2012-09
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138 2012年06月11日(月) 同窓会、24年前の教え子と再会しました  12/06/13一部改訂    

 2012年6月10日(日)に、24年前の高校の教え子の同窓会に招待されて、都ホテルへ行ってきました。、
 教師をやっていて、同窓会に呼ばれるほど、
嬉しいこと恥ずかしいことはありません。

 
嬉しいことというのは、いうまでもなくおわかりいただけると思いますが、昔教えた生徒諸君がその後もさらに刻苦勉励し、幾多の試練を乗り越えて、立派な姿になられたことを見ることができることは、本当に嬉しいことです。24年前、まだ若い18歳だった少年少女は、42歳の立派な男女になられました。

 
恥ずかしいと思う気持ちは、生徒のみなさんお立場からは、ちょっと理解しづらいかもしれません。生徒のみなさんに、「あのころは、若気のいたりで・・・」といういろいろな失敗があると同時に、若い教員だった私にも、今から思うと、とんでもない大失敗の数々があるのです。生徒の立場では、若き青少年から大人になる途中の出来事ですから、いくら失敗があっても大目に見てもらえるでしょう。
 しかし、私は、いくら30代前半の「若手教師」だったとはいえ、教師は教師です。職歴35年目の今から思うと、あれほどのつたない教師に、よくぞついてきてくれた、よくぞ「教師と立てていて」くれたという感じで、赤面の至りというか、穴があったら入りたいというか、それが「恥ずかしい」の気持ちの本音です。

 まあ、そういうことも水に流して、同窓会に招待されるということが、逆に言えば、大変嬉しいことで、本当に感謝です。 


 写真-01・02 同窓会会長と同窓生代表の挨拶 (撮影日 12/06/10)

 会長は元岐阜市副市長もされた弁護士の森川様、同窓生代表は現役の古田知事さんです。
 招かれたのは、同窓会といっても、○○年卒3年○組とかの同窓会ではありません。この学校の同窓会総会です。私が昭和63年度に3年生のHR担任だった学年が、今年の総会の「幹事学年」のひとつに当たったので、多くの卒業生が結集し、そこに招待されたというわけです。
 学校を挙げての同窓会ですから、総合計では600人弱の出席者があり、
最高齢者は昭和13年卒(1938年、盧溝橋事件の翌年)の方です。もちろん、戦前の話で、この学校の前身の旧制中学校時代の卒業生です。大正10年頃のお生まれで、90歳を越えておられます。
 私のテーブルでは、この高校の前身の高等女学校を昭和14年に卒業された女性の隣に座らせていただき、いろいろお話しをうかがうことができました。教え子との再会とは別に、大先輩のお話をうかがうことができて、とても有意義な時間でした。
 


 校長先生の説明では、来年2013年に140周年を迎えるとのことでした。それに向けて、新校舎の建築や旧校舎の解体、校地内の整備がほぼ終わり、現在は、私や教え子が過ごした「昭和から平成に変わる時代」とはすっかり変わった新しい学校となっているそうです。 


 写真03-03  昭和62年の学校 左端は長良川の堤防と河川敷        (撮影日 1987年のある日) 
 1987(昭和62)年の航空写真。この時は、私は2年10組の担任でした。 

 上の写真は、国土交通省の「国土情報ウェブマッピングシステム」の「カラー空中写真閲覧」の航空写真です。1987(昭和62)年のものです。サイトはこちらです。 → http://w3land.mlit.go.jp/WebGIS/index.html


 上の航空写真は、Google から正式にAPIキーを取得して挿入した、最近の岐阜市大縄場周辺の地図です。
 新しい校舎はできていますが、まだその右側に古い校舎が残っています。建設途上の貴重な写真です。校庭には、クレーンでしょうか、重機が何台か見られます。体育館はまだ昭和48年当時のものです。しかし、現在ではこれも新しく建て変わっています。


 写真-04 古い校舎 岐阜駅前、岐阜シティ・タワー43の最上階からの撮影です(撮影日 08/01/15)


 写真-05 新しい校舎 体育館は建設中 岐阜シティ・タワー43の最上階からの撮影(撮影日 11/09/18)

 古い校舎は、学校建築としては常識的な普通の横長の建物でしたが、新しい校舎は、3つに分かれたしかも古い校舎とは向きが微妙に異なる建築となっています。この理由は、そもそも古い校舎の特殊性を是正することにありました。
 この学校は背景の長良川堤防に沿った校地と建物の配置であったため、旧校舎の向きは、通常の南向きではなく、東南側を向いていました。このため、この校舎は、午前中に長く太陽光が差し込み、5月から9月は大変暑い環境となっていました。それを通常の南向きにして、普通の環境に戻すため、写真のような校舎配置となりました。結果的に斬新なデザインとなったのです。
 


 全体の同窓会が終わった後、学年別の懇親会が設定されており、そこでは、旧担任として、挨拶の機会をもらいました。
「みなさんこんにちは。本日はお招きをいただいてありがとうございます。
 今日みなさんと久しぶりに再会するために、昨日予習をしてきました。家で卒業アルバムを見て、当時の記憶を呼び戻したのです。

