産業の発達・経済成長3
<解説編>
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609 2001年WTC爆破事件でフォード社が被った被害は?      | 問題編へ |  

 このクイズは、2001年9月11日のWTC事件の直後に発生した混乱の中で、はからずも、アメリカ経済の実体が浮き彫りとなったことを題材としています。
 ※事実関係は、2002年1月2日BS放送の番組「激動の世界経済1 アメリカ 繁栄は蘇るか」から取材しました。
 

 御存知のように、五大湖がカナダとアメリカ合衆国との国境線を形成する。西・北・東をミシガン湖・ヒューロン湖・エリー湖に囲まれた部分がミシガン州
 その東端部、カナダとの国境にデトロイトはある。ヒューロン湖とエリー湖は直接はつながっておらず、途中のセント・クレア湖を挟んで、デトロイト川が両湖を結んでいる。デトロイトから見て、デトロイト川の対岸は、カナダのウインザー市である。そこに架かる橋が、アンバサダー橋、長さ400メートルです。


 まずは、ヒントの解説をします。 

○北米自由貿易協定(NAFTA)

1989年にアメリカとカナダではじめられ、1992年にメキシコも加わった3国の貿易協定。輸入関税の撤廃、投資・貿易制限の撤廃、市場開放を目指しています。

○デトロイト市の位置

五大湖のうち三つと接するミシガン州の東端に位置します。デトロイト川を挟んで対岸は、カナダのウインザー市で、おもにアンバサダー橋を利用して人と物資が動いています。ヒューロン湖からエリー湖へつながる川と小さな湖が、カナダとアメリカの国境線を形成します。

 デトロイト市は、2000年現在人口が、95万1270人、全米第10位の都市です。周辺も含めた都市圏人口は400万人以上です。

 この市の歴史は古く、建国以前の1701年フランス人キャデラックが毛皮の取引の拠点とするためにここに砦を築いたことに始まります。市名は、フランス語のデトロワ(海峡)に由来します。
 デトロイトが自動車の町となったのは、すでに別のクイズで説明した、かの有名なヘンリー・フォードの功績によります。
 アメリカの自動車産業は、1980年代から90年代初めにかけて日本車に押されっぱなしの状況から挽回し、1990年代後半からは、ふたたび、世界一の自動車生産国の座を守っています。(もっとも、以前より、日本などアメリカ以外の自動車会社の工場が急増したことも、世界一奪回の要因にはなっています。)

 デトロイトには、世界一の自動車会社ゼネラルモータース(GM)やフォードやダイムラー・クライスラーを初め、各社の本社や工場が集まっており、アメリカ自動車業界の全米最大の自動車生産拠点です。

 以前は、フォードのリュージュ工場のように、自前の工場でエンジンも部品もすべて生産し、組み立てをするという形でしたが、現在では、生産と物流の形態は異なっています。
 すなわち、北米自由貿易協定によって、関税が廃止された結果、自動車の最終組み立て工場はデトロイトにあっても、各部品は、川の対岸、カナダのウインザー市にある部品工場から供給される構造になっているのです。
 
 その理由は、カナダの方が、労働者の平均賃金がアメリカより少し低く、至近距離で輸送費が無視できる状況では、カナダの工場からの方が部品がやすく調達できるからです。
 
 しかも、部品の調達方式は、かの有名な日本方式、Just in Time が採用されています。
 これは、部品を工場の倉庫に保管するのではなく、客の注文に応じて生産台数を決め、その分だけ部品会社に発注し、ジャストインタイムで工場へ届けさせて、ライン上で組み立てるというものです。
 倉庫に部品を補完するコストが省略でき、生産コストを下げる重要な要素です。
 
 このシステムが、このデトロイトの各社工場でも採用されていました。
 対岸のウインザー市などで生産された部品は、大型トラックなどで、デトロイト川にかかる長さ400メートルのアンバサダー橋を通って組み立て工場へ運ばれていました。何と毎日6000台ものトラックがこの橋を通って部品を運んでいたのです。

