

駆逐艦

水雷艇

その他

合計

38 21 11

日本・連合艦隊は、旗艦三笠以下多大な被害を受けた艦もあったが、沈没は水雷艇3隻のみ。

司令長官として、彼がパーフェクトな勝利をおさめたことは間違いありません。
 右は、日露艦隊の損害の比較です。
 信じられないような一方的な勝利でした。

 では、この勝利は、本当に「強敵ロシア艦隊」に対して、決死の「丁字戦法」の結果生まれたものなのでしょうか。

2 
バルチック艦隊という強力な艦隊
 「ロシアがヨーロッパからバルチック艦隊という強力な艦隊を送ってくる」
 これは、当時の国民一般が抱いていた恐怖感であり、それ以後も、繰り返し記述されて、比較的共通したイメージとなっています。
 「開戦まもなく、連合艦隊を震え上がらせるニュースが飛び込んできた。ロシアがヨーロッパのバルト海にいた強力艦隊を援軍として日本海に送るという。戦艦8隻を擁する30あまりの大艦隊、バルチック艦隊である。」
 ※前掲NHK『その時歴史が動いた』(P31)

 ところが、この思いが、実は虚像でした。
 上の引用文を読むと、バルト海には強力艦隊がいて、それが日本に来るというふうに理解できますが、少なくとも皇帝ニコライ2世が派遣を決めた1904年4月30日には、そんな艦隊は存在しませんでした。

 どういうことか説明します。

 日本艦隊の、戦艦4隻と装甲巡洋艦8隻は、すべて日露開戦の数年前から直前にかけて建造された新型艦でしたが、バルチック艦隊の戦艦のうち3隻と装甲巡洋艦3隻すべては旧型艦であり、砲撃力防御力ともに、日本艦隊の新型艦の敵ではありませんでした。

 では、ロシア艦隊の残りの戦艦5隻はというと、これは、正真正銘新型艦で、日本艦隊と太刀打ちできる「強力艦」でした。
 しかし、大きな致命的な問題がありました。
 実は、新型過ぎた?のです。

 バルチック艦隊は、派遣決定の5月から5カ月たった10月になってようやくバルト海を出発します。
 5隻の新鋭戦艦の内、開戦時に完成して戦力となっていたのは、戦艦オスラービアただ1隻のみ。
 旗艦スワロフ以下の4隻は、出発直前の9月から10月にかけてようやく完成した超新型艦だったのです。当然訓練はほとんどできていません。
 
 これで、少なくとも、5月に「
バルチック艦隊という強力な艦隊の派遣」が決定されたというのは嘘であることがおわかりいただけたでしょう。その時点では、新型艦は1隻しか完成していなかったのですから。

 旧型艦と「超新型艦」の混成のバルチック艦隊は、艦隊としての戦力は、連合艦隊の比ではありませんでした。
 艦隊行動、砲の発射速度、命中率、そして当時日本海軍が極秘に開発した威力抜群の火薬(下瀬火薬)、どれをとっても、日本軍が圧倒的に有利でした。

 黛の前掲論文には、日露の砲撃力は、日:露=17:1と表現されています。
 「綿密に分析した場合、物的戦力において、日本艦隊のバルチック艦隊に対する圧倒的な優位は絶対的であり、万に一つも敗北する可能性はなかった。ただ、問題はどれだけの勝利をおさめられるかだけだった。
 ※大江前掲書、P196

 東郷平八郎が、「強力艦隊に決死の丁字戦法で挑んだ英雄」というのは、ちょっと誇張された伝説に過ぎないというのが、冷静な結論ではないでしょうか。

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