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 28 趣味はサッカー4 鹿島スタジアム     03/08/02     

 4月20日の試合で左足首を負傷して以来、サッカーができる状態には戻っていない。最初の2ヶ月間は、歩くのも不自由な状態で、特に階段の上り下りは苦痛そのものであった。
 しかし、無理せずにひたすら回復に勤めた結果、ケガから3カ月を経た7月の下旬、ようやく走れる状態に戻った。現在は普通に走ることから、軽いダッシュ、左右へのフットワークなど、復帰へ向けて徐々に体慣らしをしている。この調子なら、多分9月中には、復帰できるような気がする。
 自分がプレーできない鬱憤を晴らすべく、7月27日の日曜日に、念願かなってついに鹿島スタジアム(正式には茨城県立カシマサッカースタジアム)へいって鹿島アントラーズの試合を観戦してきた。

 「念願かなってついに」というのは、私たちは、つまり、私と次男Yは、1993年のJリーグ開幕以来、ずっと鹿島アントラーズのサポーターであり、Jリーグ開幕11年目の今年になって、ついに念願かなって本拠地に出かけたと言うわけである。

 岐阜に住んでいる人間が、なぜ鹿島アントラーズのサポーターになったか?


 1993年の息子達。長男はシャチのマークの名古屋グランパスの帽子。
次男は、同じように見えて実はマークが違うアントラーズの帽子。下は拡大したアントラーズの鹿のマーク。ぼやけて見えねー。
 


 野球にしろ、サッカーにしろ、どのチームが好きになるかは、そもそも理屈など説明できないものだが、しいていえば、鹿島アントラーズの母体となった住友金属サッカーチームの話に感動したせいである。
 
 Jリーグ発足時のJ1の10チームは、読売や横浜を筆頭にして、それまでの日本リーグや天皇杯日本選手権で活躍したチームが中心だった。
 しかし、住友金属はそういうサッカー界の中心的なチームでなかったにもかかわらず、企業と地域(茨城県と鹿島町)の夢を実現させるべく、両者が一体となって果敢な挑戦をして誕生したチームなのである。
 そして、この時、以前の実業団のチームを母体にプロのチーム作り上げた中心人物が、今の日本代表チームの監督、ほかならぬジーコその人であった。
 93年のJリーグ開幕の時、小4・小2・保育園年少組だった3人の息子達は、それぞtれ、違ったチームを応援することになった、
 長男Kは地元のチームという理由から名古屋グランパスを、三男Yは、飛行機のパイロットのデザインが気に入って横浜フリューゲルスを応援することに決めた。
 そして、父の話に一番耳を傾ける傾向にあった次男Yは、父と同じ鹿島アントラーズのサポーターとなったのである。 


 「トーチャン、アントラーズの試合を見に行きたい。」と小さい頃から、せがんだ次男に、「あのな、鹿島というところは、う〜んと遠いところだから、もっと大きくなってから連れて行ってやる。」と言い続けてきたが、高校2年生になった次男から、あらためて今年こそはと言われたのを機会に、ついに鹿島行きを決断した。

 とはいうものの、鹿島はやはり遠い。 
 岐阜県人から見ると、北関東の茨城県などと言うところは、よほどでないと行く機会もなく、地理上の知識としても未知の所である。東京のもっと向こうという感じで、どこを通っていくのか、地歴公民科の教師でも、詳しい経路は諳んじては言えない。
 2003年3月の本県の高校入試の社会科の問題で、「サッカーワールドカップの鹿島会場があった茨城県の位置を地図上で塗りつぶしなさい」という問題があったが、あまりいいできではなかったと聞いていtる。さもありなん。


 右の地図を見ていただきたい。
 東京から鹿島までは、

  • 総武本線で    東京→千葉→佐倉

  • 成田線で     佐倉→成田→佐原

  • 鹿島線で     佐原→鹿島神宮

  • 鹿島臨海鉄道で 鹿島神宮→鹿島スタジアム

 と行かねばならない。普通列車で行くと最低2度の乗り換えが必要である。

 東京からの距離だけでも約120q、JR・鹿島臨海鉄道の料金は、1890円もかかるのである。
 新東京国際空港へ分岐する成田までは幹線であるが、それから先のJR線は、電化区間であるが単線であり、のどかなローカル線の旅を経験した。