 そこへ、2001年9月11日WTCビル爆破事件が発生し、その結果生じた混乱が、ついにフォード工場の生産を止めるまでにいたらしめました。もう理由は、おわかりですね。

 正解は次のとおりです。
 テロ事件の結果、アメリカ政府は、国境での検問を強化する指令を発しました。 
 これまで、自由貿易協定によって、フリーパスで通っていたアンバサダー橋の検問所でも、警察や国境警備隊による積み荷の厳重なチェックが始まったのです。
 この結果、僅か400メートルの橋を渡るのに、20時間もかかる大渋滞となってしましました。
 これでは、ジャストインタイムで部品は届きません。

アンバサダー橋。デトロイト在住のBさんに送ってもらいました。今は渋滞はありません。

 GMは、急遽代替輸送を考案し、デトロイト川を危険物輸送船を徴用して輸送する方法を当局に認めさせ、船によるピストン輸送によって、部品を運びました。この結果、GM工場の生産ラインの停止は、僅か8時間ですみました。

 フォード社の場合は、そうはいきませんでした。
 フォード社は、単なる部品だけではなく、自動車のエンジンまでもカナダで作っていたのです。

 この結果、デトロイトのフォード社の6つの工場は、やむなく2週間にわたって生産を停止し、12万台もの減産となりました。

 コスト削減のために無駄を削った生産・物流のシステムが、テロの警戒という非常時の前にもろくも止まってしまったという、現代経済の脆弱な部分を示す象徴的な事件でした。

 ところで、このデトロイトですが、この「事件」以外にも、いろいろ授業のネタなることはずいぶんあります。

 生徒に、「デトロイトを舞台にした映画は何か」と聞くと、多分返ってくる答えは、「ロボコップ」です。「ロボコップ」がデトロイトを舞台にしていることを知っていなくても、「ロボコップ」=町の治安の悪さ=デトロイト と結び付けば、話は進みます。

 デトロイトの歴史は、アメリカの自動車産業の栄枯盛衰の歴史でもあります。
 1950年代、人口は、185万人もあり、全米第5位でした。1980年代には120万人台に下がり、現在は、100万人を割っています。
 同時に、別の問題も起こりました。
 第二次世界大戦直後の経済停滞の時期、自動車産業のおかげで繁栄していたデトロイトには、南部から大量のアフリカ系アメリカ人(黒人)が移住してきました。
 黒人が全市人口の中に占める割合は、1960年代には29%、1970年には44%、1980年には63%と急増し、2000年には、なんと81.2%となり、全米大都市の中では、最高位の比率です。
 ※アフリカ系の平均的比率はこちらへ
 
 この間に、黒人スラム街での暴動事件(1967年)、白人富裕層の市中心部から郊外他市への移住、市中心部のゴーストタウン化等の問題が発生しました。
 1980年代は日本車の進出によって、デトロイトの自動車工場の生産が縮小し、デトロイト都市圏の失業率は、16%を越えるという悲惨な状況になりました。(この時の全米平均は、9%台)反日感情が燃えさかったのもこのころです。
 ※この辺も、授業ではクイズ化できそうです。

 現在では、1970年代にはじまった、市中心部の再開発(その象徴がルネサンス・センター・ビル群)が軌道に乗り、ふたたび、「秩序」が戻ってきています。
 2001年のデトロイト市の殺人事件数は、395件となり、1991年の615件と比べると大きく減少しました。このほか、強姦・強盗事件も10年で半減しています。
 
 但し、それでも、在デトロイト日本国総領事館は、次のように説明しています。
「このように治安が悪いというイメージが付きまとうデトロイトの街であるが、ここ数年は復興プロジェクトが進み、以前と比べると治安も改善されてきている。
 しかし、市内全域に危険な居住地域が散在するため、幹線道路を離れ、居住地域に迷い込んだり、街を一人で歩くことはいまだに避けるべきである。

 
 名古屋からは直行便があるのですが、ちょっと観光というには覚悟が必要な街のようです。
 ※人口等のデータも、在デトロイト日本総領事館のサイトから引用しました。
 ※デトロイトの歴史は、平凡社の「大百科事典」のデトロイトを参考にしました。


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