現物教材 世界史14

 近代10  鉄道の父 ジョージ・スティーヴンソンのロケット号  13/01/07記載  | 目次へ

 蒸気機関車シリーズ第二弾は、ご存じ「鉄道の父」、イギリスのジョージ・スティーヴンソンロケット号です。この蒸気機関車は、リヴァプール-マンチェスター鉄道の開業1年前の1829年に、同鉄道のレインヒルで行われた機関車トライアル(コンテスト)で優勝し、翌年の営業時の機関車の原型となったものです。
 まずは、現物教材プラモデルの写真をご覧ください。


 写真14-01 鉄道の父、スティーヴンソンロケット号のプラモデル(撮影日 13/01/07)

 カラーリングは、ロケット号の本物ではなく、イギリス・ヨークにある国立鉄道博物館(NRM, National Railway Museum)にあるレプリカに準じてなされています。当時は、こんなに鮮やかな黄色の塗装ではありませんでした。
 ※
イギリス・ヨークの国立鉄道博物館 http://www.nrm.org.uk/


 全体のボリュームが大きくなりますから、次の順序で説明します。
この現物教材の入手先 HANNANTS
スティーブンソンをめぐる記述のあいまいさは新教科書では・・・・?
スティーヴンソンのロケット号の特色


この現物教材の入手先 HANNANTS           | このページの先頭へ |

 この教材は、プラモデル「1829 STEPHNSON ROKET legend of Railroading」(1/26)です。
 イギリスのプラモデル販売のウエブサイト、
HANNANTS で探しました。
 価格は、12.49ポンド(日本円換算、1594.76円)で、もう一つ購入した、「1804 TREVITHICK The World’s First Steame Locomotive」(1/38、同価格)と一緒に航空便で送ってもらって、送料は17.51ポンド(2235.73円)でした。製品一個より送料の方が高くついてしまいました。10月29日にインターネットで注文して、11月11日に到着しました。

 このサイトからは、欧米の多くのメーカーの商品を買うことができます。
 この商品の製造元は、アメリカの会社、MINI CRAFTです。
  ※ HANNANTS http://www.hannants.co.uk/ 
  ※ MINI CRAFT http://www.minicraftmodels.com/index.htm
 
 
HANNANTSのトップページから検索した結果、他に現物教材となるプラモデルとして購入したいと思ったものは、次のものです。
  ・ノアの方舟(1/350) 3951.33円(キリスト教の『旧約聖書』の話です)
  ・タイタニック号(1/350) 9883.61円
  ・ダグラスC54(1/144) 2371.06円(ソ連のベルリン封鎖時に空輸で活躍した輸送機です)
  ・古代ギリシア三段櫂船(1/72) 6588.63円(サラミスの海戦等に登場する軍船です」)
  ・ギリシア軍重装歩兵(1/72) 988.49円
  ・イギリス戦艦ドレッドノート(1/350) 5007.04円(超弩級戦艦の元祖です)


 写真14-02・03 パッケージとパーツ (撮影日 12/11/12)

 外国製のプラモデルを組み立てる苦労話は、「トレヴィシックの機関車」を組み立てた時の日記に書きました。
  →日記「久しぶりのプラモデル作り、外国製は手強い。8時間の苦闘」

 今回も、同じように苦労しました。凹凸部品の組み合わせの精巧さなど、日本製の精密なプラモデルとはいささかレベルが違います。組み合わせの都度、穴を大きくしたりはみ出し部分を削ったりしなければなりません。また、組み立て説明図のわかりにくさもなかなかのものでした。

 本題とは全く関係がありませんが、プラモデル製作中に、57歳にして初めて、日常的に使っている単語の語源に気がつきました。皆さん、学校の部活動にもある、「ブラス・バンド」(brass band、通常の日本語訳は「吹奏楽団」)のブラスの語源ってご存じですか?
 私の家族で確認しましたが、私たち夫婦と長男夫婦の教員4人が知りませんでしたので、意外と多くの方が語源を知らずに使っている単語と推察できます。(私の家族が無知という可能性も否定できませんが・・・)
 
 プラモデル作りとブラス・バンドがどう結びつくのか?
 このプラモデルは外国製ですから、説明書もすべて英語で書かれています。各パーツにはどういう色を塗るべきかを示すカラーリングの色が簡単に付されています。普通に、black、yellow、gold、silver、copper(銅色)等の単語が書かれています。
 その中のひとつに、
brass という指示があったのです。私はこの単語を知らなかったので、ブラス・バンドのブラスと同じ言葉とは知らずに、辞書を引きました。
 ズバリ指定された色はなんだと思いますか?

