政治制度・機関3
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204 中選挙区制度と小選挙区制度はどちらが民主的?           | 問題編へ |     

  ※このページは、2009年9月6日時点で記述しています。
 2009年8月30日の衆議院議員選挙で、これまで結党以来54年にわたって衆議院第1党の地位を保ってきた自由民主党が敗北し、代わって勝利した民主党を中心とした政権が誕生する予定です。
 ちょうどタイムリーな内容として、選挙制度の変化についての、「目から鱗」の見解を紹介します。

 この項目は、2008(平成20)年6月6日に行われた、岐阜県高等学校教育研究会公民・地歴部会の総会・研究大会における名古屋大学法学部教授後房雄(うしろふさお)氏の講演に基づいて構成されています。
 ※参考文献 
  ○岐阜県高等学校教育研究会公民・地歴部会編『会報 48 2009・3』(2009年)所収 
   後房雄教授講演要旨「「政権交代のある民主主義」への道 ーイタリアと日本の比較ー」
  ○後房雄著『政権交代のある民主主義 小沢一郎とイタリア共産党』(窓社 1994年)

 以下、次の順序で説明します。


 1 日本における小選挙区制のイメージ

 2 中選挙区制や比例代表制では何が起こるか

 3 小選挙区制を真に生かす選挙とは


 1 日本における小選挙区制のイメージ        | このページの先頭へ |

 現在の衆議院議員選挙制度である小選挙区比例代表制は、1994年の細川内閣における政治改革によって実現されました。 それに至る経過は、以下のように説明されています。
「 55年体制の崩壊
 1989(平成元)年、昭和天皇が亡くなり、元号が平成と改められたころから、保守長期政権下での
金権政治の実態が国民の前に明らかにされていった。同年、竹下内閣はりクルート事件の疑惑のなかで退陣し、これを継いだ宇野宗佑内閣も参議院選挙での与党大敗で短命に終った。湾岸戦争への対応に苦しんだ海部俊樹内閣にかわる宮沢喜一内閣のもとでは、1992年に佐川急使事件 翌年にはゼネコン汚職事件が明るみに出て、政官界と大企業の癒着が国民の激しい非難をあびた。こうしたなかで、政界でも選挙制度改革や政界再編成をめざす動きが強まった。
 1993年(平成5)年6月に自由民主党は分裂し、7月の衆議院総選挙で
自由民主党は過半数割れの大敗北を喫し、宮沢内閣は退陣して、共産党をのぞく非自民8党派の連立政権が、日本新党の細川護照を首相として誕生した。*1
 1995年以来、38年ぶりに政権が交代し、
自由民主党の長期単独政権の弊害、バブル経済の崩壊、総評解散と連合結成という革新勢力内部での変動などが背景となって、55年体制は崩壊した。従来の保守と革新の対立は曖昧になり、不安定な連合政治の時代に突入した。
 「政治改革」をとなえる細川内閣は、
1994(平成6)年、衆議院に小選挙区比例代表並立制を導入する選挙制度改革を実現した。同年、これを継いだ羽田孜内閣が短命に終ると、自社両党が提携し、新党さきがけが加わり、社会党の村山富市委員長を首相とする政権が成立した。社会党は、安保・自衛隊や消費税を容認するなど、党の基本路線を大はばに変更した。一方、新生党・公明党・民社党・日本新党などの野党側は、1994(平成6)年に合同して新進党を結成した。 

*1

 社会党・新生党・公明党・日本新党(1992年結成)・民社党・新党さきがけ・社会民主連合の7党派に、参議院の会派である民主改革連合が加わった。 」

石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本の歴史 日本史B』(山川出版 2004年)P383−383

 つまり、1955(昭和30)年の結党以来、ずっと政権を握っていた自由民主党が、「金権政治」や「大企業との癒着」等への批判により改革を迫られて内部分裂を起こして1993年の選挙で大敗(第1党の座は守ったものの、全511議席中の223議席にとどまった)。
 かわって誕生した、非自民8党の連立政権の細川内閣によって、長期単独政権の弊害を克服するため、つまり、「政権交代」を可能とするため、小選挙区比例代表並立制が導入されたということになります。
 
