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「社寺に参詣する日本人は、漠然と人間の目には見えない、人間を超えたものの存在を信じ、そうしたものに対する畏怖、畏敬の念を持っている。人間を超えた、目に見えないものが神仏であり、死んだ近親者や先祖の霊魂も同様に考えられる。一般に日本人は、人間が死ぬとその霊魂は49日間の過渡的な期間を過ごしたあと霊魂の世界に落ちつき、仏になると考えている。神道でも同様に、人間は死ねば神になると説明する。死者の霊魂は極めて自然に神または仏と呼ばれ、家族や子孫によって家々の仏壇や神棚に祀られるが、もしそれを粗末に扱うと、さまざまな災禍が起こると考えられている。死者の霊魂は、年を重ねるうちに生きていた時の個性を失って行き、抽象化されて一般的な神仏の中に融合して行く。一般的なものとなった神仏は、遠い山上や海上の国に存在したり、社寺に祭られたりしているが、新年や7月のお盆、春分・秋分の日である春と秋のお彼岸に、人間の世界に帰ってきたり、人の呼びかけに応えたりする。
しかし、日本人は目に見えない神仏に対して、畏怖、畏敬の念を抱きながら、それらの意志や性格を明 |
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確にしようとは考えず、漠然と人間は神仏の子であると考え、神仏はさまざまな力を働かせながら、究極的には人間を守り、善なる方向へ導いて行くものと信じている。従って、人々は自己の心を清浄にして神仏の導きに従おうと考える。心を清浄にするというのは、人間の作為を排して神仏の子として生まれたままの状態になることと考えられる。日本人の美意識はそうした心情とつながっている面があるが、心を清浄にするためには雑念を捨てて、心を空白にすることが必要とされ、それは一心不乱の状態に通ずると説かれる。日本人が好む精神統一というのがそれで、精神を唯一のことに集中させ、他の想念をすべて雑念として払拭した状態が神仏と一体化でき、交感できる状態であるということになる。従って、日本人は精神統一のためにさまざまな方法を持っている。剣道、柔道、弓道などの武道は古くからそういうものとして重んぜられ、(中略)茶を飲むことも、花を活けることも、精神を統一するための方法と考え、それらの中で忘我の境に触れようとする日本人は多い。そうした努力が、修行としてもっとも完成されたのが坐禅であろう。」
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