2003-10
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060 2003年8月30日(土) 「誠実で優しい人でした」                 

 医療器具から伸びた幾筋ものコードが、義父の体につながっていて、オレンジ色で表示される数字や波形が刻々と変化しながら、彼の容態を知らせていました。

 クモ膜下出血によって、意識を失ってから1ヶ月.。2週間前までは、呼びかければ反応らしきものがあったのですが、お盆前後からは、ひたすら眠る人になりました。

「じいちゃんさー、何人兄弟?おかーさん、じいちゃんのお父さんお母さんって知っている?」
看病といっても、顔を見つめること以外何もすることもなく、自然と、とりとめのない会話が沈黙の重さを救う形になります。

「おかーさんは、じいちゃんのお母さん、つまりあなたのひいばあさんしか知らない。で兄弟は、4人。」
「じゃ、そのひいばあさん・ひいじいさんの夫婦の子孫は何人いるの?」
「さて、それは簡単には計算できんし。確か、こどもが4人、孫が10人、曾孫はざっと15人ぐらいかな。」
「二人から、15人にもなったわけだ。大繁盛だね。」
「まず、幸せな一族やわ。じいちゃんばあちゃんにも孫が6人いるから、あなたたちが、それぞれ3人ぐらい子ども作れば、また、大繁盛よ。」
まるで、ねずみ算です。

「繁盛しているには違いないけど、それぞれ、こども4人には、4人の配偶者がいて、孫10人にはそれぞれ10人の配偶者がいて、それぞれの血筋をひいてきているのだから、かってにひとりでに大繁盛したわけではない。」
「なるほど、曾孫が30人ぐらいにならないと大繁盛ではないのだ。」
これには、もう少し時間がかかります。

「それと、ひいじいさんといっても、君たちには、合計4人もいるのだから。」
「え、そうか。すると、ひいひいじいちゃんは8人、ひいひいひいじいちゃんは16人、ひいひいひいひい・・」
「こんなところで、2の累乗の勉強せんでよろしい。なにしろ、不思議なもんだ。生き物というのは。」
「ずーと前から、切れることなく続いているの?」
「当たり前だ。40億年前から続いている。」

「じいちゃんさ、仕事やめてから、もうずいぶんたっているんでしょ?」
「現役引退は、昭和57年3月。もう21年になる。」
「お葬式の弔問客もそうたくさんではないかもね。」
「借りる斎場とかの大きさも加減しないと。」
「寂しい葬式だっらどうするの?」
「どうするって、そういうときは、君たちが芸をして盛り上げるのだ。」

「今年になってから、自転車で転んで骨折って、それ以来悪いことばかりね。」
「それというのも、昔の骨折のせいだわね。」
「ずっと前、じいちゃんにレントゲン写真見せてもらった。シベリアの捕虜収容所で骨折したんだっけ。」
「そうさ、満州に兵隊に行っていて、ソ連軍の捕虜になって、作業中に骨折した。そういう話ももっと聞いておけばよかった。」
「私たち姉妹には、戦争の話は、あまりしーへなんだ。」
「女性にはね。そういうものかもしれない。わたしは、よく聞いた。」

 8月26日の火曜日の午前。
 時間がたつにつれて呼吸がしだいに不規則になり、ついには、見守る人間も息をこらすほど、間隔が長くなりました。
 12時20分、主治医が入ってきました。
「よく、がんばってみえますが、もう呼吸をする力はあまりありません。残念ですが、あまり長くはないと思います。」
 ひとつひとつの呼吸の間隔が、何秒から十何秒へと、確実に長くなっていきます。
 脈拍も落ち始めて、30台になってしまいました。

 「もう、ここらでやめとくは」
とでも言いたそうに、心なしか、それまでよりも少し大きな息をしたあと、長い沈黙が続き、その沈黙は、とうとう永遠のものとなりました。
 12時34分、心拍を示すオレンジの波形が、ついに1本の線となり、義父はもどらぬ人となりました。大正10年(1921年)10月3日生まれ、81年と11ヶ月弱の人生でした。

 義父母の夫婦には、私の妻とその姉と、子どもは娘二人です。同居人はいません。
 義兄と私、そして親戚一同の手で、葬儀をとりおこないました。

「すごい人だったね。」
「大きな斎場でよかった。誰、人が来なんだらどうしようって心配した人は。」
「じいちゃんの人徳だよ。」
「お香典だけど、じいちゃんの直接の知り合いのかたからいただいた分が、私たちの4人の関係の方からの分の、なんと3倍も集まった。」
「3倍も・・・・。」
悪い足を引きずりながら、入院の直前まであちこち出かけていった義父でした。
「どんなもんだい」という得意そうな顔が目に浮かびそうです。
「義理を欠いたらいかんぞ。」
義父の戒めが聞こえそうです。

「8月15日の終戦の日は、もちろん玉音放送なんか聞ける状態ではなくて、満州国とソ連の国境にある孫呉と言う町の近くで、ソ連軍戦車隊と激戦中でした。」

戦友のYさんが、ついこの間のことのように語ってくれました。Yさんは、当時の階級で兵長だった義父のもとで、一等兵として同じ釜の飯を食った戦友で、葬儀に静岡県から駆けつけてくれた方です。戦友も高齢となり、来ていただけたのは、彼おひとりでした。

「捕虜収容所から駅まででかけて、貨車に丸太を積んでいる時でした。ロープがはずれたのか、丸太が落ちてきて、兵長の足はその下敷きになりました。ひどい複雑骨折でした。」
「今なら手術で何とかなったでしょうにね。」
「いやあ、そのころは、病院に行ったって、薬なんかもろくにないんですから。よく頑張られたと思いますよ。」

「あのころの軍隊って、上官というのは恐かったんじゃないですか。」
「いやいや、兵長は、違いましたよ。殴った所なんか見たことがないな。」
「そうなんですか。私たちから見ているとちょっと頑固なところもある義父でしたが・・。」
「いえ、大変誠実な優しい人でした。」

 一夏の闘病、そして一夏の看病。
 何も語らない義父の傍らで、私たちは、いろいろなことを語り合いました。まるで、義父が最後にプレゼントしてくれたような貴重な時間でした。

 長い長い夏が終わりました。   


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