 それ以降、現在に至るまで基本的には同じ小選挙区比例代表並立制が続けられ、今回も同じ制度の下で選挙が行われました。総議席数は、当初は500議席、現在では、小選挙区300議席、11ブロックの比例代表区180議席。
 小選挙区と比例代表区の並立制ですが、議席の配分から言うと、小選挙区制が主体の選挙制度といえます。
 
 日本の選挙制度においては、小選挙区制度は、明治期と大正期に一時期実施されたことがあるだけで、1925年の普通選挙制度導入以来は、戦後直後の大選挙区制でのたった1回の実施以外は、70年弱に渡って、中選挙制度が続けられてきました。
 中選挙区制度は、1選挙区で2人から6人が当選する制度でしたから、1993年の選挙で言えば、以下の表のように、民意に応じて、大政党から小政党までが議席を獲得できる仕組みでした。


 
 ご覧になって分かるように、獲得票数と獲得議席数の比率(議席獲得率)は、一部を除いておおむね比例しています。その点では、
中選挙区制比例代表制的な選挙制度と言えます。
 投票数こそが民意でありそれに応じて議席が配分される、日本では長くこれが常識、つまり、よい制度ということになっていました。

 1994年の政治改革の前に、
小選挙区制を提案した政治家は二人いました。一人は、鳩山一郎首相、もうひとりは田中角栄首相です。
 鳩山首相は、第9条を始めとする憲法改正を企図し、その発議のために、衆議院の3分の2の議席の獲得を目指して、1955年に小選挙区制の導入を意図しましたが、野党はもちろん、合併した誕生したばかりの自由民主党の内部からも、鳩山が率いていた旧民主党の議員に有利な選挙区割り(ゲリマンダーにちなんでハトマンダーといわれた)であるとして反対され、国会提案には至りませんでした。
 また、田中内閣の時は次のようでした。
「 佐藤昭子によると、そもそも田中は73年に入ると、成長政策の拡大ではなく、福祉政策の拡大に主眼を置いた列島改造論の再構築を考えていたという。だが、ブームほ冷めるのも早い。73年5月言付の朝日新聞が発表した世論調査では、発足時六62パーセントだった田中内閣の支持率が、27パーセソトに急落した。不支持率は44パーセントで、支持を大きく上回り、不支持の理由として最も多かったのは、「物価高で生活が不安になった」であった。
 支持率の低下に不安と焦りを覚えたのか、田中は突然衆議院への小選挙区制の導入を言い出し、その実現を図ろうとした。中選挙区制では、政権政党は同一挙区に複数の候補を立てなければならず、政策の戦いではなく金権選挙になってしまうというのが理由である。小選挙区制は、およそ20年後の94年、細川護照内閣の下で実現されたから、その意味では田中に先見の明があったのかもしれないが、当時野党は「絶対多数を取るための自由民主党のエゴ」だと大反対し、自由民主党内でも自分の選挙に対する不安から消極的な議員も少なくなく、田中は結局法案の提出をあきらめざるを得なかった。各新聞は、小選挙区制について、党利党略丸出しだとして、「決断と実行」をもじった「独断と暴走」という言葉で批判した。」

田原総一朗著『日本の政治 田中角栄・角栄以後』(講談社 2002年)P316

 このような歴史を持っているため、日本では小選挙区というと、過去の歴史を知っている年配の方にとっては特に、なにかしら、「それほど力のない自由民主党が強引にたくさんの議席を獲得するための非民主的な制度」といったイメージが先行していました。
 小選挙区制が現実に行われている現在でも、教科書には次のように書かれています。
「 この制度については、比例代表を加味したり重複立候補を認めても、
小選挙区の死票がなくなるわけではなく民意を正確に反映しないのではないかという強い批判がある。」