 これが本題ならここで黒板クイズをするところですが、余談も余談ですから、敢えてそこまではしません。
 塗るべき色は、「真鍮色」(しんちゅういろ)でした。
 そうなんです。確かにブラス・バンドの吹奏楽に使う楽器は、もとは真鍮製の金管楽器でした。だからブラス・バンドなのです。あれは真鍮楽団なのです。勉強になりました。(ひょっとしたら、このネタがこのページで一番おもしろいかもしれません。(*_*))


スティーブンソンをめぐる記述のあいまいさは新教科書では・・・? | 先頭へ |

 以前に、高校の世界史の教科書でスティーヴンソンの業績がどのように説明されているかを確認しました。表にまとめると、次のようになります。



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 各教科書によって、試作・製作、実用化・試験走行、本格的実用化・営業鉄道など、使用している用語がまちまちで、どんな事実を反映しているかは、簡単には想像できません。
 
 2013(平成25)年度から高等学校の学習指導要領が新しくなり、教科書が変わります。地理歴史科の教科書の新しい版に変わります。2013年1月の現時点では、まだ新しい教科書は手に入りませんが、採用見本として教科書センターに配布されたものは、図書館等で見ることができます。

 新しい教科書の
ジョージ・スティーヴンソンに関する記述はどうなっているのでしょう。
 次の4つの教科書のうち、
は、上記表1の、の新版となります。


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 長い引用になりましたが、新版では少し記述がに変化がありましたが、すごくわかりやすくなったとはいえません。

 1814年の機関車は製作・試作、いったいどんなものだったのでしょうか?
 1825年のストックトン・ダーリントン鉄道を蒸気機関車はどう走り、スティーヴンソンはどのようにかかわったのでしょうか?
 1830年のリヴァプール・マンチェスター鉄道は、ストックトン・ダーリントン鉄道とはどう違うのでしょうか?本格的な鉄道、営業鉄道、旅客鉄道とはどういう定義なのでしょうか?
 
 一応、手短な答えは、次のようになります。


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 補足しながらもう一度確認します。地図もご確認ください。



【スティーヴンソンが1814年に作成した機関車】
 「
蒸気機関車の父」、トレヴィシックは、1804年にウェールズのペナダレンで、1808年にはロンドンで、独自の蒸気機関車を走らせました。
 この技術の系譜とは全く別に、
スティーヴンソンは、イングランド北部のタイン川流域の炭鉱地帯において、独自の発想で蒸気機関車を開発し、1814年7月には、彼自身の第一号蒸気機関車、ブリュヘル(ブラッチャー、ブルチャー、ブルッヒャーと表記する場合もある)号をノーサンバーランドの炭坑、キリングワースで走らせました。
 この名前は、当時活躍していたプロシア陸軍の将軍の名前に由来しています。1814年といえば、それまで大陸を支配していたナポレオンが、前年にロシア・プロシア・オーストリアなどの連合軍に敗れて、この年にエルバ島に流されるという年にあたりますが、このとき活躍したプロシアの将軍がブリュヘルというのです。
 ちなみに、彼が炭坑で蒸気機関車を走らせることができたことにも、ナポレオンとの戦争は関係がありました。
 当時の石炭の輸送は、軌道の上のトロッコを、馬が引いていくという形が一般的でした。ところが、ナポレオンとの戦争による動員によって馬が徴発され、また、馬のえさである秣(まぐさ)も値上がりして、炭坑の石炭輸送に支障が生じてきました。そこでキリングワースの炭坑主の一人が、
スティーヴンソンに蒸気機関車走行の話を持ちかけたのです。
 もちろん、このときはすぐにこれが輸送機関として使い物になるとは
スティーヴンソン自身も思っていませんでしたので、そういう意味ではこれは、「試作」です。この蒸気機関車は、貨物を積載した8両の貨車(総重量30トン)を時速6.4km程で牽引することに成功しました。