 一つ気がついたのは、女性の制服のスカートが長いんですね。膝下何センチかあります。みなさんが在校したのは、
昭和61年4月から平成元年3月までです。そのころは、今の女子高校生のように、短いスカートではなかったのです。
 私の記憶では、みんなさんが卒業してから6年目の平成6年4月に次の高校に転勤した時は、もうスカートは短くて、通常通りにするように指導をしていました。今のソフトバンクの犬のお父さんように、「スカートが短い」と叫んでいましたから、この変化はとても急激だったのですね。
 いつ、どういう理由でスカートは短くなっていたんでしょうか?よもやバブル景気の時代はスカートが長く、バブルがはじけたら短くなったというわけではないでしょうね。一度研究したいものです。
 余談ですが、みなさんの長いスカートを見ていても、特にそれで大笑いということはありません。子どもさんやお孫さんが見ても、大きな違和感はなくこれで大笑いということはありませんね。
 しかし、次の世代の場合は、ミニスカートにルーズソックスという出で立ちですから、これは卒業アルバムで見ると、もう大笑いですよ。噴飯ものです。そうは思いません?
 いい時代でしたね。みなさんの時は。」


 写真-06・07 左:修学旅行の写真、確かにスカートは長い 右:私は34歳、若い(卒業式後の記念写真) 

 「先生は昔と変わりませんね。」
といわれると、恥ずかしくなります。変わったか、変わっていないかといえば、実に大いに変わっています。34歳から58歳への変化ですから、そりゃ大きく変わっています。髪の毛もなくなり、今はすっかり出家状態です。(-_-;)
 
 しかし、それを「変わっていない」という元教え子のお世辞のうまさに、狼狽しつつも、感謝です。気分だけでも若々しく、昔も今も元気であれば、いつまでも同じイメージなのかもしれません。これこそ教員として大事にすべきことでしょう。
 ちなみに、右の写真の生徒さんは、無許可掲載のため誰か判別できなくしてありますが、昔もとてもチャーミングな娘さんでしたが、今はとても美形な女性に変身されています。
 


 「もう一つ気がついたことがあります。私のクラス、3年10組には、女生徒は21人いました。女生徒の観察ばかりで済みませんね。(^_^)
 全員の名前を確認すると、そのうち15人は、○○子さんです。ちゃんと「子」が付いているのです。この比率は、71%です。すごい高さです。いや、子が付いていない方がよくないというわけでは全然ありませんよ。ちなみに子が付いていない方は、「ちあき」さん、「ちほ」さん、「ちえ」さん、「みえ」さん、「ゆか」さん、そして「じゅん」さんです。みんな、発音しただけでちゃんと漢字が連想できるいい名前ばかりです。
 現在の小学校の先生の嘆きは、ご存じのことと思います。名前が奇抜すぎて読めないことなんですね。女子の名前にも、「子」の付く子はほとんどいません。
 昭和の時代はよかったですね。」

 最近の子どもの名前の付け方に「異論」を唱えておられる言語学者の工藤力男氏(元岐阜大学・成城大学教授)は、著書の中である社会学者の面白い分析結果を紹介されています。
   ※工藤力男著『かなしき日本語』(笠間書院 2009年)P147

 1980年代から90年代にかけて、新生女児の名前に○○子と付けられる比率はどんどん減少していきました。1994年には、新生女児のうち○○子と名前が付く子は、5%程になっていました。
 社会学者の金原克範氏は、ある程度の規模の集団に属する女性の○○子という名前ある比率と、学力の高い低いに有意な相関があると主張しました。具体的には、1992年3月の高校受験生(1976-75年生まれ)集団においては、○○子と名前が付く生徒の割合は、全体で40%以上でした。これをM県S市の私立高校の合格者で分析・比較すると、入試の学力水準(偏差値)が最も高い学校では、○○子集団が47.9%であったのに対して、学力水準の最も低い学校は35.4%に留まりました。もちろん、学力水準が中間の学校は、両者の中間の比率となりました。ちなみに、1970年代の入試まではこのような有為な相関は認められず、1980年代から現れてくるとのことです。
   ※金原克範著『”子“のつく名前の女の子は頭がいい』(洋泉社 1995年)P64-71
 
 えー、この分析から、どういう結論を導き出せばいいのでしょうか?
 少なくとも、「名前について、○○子と付ける保守的な両親の家庭は、いわゆる受験学力は高くできる家庭だった」という最低限のことはいえるでしょう。それ以外にも、いろいろ思いはめぐりますね。
 
「先生、いま42歳です。就職して、20年が過ぎました。もう半分は過ぎてしまいました。きっと残りも早いでしょうね。」
「うん。確かに数字的にはそうだね。
 しかし、20代、30代の10年間と、40代、50代の10年間は、また重みが違う。脅かして悪いが、これからは組織の中では、責任が高くなり、今まで以上に、辛いことや面白くないことも増える。部下や後輩の指導や面倒を見ることに費やす時間も多くなる。立場によっては、業界のこと、地域のこと、そして時には日本のことも考えなければならないこともあろう。なかなか大変なのだ。」
「それは先生の経験上のお話しですか。」
「そうだ。私のような単なる教師でも、この15年間は、そのまえの20年間の比べれば、比較しようもないいろいろな苦難を味わい、乗り越えなければならなかった。」
「そういうものなのですね。」

 また次に会える時は、私は、もう退職をしているかもしれない。
 あなた方は、さらに責任あるポジションにいて、一層の活躍をされていることでしょう。健康に気をつけて、ご自分と家族を大切に。 


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