都留重人・伊東光晴・山内敏弘・古川純・最上敏樹・中村達也・岩本武和著『政治・経済』(実教出版 2006年)P57

 このイメージについて、後教授は、「小選挙区制度こそ、『民主的』」と、目から鱗の説明をしておられます。 


 2 中選挙区制や比例代表制では何が起こるか        | このページの先頭へ |

 後教授の説明に従って、二つの点で、比例代表制・中選挙区制の限界を指摘します。
 第一に、過去の仕組みとしての
55年体制についての限界です。
 ベルリンの壁崩壊以前の日本の左翼政党は、国際的な社会主義勢力の動きとむ関係の存在たり得ず、多数派の国民にとっては、「自由民主党にお灸を据える」的批判からの投票はあり得ても、本気で政権交代を考える存在ではありませんでした。
 日本社会党の体質について、正村公宏氏も次のように指摘しています。
「最大野党の日本社会党も、政策体系の転換を推進する力量をもたなかった。日本社会党の多くの指導者は「マルクス主義」のイデオロギーに深く汚染されていた。日本の場合にも、後発工業国としての発展の初期における国民の窮乏状態、戦争による破壊、経済成長にともなう社会構造の変動の衝撃などが、「マルクス主義」のイデオロギーを育てることになった。それが一種の社会的な「履歴効果」をともなって日本の政治運動を規定しつづけたため、日本が短期間のうちに先進国の仲間入りをしたのに、政治運動がそれに適応できなくなってしまった。1960年代以後の日本社会党の内部におけるマ〜クス主義者の讐カを強める契機となったのは、1950年代における「エネルギー革命」(石炭から石油への主要なエネルギー源の転換)によって斜陽化した石炭産業の労働者の激しい抗議闘争であった。
 1960年代から1970年代にかけて、日本社会党内の「構造改革派」と呼ばれる集団に属する人々が、基本路線の転換の必要を唱え、活発な議論を展開した。ヨーロッパ型の「社会民主主義」への脱皮を模索する問題提起であったが、社会党のなかではかえって伝統的なマるクス主義に固執する親ソ連派や親中国派が大きな影響力をもつようになっていた。
 日本社会党は、社会民主主義の国際組織である「社会主義インターナショナル」に加盟している政党であるのに、実質的にはコミュニズムの政党に変質した。日本社会党は、日本の経済と社会の大きな転換期に改革的多数派を形成する指導勢力として機能することができなかった。「マルクス主義」のイデオロギーは、国家の針路と社会のあり方の選択をめぐる冷静で現実的な政策論議を不可能にした。その結果、日本の政治の停滞と退廃が進行した。」

正村公宏著『現代史』(筑摩書房 1995年)P477

 日本社会党の限界を最も端的に示すデータは、選挙におけるその候補者数です。
 リクルート事件の結果、竹下内閣が退陣に追い込まれ、その後の宇野宗佑内閣の時に行われた1989年7月の参議院選挙では、自由民主党=36議席に対して、社会党=46議席となり、自由民主党への批判が高まりました。しかし、その時ですら、日本社会党は全512議席の半数を超える候補者を立てると言うことはあり得ませんでした。つまり、候補者が全員当選しても、過半数を超える政党とはならなかったのです。また、積極的に政権交代のための野党連携・連合を組むこともありませんでした。