 佐原からJR佐原線へ入ると、電車はまもなく利根川を渡り、潮来(いたこ)に着く。
 古くは橋幸夫の歌に登場した水郷の町である。

 JR線は、鹿島神宮駅までで、そこからは第3セクターの鹿島臨海鉄道に乗り換える。
 北浦をわたる大鉄橋を通過するとすぐ鹿島スタジアムが見えてくる。


 北浦を渡る鉄橋上から。はるかに鹿島臨海工業地帯の煙突が見える。 

 鹿島スタジアム。2002年のサッカーワールドカップの会場となり、観客席も増やされた。


 「とーさん、ついに来た。」
 「うん、ついに来たな、鹿島スタジアムだ。」
 鹿島臨海鉄道鹿島スタジアム駅を降りると、正面に、鹿島 スタジアムの威容が飛び込んできた。

 チケットは、もちろんインターネットで手に入れた。鹿島アントラーズの公式サイトから申し込むと、eメールアドレスを聞かれる。確認メールさえ受信できれば、あとはカードで支払だけである。
 
 ただ一つ気がかりなことがあった。
  申し込みが遅かったため、正面スタンドとは反対のバックスタンド側のしかも2階席しか空いていなかったのである。料金は大人一人2500円と安かったが、すごく上の方の席からの観戦になると覚悟していた。

 東京ドームなどの野球観戦でも、遠い高い所から見たことはあるが、野球の場合は、視力があまりよくない私には、ボールがよく見えなくて閉口した。
 こんども、そんなことにならなければいいが、と心配していた。


スタジアムの横には、鹿島アントラーズの恩人ジーコの像が。上機嫌の次男Y。

試合開始前の応援。鹿島側のスタンドには、どこかの企業から寄付されたと思われる巨大な旗が登場。


 バックスタンド2階席から見たスタジアム内。あまりうまくない4枚の合成写真。

 

 しかし、その心配は、試合が始まると気にしなくてよくなった。確かに、顔を確かめてあれが中田だ、あれが小笠原だという楽しみはない。

 しかし、反対にピッチ全体が真下に見えるということは、サッカーを知っている私たちにしてみれば、選手の展開やパス廻しの様子を手に取るように見ることができるということを意味する。
 あそこのスペースにパスが行くぞと思っているところへボールが渡り、チャンスの場面ができあがっていくのを見ることができるのは感動的である。

 アップが中心で、選手の展開が分からないTVの中継とは雲泥の差と言っても過言ではない。
 TVと同じなら、なにもスタジアムに行くことはない。わざわざスタジアムに来るということは、やはりちゃんとその意味を感じることができるということなのである。


自分の席からはこんな感じで試合が見える。

スコアー。残念ながら敗北。


 試合の方はと言うと、この日は、2003年の第一ステージの最終節の一つ前の試合で、勝てばアントラーズもまだ優勝戦線に残れると言う大事なゲームだった。しかし、結果は0−1で敗北だった。スコアー的には惜敗だが、内容的には完敗だった。

 相手のセレッソ大阪と比べると、選手全体がチャンスをつくる動きをしていない。
 あまり動かないままでボール廻しだけしていても、サッカーではチャンスは生まれない。鹿島は、「うまいボール廻し」に終始してしまった。サポーターとしては、いささかいらいらしたゲームだった。(但し、このような観戦評が言えるのも、まあ、TVではなくスタジアムに来てのことだ。)

 これで、アントラーズはこの3試合、2敗1分け。後半の第2ステージに向けて、相当な覚悟で立て直しをしないと、優勝などはほど遠い。残念、無念。


 

 TVで有名なゴール横の宣伝の文字。この日の私たちの席はバックスタンド側のため、こちらから見ると、宣伝文字は何がなんだか分からない。試しに画像をひっくり返したが、やはり分からなかった。

 観客の衣装をご覧ください。みんな長袖の上着を着ています。この日岐阜や東京は暑かったけど、鹿島は涼しかった。太平洋からの冷たい空気というものを実感した夜となった。涼しい日が続く今年の夏、米は大丈夫だろうか。  


「おとーさん、今日の試合は面白くなかったから、また来てみたいなー。」
「応援の雰囲気といい、全部が見られる感じといい、何回も来たくなる気がする。」

 この日の観客は、20754人。試合に負けたのは、かえすがえすも残念だったが、2500円の価値はあった観戦経験であった。
 いや、大事なことを忘れていた。
 岐阜羽島駅駐車場代金、新幹線料金、東京−鹿島スタジアムの汽車賃、千葉のカプセルホテルの宿泊料、そして入場料・・・。
 次男Yよ、2日間で二人で、58000円もつかってしまったぞ。
 こりゃ、そう簡単には来られない。(*_*) 


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