 しかし、この機関車が
トレヴィシックの蒸気機関車より大きく進歩したものであったかといえば、そうともいえません。
 この蒸気機関車は、ピストンが二つであることは、
トレヴィシックのそれより優れていましたが、そのピストン縦置きになって上下運動をするものであったことは、トレヴィシックのそれ(水平運動)より構造的には遅れていました。また、ピストン運動を歯車によって車輪に伝える点については同じ方式を用いていました。
 さらに、レールがL字型で、車輪にフランジがないことについては、
トレヴィシックが1805年に改良型で用いたフランジ方式を受け継いではいませんでした。
 この蒸気機関車は、歯車伝達方式を採用したため、歯車のすり減りによって長くは走れませんでした。つまり、まだ独り立ちできる代物ではなかったのです。これを、
H実教出版のように「実用化」と表現するにはちょっと無理があります。また、I帝国書院の「トレヴィシックが開発した蒸気機関車をスティーヴンソンが改良したロコモーション号」というのも、トレヴィシックの技術が受け継がれ改良されてスティーヴンソンのそれにつながったと言うふうにもとれてしまいそうで、ちょっと違和感があります。

 
スティーヴンソンが優れていたのは、その欠点をすぐに改善していった点です。
 歯車による動力伝達方式では無理があると悟った彼は、それに代わって、ピストンの往復運動をコネクティングロッドによって車輪を回転運動に代える方式を開発しました。このようにピストンと車輪をロッドで結んで直接駆動する方式は、1815年にパテントを取得し、以後蒸気機関車の基本的な方式となりました。
 スティーヴンソンは二つの動輪をカップリングロッドで動かす方式にも挑戦しますが、これは最初はなかなかうまくはいきませんでした。
 ※参考文献6 齋藤晃著『蒸気機関車 200年史』(NTT出版株式会社 2007年)P22-25

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【1825年のストックトン・ダーリントン鉄道 ロコモーション号】
 蒸気機関車を改良を進める一方で、
スティーヴンソンは、鉄道そのものの開発にも従事するようになりました。スティーヴンソンは、1819年、ヘットン炭坑からサンダーランド近くまで13kmほどの鉄道の建設を依頼されました。この鉄道の工事は1822年に完成しますが、この路線はあまりに起伏に富んでいたため、勾配が急なところでは、定置蒸気機関によるロープ牽引によって貨車を運びましたので、彼の機関車は一部の区間での活躍にとどまりました。

 そしてそのあと、1823年には、ストックトン・ダーリントン鉄道の実現を考える実業家ピーズから、その鉄道の技師長に任命されました。ここでも当初は、経営者たちは、無理して金をかけて線路を敷設することは必要がなく、急勾配の部分は馬や定置蒸気機関を使用すればいいと考えていました。蒸気機関車の効用は全面的には信頼されていなかったのです。
 しかし、
スティーヴンソンはピーズの了解を得て、川に橋を架け、山を切り通しで突き抜け、窪地に築堤を作って、新しい線路を敷設していきました。彼がこのとき採用した線路の幅は、当時この地域で一番多く使われていたものでしたが、その4フィート8インチ半(1435mm)は、このあとイギリスのみならず世界の鉄道の標準軌道幅となりました。彼はまた、線路をこれまでの鋳鉄製から錬鉄製にかえ、1本4.6mほどの長めのレールを使用する新しい方式を採用しました。さらに、線路のつなぎ方にもいろいろ研究を重ねました。
 また、同時に、1823年には、ピーズらとの共同出資によって、世界初の蒸気機関車製造会社を設立し、機関車・定置式蒸気機関・車輪・車軸・鋳物等の生産を始めました。社名をロバート・スティーヴンソン・カンパニーと言います。
ロバートは、すでに一緒に働くようになっていた彼の息子です。
 この機関車会社では、ストックトン・ダーリントン鉄道用の新しい蒸気機関車の製造が進められました。ロコモーション号と名付けられたその機関車は、ブリュヘル号と同じく、ボイラーの筒の上に二つのシリンダーを縦置きにしたキリングワース型の基本形を受け継いだもので、さらにそれを大型化したものでした。
 