 後教授は次のように指摘しています。
「 いうまでもなく、唯一の可能性は社会党委員長の土井たか子であった。
 1989年7月の参議院選での当選者数は、自由民主党の36に対して社会党は46であったし、連合の11も土井ブームに大きく負っていた。そして、それらの票は、ともかくも自民党政治への批判を表明することを望んだものであったという意味で、非自民党政権という選択に十分つながりうるものであった。つまり、仮に自民党に一度「お灸をすえる」というのが投票の意図であったとしても、連合を繋ぎにして社会党から民社党までが加わる政権、それゆえ安保や自衛隊などについては現状を維持しながら政治腐敗対策、生活重視型行政(特に労働時間短縮)、地方分権などいまや行革審まで含めて広範な支持がある政策だけに可能な範囲で取り組む政権ならば、そこからさほど大きな距離ではなかったと思われるのである (そして、その政権は、少なくとも選挙区定数の徹底した格差是正を行なうことができたであろう)。
 あの時点で、土井社会党は、そのような政権構想を実現するためにまさに「自らを供する」ことが求められていた。具体的にいえば、90年2月総選挙において、どの党であれ非自民党候補を最大限に当選させることを至上目標として、そのための政策調整、選挙協力の中心軸となるということである(この文脈で考えれば、社会党の独自候補ばかりを増やすことへの石橋元委員長の批判は正当であった)。7月参院選で新たに土井社会党に投ぜられた票は、一政党としての社会党への支持票では決してなく、少なくとも潜在的には右のような非自民党政権を望むものであったと筆者には思われる。
 しかしながら、そのような方向でのイニシアティヴはとられないまま迎えた総選挙では、自民党の安定多数を許したうえで野党の中で社会党のみが中途半端に一人勝ちするという、ほとんど最悪の結果となった。土井委員長は状況を楽観的に読み間違った側面もあるだろうが、それ以上に重大なのは、できるかぎりの妥協をして非自民党政権を実現することよりも従来の立場を堅持したままで社会党の議席をできるだけ増やすことの方を重視したと思われることである。彼女自身、委員長辞任後の回顧で次のように述べている。
 「90年2月の総選挙で社会党が大躍進した後、私は辞任するつもりだった。86年の衆参同日選挙で失った議席を『元に戻す』のが、最大の目標であった以上、私の役割は終わった、ここで改めて、一議員に戻ってスタートラインに立とうと思ったのである。」
 万年野党の社会党指導者としてはあるいは許される立場かもしれない。しかし、おそらくは非自由民主党政権を期待したあの膨大な票を社会党の議席を「元に戻す」ために使って自己満足しうるというのでは、政治家としてのスケールや構想力の不足はおおいがたい。」

後房雄前掲書 P8−9

 第二に、55年体制とは関係なく、中選挙区制度や比例代表制度によって仮に政権が交代し新しい政権が誕生するとすれば、どんなことが起こるでしょう?そこに民主的な仕組みが貫徹しているでしょうか?
 中選挙区制や比例代表制では、選挙結果はどの政党も50%以下という場合が普通に生じます。これは、戦後ずっと比例代表制を実施しているドイツや、1990年代まで比例代表制を実施していたイタリアの場合を見れば明らかです。
 日本の場合でも、1993年7月の選挙結果は、上表に示したように、第一党の自由民主党以下どの政党も過半数を取ることはできませんでした。その結果、野党第一党の日本社会党を中心に、自由民主党と日本共産党以外が連合して、非自民細川政権が誕生しました。
 この時は、日本社会党も選挙前から「非自民政権の樹立」を訴えていましたから、この細川政権ができることは選挙民としても納得がいくことです。
 しかし、細川内閣のあと羽田内閣を経て、1994年6月に村山内閣ができたときは、多くの方が驚いたことと思います。
 1993年の選挙では、おくびにも出なかった、「自社政権」が誕生してしまったからです。
 これが、中選挙区制や比例代表制の一番悪い点です。選挙の時になにがしか理想的なことを唱えていた政党を民意によって議席を持たせることはいいでしょう。しかし、その後、その政党が過半数を得るためにどのように離合集散するかは、国民の意思を超えて全く政党任せになってしまうのです。
 有権者にとって一番大事なことは、選挙後の4年間に政権が何をしてくれるかです。ところが、多数党から少数党まで乱立している中選挙区制や比例代表制では、肝心な部分が政党任せになってしまうのです。
 数だけ民意を反映しても、これでは真に民主的とは言えません。 


 3 小選挙区制を真に生かす選挙とは         | このページの先頭へ |  

 今回第45回の選挙では、、得票率と議席の関係は次のようになりました。



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 小選挙区制度の特色が発揮され、大勝利した民主党は、小選挙区では47.4%の得票率で、75.7%の議席を獲得しました。
 それとは反対に、自由民主党は、
小選挙区では38.6%の得票率でしたが、議席の獲得は21.3%にとどまりました。
 やはり、「死票」が出たことは間違いありません。
 しかし、だからといって、小選挙区制が即民主的ではないと結論するのは、いささか早計です。

