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 27 少年時代・学生時代5  政治運動     03/04/26    

 3月20日にはじまったイラク戦争は、開戦から21日目に、米英軍が首都バグダッドを制圧し、一応の終結を見た。
 途中、ペルシア湾岸からバグダッドに向けて前進するアメリカ軍戦車部隊へ伸びる補給線が、イラク軍ゲリラ等に襲われて、アメリカ軍補給部隊の女性兵士が捕虜となった3月下旬頃は、ひょっとしたらこの戦争は長引くぞという感じがしたが、 その「期待」は、その後のイラク軍のあっけない弱さに、簡単に消え失せてしまった。

 もちろん、私の「期待」とは、戦いが伸びて、人がたくさん死ぬことではない。アメリカの野望が、そう簡単には実現されないことが、わたしの「期待」だったのである。
 そもそもこの戦争において、アメリカは、自らが正義であることの理由を、どこで証明するのだろうか。大量破壊兵器の存在は、いまだに確認されていない。もちろん、フセイン政権とイスラム過激派テロとの明確な因果関係も明らかにされていない。

 その証拠に、世界各地で反戦の声が高まり、アメリカ・ニューヨークのタイムズスクエアーでは、その日のうちに市民による抗議行動が始まった。
 日本国内でも、いろいろな団体による反戦やアメリカへの抗議の集会やデモが行われた。
 私は、ただやみくもに「平和が理想」と思っているわけではない。アメリカが何を考えているか、日本が何をすべきか。
 これについては、また、「目から鱗」で書きたいと思う。

 大学1年生になったばかりの長男に電話で聞いてみた。
「きみの大学では、イラク反戦集会とかは開かれているのか?」
 今から、30年前の春、私は大学1年生だった。
 世代に共通する歴史というのがあるとするなら、自分たちの世代は、「政治運動の世代」ではない。60年安保闘争は、小学校へ上がる前の話、大学紛争も中学時代の話、東大安田講堂の攻防戦は、中学3年生になる直前の話だった。世界が、ベトナム反戦で盛り上がったのも、中学生の時である。

 それらを冷静に見て育ってしまった私たちの世代は、俗に、「優しさの世代」とのちにいわれようになる。昭和40年代前半からフォークソングによる「時代への抵抗」が盛り上がったが、私たちが大学に入った年に、「神田川」が流行するに及んで、私生活的な叙情派フォークが中心となったしまった。
 そんな中で、大学の文学部史学科の中では、学問的には、なんの疑いもなくマルクス・レーニン主義が主流であり、先輩に勧められて、唯物史観の難しい理論を徹底的に学ばされたし、また、青木書店の本をずいぶん買い込んだ。
 
 1年生の5月の頃だったと思う。
 クラスごとの英語の授業が終わった後で、自治会の役員やその他、クラスの政治的なリーダー達から、街頭デモに出かける提案があった。
 すぐに、クラス討論会(省略して、クラ討といっていて気がする)があり、当時の内閣の施策に抗議する街頭デモに出かけることに決まった。
 首相は、あの田中角栄。彼が野党の反対を押し切って強行採決しようとしていたのは、「小選挙区制法案」だった。
 大学の政治運動家たちの主流は、反代々木系(反日本共産党系)であり、小選挙区制によって、野党の日本社会党や日本共産党が議席を減らすことには、直接の利害があるわけではなかった。しかし、田中内閣の提案する小選挙区制法案をつぶすことは、自由民主党の横暴を許すなという点で、誰もが結集できることだった。
 私たちのクラスも、他のクラスと一緒になって、街頭デモに繰り出した。
 他の大学の学生も含めて1000人か2000人程度の小規模なものだったと思う。
 当時は市電が走っていた河原町通りから祇園に向けての行進だったと記憶している。

 日がよすぎて暑かったこと、あまり大人数でないためシュプレヒコールの声も何となく威勢がないものになってわびしかったこと、もちろん学生の行動に一般市民が賛同して加わると言うことなども全くなく、デモ隊は、最後まで秩序を保って行動し解散したこと、それ以外にもう一つ記憶に残っていることある。
 それは、警備についた府警機動隊の隊員さん方の屈強なこと。
 4列か5列で進むデモ隊の要所要所には、ちゃんとヘルメットをかぶった機動隊員が警備についていた。デモ隊が「暴徒」化した場合の備えである。
 私の真横には、身長180pはゆうに超える隊員が随行し、私たちが少しでも道の中央に出ようものなら、すかさず押し戻すというまじめな警備ぶりだった。何度か押されたのを覚えている。

 大学生時代は、極端にいえば、なんでも反対と言っていればそれで存在感のある気楽な時期である。私の場合、このあとも、授業料値上げ反対はもちろん、狭山差別裁判反対、筑波大学設置法案反対など、今の若い方には相当な時間をかけて説明しないと分からないマイナーなことまで、いろいろ反対し、大学のストライキにも加担した。
 それらの学生達の抵抗は、社会を動かすと言う点では、全く影響を与えなかったことは事実である。
 しかし、その中で、新左翼運動はもちろん、ソ連型社会主義に対しても大きな疑問を感じ、現実的な考えや行動において、自分の中に新しい真理が芽生えていったことも事実である。

「とうさん、うちの大学では、新入生にカルト的集団に入らないよう、徹底して注意がなされている。」
「カルト的って、そりゃ、オーム真理教(今はアレフと改正、こんなこと書かなくてもいいか、つい新聞のまね)に入ってくれては困るけど、反戦の集会とかは、カルトではないぞ。
 これだけイラク戦争に対する反対の声が多いのだ、大学の中で、反戦集会ぐらいあるだろう。」
「いや、構内では、そういう集会は禁止だから。」
「禁止?そうなのか。」

 そいうえば、その昔、筑波大学設置法案に反対した理由は、新しい大学で敷かれるそういう管理体制の強化に対してだった。
 あの時、もっと真剣に反対しておくのだった。
 我が息子は、どこで政治を感じていくのだろうか。


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