 1825年の9月27日の鉄道の開通式の日、ロコモーション号は総延長40kmのこの路線の快調に走り、時速10~12km程度で多くの貨車と招待客を乗せた世界初の客車を牽引しました。最高時速は、しばしば時速12マイル(19km強)を超えたと言われています。
 ロコモーション号は、
世界初の蒸気機関車を使った公共鉄道の第一号機関車となりました。
 しかし、この成功は、ただちに本格的に蒸気機関車による鉄道が確立したということを意味するものではありません。それは以下の点で、ストックトン・ダーリントン鉄道は、本格的な鉄道とはいえなかったからです。
 蒸気機関車ははじめはこのロコモーション号1台しかなく、ほかの列車は、馬によって牽引されました。また、開通後しばらくして、ロコモーション号は車輪の破損によって修理を余儀なくされ、しばらくの間、この鉄道は完全な馬車鉄道に戻ってしまいました。
 また、そもそもこの鉄道は、これまでもたくさんあった炭鉱地帯の石炭を積み出し港まで運ぶことを目的とした馬車鉄道を衣替えしたものであり、後の公共鉄道の主たる任務である旅客輸送は、まだ主役とは考えられていませんでした。
 さらに、ロコモーション号そのものも、車輪以外にも、ピストンから駆動輪へ力を伝えるロッドの角度等に不備があり、完成された蒸気機関車とはいえませんでした。
 各教科書の「蒸気機関車の実用化」という表現はこういう意味だったのです。そして、まだ「本格的な鉄道」ではなかったのです。
 ※参考文献6 齋藤晃著『蒸気機関車 200年史』(NTT出版株式会社 2007年)P26-34
 ※参考文献7 C.C.ドーマン著前田清志訳『スティーブンソンと蒸気機関車』P47-57

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【1830年のリヴァプール-マンチェスター鉄道 ロケット号】
 リヴァプール-マンチェスター鉄道の計画がスティーヴンソンの元に届いたのは、意外と早く、1821年のことでした。取りかかりそのものはストックトン・ダーリントン鉄道の建設の前に始まっていたことになります。その後紆余曲折はありましたが、計画は無事実現されることになります。
 リヴァプール-マンチェスター鉄道においては、最初から、蒸気機関車を主とする運行が考えられ、また、リヴァプールとマンチェスターという2大都市を結ぶ鉄道であるため、炭坑鉄道と違って、旅客の輸送を主とする計画で開業へ向けての工事・作業が進められました。
 
スティーヴンソンの息子、ロバートは、ストックトン・ダーリントン鉄道の開通時点の前後は南米のコロンビアの鉱山へ技術指導者として迎えられて出向いていましたが、1827年には帰国しました。これによって、スティーヴンソン親子は、リヴァプール-マンチェスター鉄道の開業向けての作業・工事と、蒸気機関車の開発の両方を協力して取り組むことになりました。

 新蒸気機関車の課題は明確でした。これまでの炭坑の荷物運搬の機関車と違って、比較的軽い旅客車を高速で速く運ぶことができる蒸気機関車の開発でした。
 しかし、多くいる運営会社の役員の中には、蒸気機関や機関車のことをあまり知らない実業家も多く、開業が近付いてきた時期でも、定置式蒸気機関の優位性を主張する役員もいました。
 そこで、スピード、牽引力、重量、煙の抑制など細かい規定をクリアできる蒸気機関車が本当に存在するかどうか、コンテストを実施することになりました。すでに線路が引かれている本線の一部を使い、実際に蒸気機関車を走らせて性能を確認するわけです。
 これが、1829年10月に実施された、
レインヒル・トライアルです。5両の機関車が参加しましたが、スティーヴンソン親子の開発したロケット号は、短い試験区間を繰り返し走行するトライアルで、平均時速14マイル(約23km、11マイルとする説もある)を記録し、ただ一台審査基準をクリアして優勝しました。
 
 この結果、リヴァプール-マンチェスター鉄道における蒸気機関車による運行が最終的に決定され、
スティーヴンソンの会社は、ロケット号の改良版を次々と製造し、1830年9月15日の開通式の時には、改造されたロケット号も含めて合計8台の蒸気機関車が勢揃いし、ここに初めての蒸気機関車で旅客列車や貨物列車が運行される、本格的な鉄道がスタートすることになりました。
  ※参考文献6 齋藤晃著『蒸気機関車 200年史』(NTT出版株式会社 2007年)P35-53
  ※リヴァプール-マンチェスター鉄道の詳細については、次をご覧ください。
    →未来航路旅行記:「マンチェスター・ロンドン研修記08 リヴァプール-マンチェスター鉄道」


 こうしてみていくと、蒸気機関車と鉄道の開通について模範的な文章を書けば次のようになるでしょうか。
 「蒸気機関車の最初の発明者は、1804年にウェールズのペナデランでの走行に成功した
トレヴィシックである。その後何人かが蒸気機関車を製造したが、その中でスティーヴンソンは、1814年に彼自身最初の機関車を製造してその後改良を重ね、1825年に開通したストックトン・ダーリントン鉄道で実用的な蒸気機関車の走行に成功した。1830年には彼の蒸気機関車を使用してマンチェスター・リヴァプール間に旅客輸送と貨物輸送の両方を行う本格的鉄道が営業運転を始め、これをきっかけにイギリスは鉄道の時代を迎えた。」


