日本の文化2
<解説編>
                                                   
1001 2003年の初詣の人出はどのくらいか?                          | 問題編へ |

 見方によっては「無宗教」といわれる日本人ですが、そうではないことを示すのが、正月です。この時は、多くの国民が、いわば国民的な「宗教儀式」である「正月」を意識して、その儀式や作法にのっとった行動をします。
 注連飾りや、鏡餅、お年玉・・・・、これらに加えて、もっと宗教性が意識されたものが、初詣だと思います。

 正解 2003年の初詣人数は、8622万人で、昨年より、131万人増加しました。

 この数値は、警察庁が毎年、全国の主な神社・仏閣など1491カ所に警備の警察官を配置し、人出を集計しているものです。もとより、すごい厳密な数値ではないでしょうが、毎年行われているものですから、概数としての意味はあると思います。
 ※近所の無名な神社に行った人の分は、もちろんカウントされていませんね。

 神社別に見ると、このところ毎年トップは、東京の明治神宮(300万人、前年比−15万人)、以下A成田山新勝寺(千葉県 265万人(同−19万人)、B川崎大師(神奈川県)、C伏見稲荷(京都府)、D熱田神宮(愛知県)、E住吉大社(大阪府)、F太宰府天満宮(福岡県)、・・・・となっています。

 @・Aが前年より参拝客を減らした原因は、関東地方
『日本経済新聞』(2003年1月12日朝刊)より

の冷え込みが厳しかったことも原因にありますが、このところ著名な神社・仏閣への初詣客が減少している傾向を示すものです。
 明治神宮は、1988年が最高で399万人、成田山新勝寺も同じ年に300万人を記録しています。
 「ここ数年全体の人数には大きな変化は無いものの、景気の低迷が続き、有名な遠くの神仏より手軽な近くの神仏という人が増えているようだ」と報道機関では分析しています。

 ここ十数年の初詣の人出は、右のグラフのようになっています。
  ※数値と分析コメントは、『日本経済新聞』
    (2003年1月12日朝刊)より
 
 私たちは日本人は多くの場合、キリスト教のような一神教を信じてはいません。だからといって、断じて無宗教ではないと思っています。
 多くの日本人の「信仰」は、教義のない、多神教あるいは汎神論(どこにでも神の存在を認める)を生活や文化の基盤に持っているという状態であるから、それが表現できにくいのです。
 
 私個人としては、もう少し、みなさんがたとえば「正月とは何か」を子どもに語ることができるような状態になって、個人として、国民として、子々孫々に伝えていくものを明確に持っていて欲しいと思っています。
 正月については、すでにこのサイトの他の所で書いています。(未読の人はこちらへ、

 「おじさんの説教」臭くなってはいけませんから、ここらでやめます。
 興味のある方は、長いですが次の引用を一読下さい。
  ※新日本製鐵株式会社広報室編『和英対訳 日本の心U現代社会』の「大隅和雄 日本の宗教」
    (丸善ライブラリー 1993年)P29

「社寺に参詣する日本人は、漠然と人間の目には見えない、人間を超えたものの存在を信じ、そうしたものに対する畏怖、畏敬の念を持っている。人間を超えた、目に見えないものが神仏であり、死んだ近親者や先祖の霊魂も同様に考えられる。一般に日本人は、人間が死ぬとその霊魂は49日間の過渡的な期間を過ごしたあと霊魂の世界に落ちつき、仏になると考えている。神道でも同様に、人間は死ねば神になると説明する。死者の霊魂は極めて自然に神または仏と呼ばれ、家族や子孫によって家々の仏壇や神棚に祀られるが、もしそれを粗末に扱うと、さまざまな災禍が起こると考えられている。死者の霊魂は、年を重ねるうちに生きていた時の個性を失って行き、抽象化されて一般的な神仏の中に融合して行く。一般的なものとなった神仏は、遠い山上や海上の国に存在したり、社寺に祭られたりしているが、新年や7月のお盆、春分・秋分の日である春と秋のお彼岸に、人間の世界に帰ってきたり、人の呼びかけに応えたりする。
しかし、日本人は目に見えない神仏に対して、畏怖、畏敬の念を抱きながら、それらの意志や性格を明

確にしようとは考えず、漠然と人間は神仏の子であると考え、神仏はさまざまな力を働かせながら、究極的には人間を守り、善なる方向へ導いて行くものと信じている。従って、人々は自己の心を清浄にして神仏の導きに従おうと考える。心を清浄にするというのは、人間の作為を排して神仏の子として生まれたままの状態になることと考えられる。日本人の美意識はそうした心情とつながっている面があるが、心を清浄にするためには雑念を捨てて、心を空白にすることが必要とされ、それは一心不乱の状態に通ずると説かれる。日本人が好む精神統一というのがそれで、精神を唯一のことに集中させ、他の想念をすべて雑念として払拭した状態が神仏と一体化でき、交感できる状態であるということになる。従って、日本人は精神統一のためにさまざまな方法を持っている。剣道、柔道、弓道などの武道は古くからそういうものとして重んぜられ、(中略)茶を飲むことも、花を活けることも、精神を統一するための方法と考え、それらの中で忘我の境に触れようとする日本人は多い。そうした努力が、修行としてもっとも完成されたのが坐禅であろう。」