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 26 少年時代・学生時代4  名鉄電車2    03/02/01

 名鉄電車の話を続けたい。
 「名鉄電車1」で書いたように、名古屋鉄道という会社は、博物館明治村・日本モンキーセンター、和歌山県串本海中センター、沖縄県石垣島の黒島マリンビレッジなど、一時は、本業の鉄道から、文化・観光・レジャー産業へと大きく守備範囲を広げた。
 これは、その昔、土川元夫という社長さんが、「文化事業は赤字でも言い。鉄道事業に役立っていれば。」という発想から、文化を含んだ観光・レジャー産業へ積極的に進出した結果である。
 純粋な観光産業として、直営と傘下のものも含めて多数のホテルもグループに加わった。

 ところが、バブル以後のレジャー産業の衰退に加えて、本業の鉄道の方も苦しい状態に追い込まれてしまったのである。
 名古屋鉄道は、旅客営業キロ数は約500qで、近畿日本鉄道に次いで全国2位である。
 しかし、沿線の人口密度はそれほど多くはなく、トップクラスの東京急行電鉄や小田急電鉄の僅か7分の1でしかない。

 名古屋岐阜圏のすみずみにまで線路網を伸ばした結果、かつての国鉄と同じように、赤字体質になってしまったのだ。
 もっとも、地方の支線だけではなく、肝心の岐阜−名古屋−豊橋の名古屋鉄道本線も、調子よくない。とくに岐阜名古屋間は、JR東海の誕生以来、苦戦の連続である。かくいう私も、この10年、名古屋に行くのに名鉄電車に乗ったことは一度もない。(-_-;)
 
 このような名鉄電車の苦境を救う救世主として期待されているのが、2005年に開港する、知多半島常滑沖の中部国際空港である。
 現在の常滑線から分岐した名鉄の新線は、新国際空港へアクセスする唯一の鉄道となる。

 名鉄は、新型車両を11編成も新造し、アクセス路線建設と合わせて400億円の投資をして、起死回生の策に臨む。現在の名古屋空港から中部国際空港へと変われば、われわれ岐阜市民も、これまで自動車で行っていた空港へ、名鉄電車を利用して行くことになるだろう。
 はたして、挽回はなるか


 名鉄揖斐線。雪をかぶった山を背景に尻毛橋梁東の土手上を走る1両編成。 

 忠節駅をでると早田交差点で路面電車となる。岐阜市内の繁華街を抜けて、名鉄新岐阜駅前、JR岐阜駅前まで続く。
名鉄の改革案では、2004年度内に廃線にするという。柳ヶ瀬で宴会の時はいつも利用する揖斐線、困る困る。
 

 忠節駅の待避線で休む、名鉄カラーのスターレットに塗装された市内線専用電車。成人するまで市街地に住んでいた私は、高校生の時は通学で世話になった。 


 大学4年の時、人事課から内定をもらったあと、入社したら勤務がどうなるかの説明を受けた。
 人事係長曰く。






「あなたがたは、もちろん、名古屋鉄道株式会社の将来を担う大卒幹部社員です。当社には、たくさんの高校卒の社員も入社してきますが、あなたがたは、そういう人たちのリーダーとして、将来名鉄の幹部になってもらうことになるでしょう。
 だから、会社は、そういうつもりであなた方を育てていきます。つまり、将来の幹部候補だからといって、決して甘やかしたりはしません。いや、幹部候補だからこそ、高卒社員とは違っていろいろなことを学んでもらはなければなりません。
 4月入社したら、まず所定の新入社員研修を受けた後、半年後に、わが名古屋鉄道の原点を経験してもらいます。わかりますか。
 全員、電車の車掌をやってもらいます。電鉄会社ですから、お客さんを運ぶことが、会社の原点です。運転士は法律上、そう簡単にはなれませんから、車掌をやってもらいます。
 そこで、いろいろ経験してもらいます。あまり大きな声で言えませんが、失敗もしてもらいます。
 先日も、今年入社の新入社員で、ホームと反対側の電車の扉を開けてしまって、危うく乗客を線路へ落としそうになった新米がいました。(あぶねー)
 その苦労を数ヶ月経験してもらったあと、今度は、全国の支店・子会社・傘下の会社などに言ってもらって、全員で名鉄のすべてを経験してもらいます。
 あなたがたは、名鉄といったら名古屋中心の会社と思っているでしょうが、全国にたくさんの会社があります。しかも、実は遠いところに会社があります。
 北は、北海道の網走と根室にバスの子会社あります。名古屋や岐阜と同じ赤い色のバスが走っています。
 南は、サイパン島にホテルがあります。
 網走・根室からサイパン島まで、全国に散らばって修行してきてもらいます。そこで有能な働きをした人こそが、真の幹部社員候補となるのです。」

 係長の「網走・根室からサイパン島まで」という得意げの台詞が、今でも耳に残っている。

 この話は、日本史の授業で何度か登場させた。私の定番の「たとえ話」の一つだった。

 のちに教え子で京都大学経済学部からJR西日本に入社したM君の話では、JR西日本も、車掌や駅での勤務等、同じように「原点」を経験させる教育を実施しているとのことであった。

 「会社やいろいろな組織を硬直化せずに発展・世代交代させていくには、将来の幹部社員に「原点」を経験させると言うことが、当然ながら、必須の条件である。」

 この普遍の原理をどの授業と関連付けて話したのかというと、藤原道長・頼通の摂関家の政治の所である。
 摂関政治の特色として、次のような説明がなされている。
「政治の運営は、摂関政治のもとでも天皇が太政官を通じて中央・地方の役人を指揮し、全国を統一的に支配する形をとったが、しだいに先例や儀式を重んじる形式的なものとなり、宮廷では年中牛耳が発達した。その反面、地方の政治は国司にゆだねられ、朝廷が国政に関して積極的な施策をおこなうことはほとんどみられなくなった。」
 ※石井進他著『詳説日本史』(山川出版 P62)

 992年生まれの藤原頼通は、父道長の威光もあって、元服の翌年1005年に13歳で右近衛少将となり、地方官など全く経験せずに、やがて参議(今の大臣)に出世していく。

 摂関政治の特色である先例や形式重視、地方政治への消極性は、一般的には組織の持つ硬直化を示している。
 そうならないためにどうしたらいいか。それを考えさせるための挿話として、名鉄の係長の話を授業でしたわけである。 






最近の研究では、摂関政治における上述の面については、それほど否定的ではない見解が示されている。
「(摂関政治は)諸国からの申請をうけて対処する受け身の政治であり、また先例のみを重視していて、積極的なヴィジョンがなかったと否定的に評価されることも多い。確かに地方なり国家なりを積極的に改革しようとしていないが、先例重視は、今日のいわゆるお役所政治でも同じで、官僚制が成熟した結果でもある。その中で、受領からの申請の審議が陣定(註 じんのさだめ 公卿の会議)の重要な部分だったことは、当時なりの国家を考えるうえで、一定の評価をすべきである。」

 ※大津透著『日本の歴史06 道長と宮廷生活』講談社2001年P83)


 網走沖の流氷。1983年3月。

 名鉄電車が、いつのまにか、摂関政治になってしまった。 
 そろそろ、終わりにしなければならない。

 大学4年生の時に聞いた人事係長の「根室や網走にも赤いバス」というのが、心に残っていて、新婚旅行のついで(?)に、根室にも網走にも行ってみた。
 名鉄色のバスは、ちゃんと根室にも網走にも走っていた。
 
 だから、どうということは何もない。
 このエッセーのタイトルは、「少年時代・学生時代」である。あの話を聞いてから、もう26年が過ぎた。


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