 写真14-04・05 ガラスをたくさん取り入れた現在のリヴァプール・ライムストリート駅 (撮影日 10/11/13)

 地震の心配がないイギリスでは、ガラスをふんだんに取り入れた建築物が多く見られます。
「スティーヴンソン親子は勢力の伸長のいちじるしいビクトリア女王時代の中心人物であった。彼らの鉄道は、ビクトリア女王時代継続し発展する上できわめて重要な幹線であった。鉄道のすばらしい橋や高架橋だけでなく駅までもが、その時代の大いなる輝きを増す役割をしていた。駅の多くは、高いガラス屋根がついているということで、聖堂、すなわち進歩の神としばしば比較された。すべての可能性をつくりあげたのは、スティーブン親子の先見の明のおかげであった。」
 ※参考文献7 C.C.ドーマン著前田清志訳『スティーブンソンと蒸気機関車』P10


スティーブンソンのロケット号の特色     | このページの先頭へ |

 では最後に、プラモデルの写真を見ながら、ロケット号の特色をいくつか紹介します。


 写真14-06 ロケット号右側中央部 (撮影日 13/01/07)


 ストックトン・ダーリントン鉄道の際のロコモーション号は、古典的蒸気機関のイメージそのままに、ボイラーの上に二つのシリンダーが縦置きになっているものでした。
 ロケット号のシリンダーは、ボイラの横に斜め30度装着され、コネクティング・ロッド(中央の銀色の棒)によって直接に動輪に伝えらています。  ただし、このシリンダーの装着の方法では、時速40km以上をとなったときに共振が発生してしまい、最悪脱線の危険性がありました。このためこのあとの改良によって、次第に水平シリンダーとなっていきます。その点では、トレヴィシックの発想は最初から理想的なシリンダーの置き方でした。

 トレヴィシックの機関車は、燃焼室と煙突が同じ側にありました。燃焼室で得た熱をより多く水に伝えて蒸気を作るために、U字型のボイラーを備えたためでした。ロケット号は、燃焼室は写真左、煙突は右です。スティーヴンソンの発案で、ボイラーの管を細分化し、25本の細い管として表面積を増やしてより熱効率がよくなるような工夫をしました。

 動輪は一つです。カップリング・ロッド(車輪と車輪を結ぶロッド)はありません。これは、重い貨物車よりも軽い旅客車を牽引するため、牽引力より自重を軽くして、速度を得るための選択です。ただし、動輪が前にあるため、機関車全体の重心から見ると、動輪の空転が起きるのが欠点でした。

 車輪にはフランジがついており、現在の鉄道と同じとなっています。レールにも枕木がつけられています。ただし、レールの形は現在のものとは異なっています。


 写真14-07・08・09・10 ロケット号各部 (撮影日 13/01/07)


 ロケット号の発展型の機関車が、プラネット号です。リヴァプール-マンチェスター鉄道の開業には間に合いませんでしたが、そのあとで投入され、主役として活躍しました。
 後輪が動輪となり、ロケット号の前動輪空転の欠点を解消しました。
 ピストンは前に移り、保温のため煙室の内部に水平に装着されました。この方式は、その後の蒸気機関車の定番となりました。


 写真14-11 マンチェスターの科学産業博物館(MOSI)のプラネット号模型 (撮影日 10/11/13)


 上の地図は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、マンチェスターの旧リヴァプール・ロード駅の衛星写真です。
 現在は、科学産業博物館(MOSI)の一部となっています。


 【ジョージ・スティーヴンソンの蒸気機関車 参考文献一覧】
  このページの記述には、主に次の書物・論文を参考にしました。

木村靖二他著『詳説世界史』(山川出版 2012年3月文部科学省検定済 教科書センター用見本)

尾形勇他著『世界史B』(東京書籍 2012年3月文部科学省検定済 教科書センター用見本)
木畑洋一・松本宣郎他著『世界史B』(実教出版 2012年3月文部科学省検定済 教科書センター用見本)
川北稔他著『新詳世界史B』(帝国書院 2012年3月文部科学省検定済 教科書センター用見本)
クリスティアン・ウォルマー著安原和見・須川綾子訳『世界鉄道史 血と鉄と金の世界変革』(河出書房新社 2012年)
 

齋藤晃著『蒸気機関車 200年史』(NTT出版株式会社 2007年) 

 

C.C.ドーマン著前田清志訳『スティーブンソンと蒸気機関車』玉川大学出版部 1992年)