 まず第一の視点です。
 先に、
中選挙区制比例代表制の限界を示しました。その点から考えると、小選挙区制はどうでしょうか?選挙は、これから先4年間の政権担当者と何をやってほしいかを選ぶものです。
 これについては、小選挙区制ならではの「進歩」が、選挙前に見られました。選挙後の数を見ての「野合」ではなく、民主党・社民党・国民新党が、選挙前から共通施策を発表し、小選挙区制における協力と選挙後の連立政権に向けての具体的な道筋を発表しました。
 共通政策の内容には次のようなものが上がりました。
  ※『日本経済新聞』(2009年8月15日(朝刊))から一部抜粋

 民社党・社民党・国民新党共通政策

 項目

 自由民主党の政策

4分社化見直しなど抜本的な見直し 

 郵政

4分社化を踏まえた3事業一体化サービスの検討 

高校教育の無償化 

 子育て・教育

新奨学金などの創設 

日雇い派遣禁止、登録型派遣・製造業派遣原則禁止

 雇用

日雇い派遣禁止 


 これはこれまでにない前進ですが、実は、課題もあります。
 3党合意の内容には、外交・安保などいくつか相違点もあり、合意に達していない点も多々あるからです。

 
 第二の視点です。
 これまでの選挙で全小選挙区で立候補者をたてていた日本共産党が、今回は、立候補者を立てない選挙区をたくさん作りました。理由は、あまりにも得票率が低く、供託金没収となることを避けたと言うことだそうです。これなら理由は全くの自党の財政的事情になるわけですが、実はここに新しい視点が隠れています。
 イタリアでは長く比例代表制が続いたため、1990年代になって小選挙区制に移行する時点で、日本よりも多くの政党が存在していました。その場合、ごく小さい勢力の政党で比例代表制で1%しか得票できないといったような政党はどうすればいいのか?
 具体的に考えてみましょう。
 有力党のA党とB党が一騎打ちする選挙区で、弱小党のC党が存在価値を示すにはどうしたらいいか。中選挙制度では一か八か立候補するしかないわけですが、小選挙区では当選の可能性はゼロです。しかし、立候補すれば必ず何%かを獲得します。もし、B党が若干不利で、その党と政策協定ができる可能性があるとしたら、その数%の得票率を武器に、政策協定によって自派の政策を実現していくという可能性があるわけです。
 これなら、中選挙区制度や比例代表制度で、獲得議席はあるものの、議会の中では政権党に対してただ反対を唱えるだけという党ではなく、現実に政策を実現できる党派になれる可能性もあると言うことです。
 考え方によっては、こちらの方が民意が国政に反映できる可能性があると言えましょう。

