自由民権・日露戦争2
<解説編>

712 慶応三田校舎隣の店舗の「学問のすゝめ」とはどんな商品?                 問題編へ

下の左の写真は左の端に東門の煉瓦色が写っています。そしてグレーの建物がその商品を売る店舗の全景です。
右の写真は、店舗の正面左側から、商品「学問のすゝめ」の宣伝の部分のアップです。 


 

 さて、問題の商品ですが、下は店舗のディスプレイの写真です。 


 正解は、「学問のすゝめ」という名前の最中(もなか)です。

 店舗の名前は、文銭堂(ぶんせんどう)本舗三田店といいます。

 文銭堂は、2003年11月には創業55周年を迎える老舗の和菓子製造会社で、ここと新橋に店舗があります。 最中をはじめ、いろいろなオリジナルの和菓子を製造・販売しています。

 この「学問のすゝめ」は、同社の自慢の最中の一つで、餡(あん)と最中の皮が別々に入っている「手付け最中」です。

 皮のほうはとても香ばしく、作りたてのパリッとした食感がいい感じです。
 添加物を使っていない餡は、甘さは少し抑えめで、豆の本来の風味を生かす仕立てとなっています。

 この手付け最中は慶応大学の新聞にも、「三田名物」と紹介されています。
 もちろん、お店に電話すれば、宅急便コレクト(代引き引き換え)で購入できます。8個入りの価格は1300円、送料は900円です。
 ※文銭堂三田店 03−3451−6604
  
御菓子司 文銭堂本舗のウェブサイトはこちらです。→http://www.bunsendo-hompo.com
   写真は文銭堂本舗の担当のTさんの許可を得て掲載しています。ありがとうございました。

 このクイズですが、高校なら、福沢の導入に使えます。場合によっては、「三田校舎の隣の文銭堂本舗で売られている三田土産の名物の御菓子の名前は?」と逆に聞くのもいいかと思います。

 さて、もちろん本題は、福沢諭吉と「学問のすゝめ」です。

 福沢というと「学問のすゝめ」とすぐに結びつきますが、2002年2月にあった、文部科学省(国立教育政策研究所)の教育課程実施状況調査では、この結びつきが最近の児童には期待できなくなり、学力低下の指標の一つになってしまいました。(調査結果は、2002年12月17日公表)

 というのは、小学校6年生に対する問題で、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずといへり」という文章に関係の深い人物はだれか、という質問がありました。

 この問題の正答率を、前回の実施(平成5年から7年度)と比較すると、前回の正答は76%でしたが、今回は、57%になり、19%も低下してしまったからです。

 ところで、この「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずといへり」ですが、有名なために、かえって誤解を招いている部分があるので、授業の際には、安易に扱えない代物です。

 たとえば、高校の教科書には、福沢諭吉が『学問のすゝめ』を著し、これが「新思想の啓蒙書としてさかんに読まれ、国民の思想を転換させるうえに大きな働きをした。」と書かれています。
 ※石井進他著『詳説日本史』(山川出版1999年)P247

 しかし、これがどのような意味を持った書物かは、つまり、人々の思想をどのような方向へ転換させたかは、書いてありません。

 生徒は、小学校以来、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずといへり」という有名なくだりは知っていますが、このくだりは、これだけ読めば、単純に「人間の平等」を訴えているものに思えてしまいます。

 しかし、実際には、福沢はかの有名なくだりに続けて、次のように書いています。

天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人皆同じ位にして、生れながら貴賎上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの者を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずして各ゝ安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるものあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや。その次第甚だ明らかなり。実語教に、人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なりとあり。されば賢人と愚人との別は、学ぶと学ばざるとに由って出来るものなり。また世の中にむつかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむつかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い心配する仕事はむつかしくして、手足を用いる力役はやすし。故に、医学、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、夥多の奉公人を召使う大百姓などは、身分重くして貴き者というべし。身分重くして貴ければ自ずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとに由ってその相違も出来たるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺に云く、天は富貴を人に与えずしてこれをその人の働きに与うるものなりと。されば前にも言える通り、人は生まれながらにして貴賎貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。

 この最後の部分が、福沢が本当に言いたかったことでしょう。
 つまり、本来貴賤上下の区別なく生まれた人間が、学問をしたかしなかったかによって、貴人・富人と貧人・下人に分かれていく、すなわち、学問こそが、人の人生を左右していくと言いたかったのです。

 そして、実学の奨励へと続けます。

「学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学も自ずから人の心を悦ばしめ随分調法なるものなれども、古来世間の儒者和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来漢学者に世帯持の上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人も稀なり。これがため心ある町人百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合の仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条は甚だ多し。地理学とは日本国中は勿論世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見てその働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行いを修め人に交わりこの世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取調べ、大抵の事は日本の仮名にて用を便じ、或いは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事に就きその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賎上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に士農工商各ゝその分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し家も独立し天下国家も独立すべきなり。 学問するには分限を知ること肝要なり。」

 この「学問のすゝめ」は、当時としては異例のベストセラーになりました。福沢自らが記すところによれば、初版は、その正版が20万部売れ、売れ筋の出版物にはつきものだった偽版の分も含めると、22万部ほど売れたと推定されます。

 当時の人口は、3500万ほどでしたから、160人に1人の割合で購入されたことになります。同じ比率で売れたとするなら、現在なら、80万部ほど売れたことになります。
 ※福沢諭吉著『学問のすゝめ』(岩波文庫第34刷改版)P177 小泉信三の解題より
 
 もうひとつ。
 日本の私立大学と言えば、なんと言っても慶應義塾と早稲田です。
 この2大学は、スポーツをはじめ、いろいろな部分で良いライバル関係にあります。
 そのせいか、高校生諸君は、それぞれの創設者である、福沢諭吉と大隈重信まで、ライバル関係にあったと誤解しがちです。

 時は1880年代初め、大隈重信は、当時大蔵卿(今の財務大臣)として、政権の中枢にありました。
 かれは、長州出身の伊藤博文らとは異なって、国会早期開設論者でした。実はその活動を政治思想に面で支えていたのが、福沢諭吉でした。福沢はイギリス流の穏健議会主義にもとづく憲法草案「私擬憲法案」(交旬社作成)を提案し、イギリス流の二大政党制を目指していました。
  ※佐々木克著『集英社版日本の歴史P 日本近代の出発』(集英社1992年)P134〜140
  ※坂野潤治「政治的自由主義の挫折−「英国化」としての「欧化」とその変質」
    『岩波講座日本通史第17巻近代』(岩波書店1997年)P274
 
 高校の日本史の教科書は、このときの大隈と福沢の関係までは、詳述していません。
  ※石井進他著『詳説日本史』(山川出版1999年)P254 

 ところが、1881年10月、伊藤博文・黒田清隆(薩摩出身)らが劣勢を挽回する政変を敢行。大隈重信は罷免され、ここに、大隈・福沢の目指す議会政治の路線は敗北しました。
 以降、教科書レベルでは、福沢諭吉は登場しません。(大隈重信のほうは、このあと2度総理大臣になります。)