後房雄前掲講演記録、『会報 48 2009・3』P104−105


 そろそろまとめです。
 ここで概観した政治改革と選挙区制度の変遷は、1993年に起こった自由民主党の分裂以降の一群の政治家、とりわけ
小沢一郎氏のリーダーシップによるところが大でした。その小沢氏が、今回の衆議院議員選挙を前に民主党代表を辞任し、新首相になれなかったのは歴史の皮肉ですが、彼の存在の大きさは特筆されるべきです。
 後教授も指摘しておられます。
「高畠が指摘するように、保守勢力内で、利益誘導と利害調整を基盤にしているために時代が要求しているような明確な政策転換をなしえない現在の自民党を維持することがもはや至上目的ではなくなっており、農村議員を中心にした現状維持的保守党に対抗するために連合や社会党右派まで含んだアメリカ民主党的な都市型保守党という構想が真剣に議論されるまでになっているとするならば、野党諸政党の方にも「政権交代のある民主主義」とそれを担う新しい改革政党の形成を目標として独自のイニシアティヴを展開する余地は十分存在すると思われるのである。
 こうした文脈で、筆者が特に注目に値すると考えるのは、
小沢一郎を中心とする自民党内「改革派」の登場である。
 自民党竹下派の内部抗争について、1992年末に小沢一郎自身が、「本質は改革準と守旧派の対立だ」と主張したわけであるが、それに対して、これまで自民党政治の中枢にいた人物が改革派でありうるはずがないというような論評がかなりみられる。しかし、筆者は、小沢にみられる「体制内改革」の志向をそのよぅな形で軽視しては現状認識を大きく間違うことになると考える。
 彼自身がいうように、旧体制のなかにおいて権力を追求することが最大の目標であったのであれば、92年の海部後継選びの際に、宮沢のかわりに首相になれた可能性は強かったわけであるし、何よりも竹下派を分裂させるような行動をとらずにもっとじっくりと党内での地位を固める方を選んだはずである。戦後政治のある方向での「改革」こそが彼の中心目標であることは疑いないと思われる。もちろん、「行動する時には政権を取る見通しがつくことが必要だ」という発言にも示されるように、改革後の権力獲得をねらいとしていることは明らかであるが、それは政治家である以上当然のことである。重要なのは、当面の政権獲得以
上にまず「政治改革」の実現を重視するという、これまでの自民党政治家としてはきわめて特異な選択を彼が行なったということである。
 彼の戦後政治批判は次のように要約される。
  「要するに野党の言い分も開きながら、予算を日本人同士で分配することだけが政治の仕事で、基本的には政治の働く場はどこにもなかったのです。政治的な見識や政策は必要ない。話し合いといえば体裁はいいけど、分配の談合だけで済んできたわけです。そして、日本経済が自由に活動し、成長を遂げてきた舞台である平和で自由な世界という環境を整備するためのコストについては、日本は一切無視してきました。アメリカや西側諸国が作ってくれた自由と平和に日本人みんながおんぶされてきたと言っていい。これが冷戦時代の日本の政治構造でした。」
 ところが、日本の経済大国化と冷戦構造の終焉によって、日本は「国際社会における役割」について明確な方針を示して実行するような強力なリーダーシップを求められている。小沢の言い方では、「ここ数年以内に抜本的改革を実行しなければ日本は世界から相手にされなくなる」という。こうしたモチーフから、小選挙区制の導入を「手段」とする政治改革(政権交代の可能性をはらんだ緊張感のある政治、二大政党制へ)、中央官庁の権限縮小と大胆な地方分権などが主張される。
 付け加えれば、彼の政治的師匠である田中角栄との断絶の意識が明確であることも注目に値する。田中については、「現実の枠内ではあるけれども、その枠内での発想と利害調整は抜群」という意味で「戦後政治が生んだ傑物」だと評価しつつも、あくまでも戦後政治の枠内の政治家であったことを明言する。そして、自らの目標を、田中が体現していた調整型の戦後政治そのものの改革に設定しているのである。
 要するに、小沢のめぎすものは、基本政策をめぐつて明確な論争がなされ、選挙を通じてその時どきに有権者の明確な選択が示されるような二大政党制的な政治システムである。小選挙区制の導入はそのための現実的手段にほかならない。」

後房雄前掲書 P22−24

 別に小沢一郎のファンというわけではありません。ただ、政治というものをもう少し前向きに大切にしていきたいだけです。
 「初めての政権交代」が国民の失望につながるものにならないことを切に願いたいです。
 生徒から、「先生、誰がやっても政治なんて同じでしょう?」としたり顔で言われるのが一番怖いです。

「「1955年体制」の最大のマイナスの遺産は日本の政治家および政党の「資質」の致命的低下であったといえるだろう。それは、「経済」を優先課題として追求し、「政治」や「社会」のあり方を問うことを忘れてきた
日本の国民の大多数のこれまでの生活意識の帰結にほかならない。日本の政治の貧困は、日本の経済の成熟が不可避となっている状況のもとで日本の社会の停滞と衰退と混乱を加速する要因とならざるをえない。」

正村公宏前掲書 P485


 我が国が、高校生がなりたくない職業の2番(1番はフリーターなので実質は1番)に、「政治家」が上がってしまう国(このアンケートはこちら→)だというのは、はっきりいって嬉しいことではありません。何とかしていきたいものです。


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