1945 |
1945年ユーゴスラビア連邦成立 |
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それまで、ナチス・ドイツに占領されたいたイタリアの東方、ドナウ川とアドリア海に挟まれた地、古くはイリリア地方と呼ばれていた地域に、指導者チトーによってユーゴスラビア社会主義連邦共和国が成立しました。
右の地図の■の部分です。首都は、セルビアのベオグラードに置かれました。
ユーゴはスラブ(スラヴ)語で「南」を意味します。つまり、ユーゴスラビアは、南スラブ人の国という意味です。
「連邦」という名のとおり、次の6つの共和国からなる連邦国家でした。
セルビア
スロヴェニア
クロアチア
ボスニア・ヘルツェゴビナ
モンテネグロ
マケドニア
この6つの共和国には、セルビア、スロヴェニア、クロアチア、モンテネグロ、マケドニアの5つの民族とムスリム(モスレム)人が住んでいました。ムスリム人というのは、正確には民族ではなく、イスラム教徒のことです。
5つの民族がキリスト教徒であるのに対して、ムスリム人は、たとえば、もともとはセルビア人であっても、宗教という観点から5つの民族とは対立する別勢力を形成していました。
5つの民族とムスリム人はどこに居住していたのでしょうか?
上記の5つの共和国には、もちろんそれぞれ、国名と同じ民族が人口比で多く居住していました。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナには、セルビア人(32%)、ムスリム人(40%)、クロアチア人(18%)が混住していまいした。
ムスリム人は、外見的特徴から区別されるものではなく、ただ、セルビア人がキリスト教のギリシア正教、クロアチア人がキリスト教のカトリックを信仰するのに対して、イスラム教を信仰しているというのが、最大の違いです。
ユーゴスラビア連邦を表す言葉に次の表現がありました。
@一つの国家 |
旧ユーゴ |
A二つの文字 |
ラテン文字とキリル文字 |
B三つの宗教 |
ローマ・カトリック、ギリシア正教、イスラム教 |
C四つの言語 |
セルビア語、クロアティア語、スロヴェニア語、マケドニア語 |
D五つの民族 |
セルビア人、クロアティア人、スロヴェニア人、モンテネグロ人、マケドニア人 |
E六つの共和国 |
セルビア、クロアチア、スロヴェニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、マケドニア |
@〜Eのうち、@は説明は必要ありません。
Aは上述の紙幣の文字で説明しました。
Bは上述のムスリム人の説明でふれました。
Eも上記の6つの共和国です。
CとDはこれから説明します。 |
ユーゴスラビア連邦は、このように、連邦内に多数の民族からなる国家が複数存在する「民族のモザイク国家」だったのです。
では、なぜこの地域には、このような事情が生じたのでしょうか。
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BC
1
世紀 |
古来イリリア地方と呼ばれていてこの地域には、イタリア人やギリシア人と同じ言語系統のイリリア人が居住していまたが、この時代に、ローマの支配下に入り、「イリリクム」と呼ばれるようになります。
イリリア人の一部は、現在のアルバニア人につながっていると考えられています。
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6
世
紀 |
イリリア地方は、ローマ帝国の分裂のあと、ほぼ全域が東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下にありました。
しかし、6世紀には、北からスラヴ人が南下侵入します。
スラヴ人はもともと現在のカルパティア山脈の北、国名でいうとウクライナの西部に居住していた民族ですが、ゲルマン人が西方に移動したあと、東西南に移動し、今日の東スラヴ人(ロシア人・ウクライナ人など)・西スラヴ人(ポーランド人・チェック人・スロバキア人など)の形成につながりました。
このうち、現在のハンガリーの地域を越えてさらに南に移動した一団が、イリリア地方に入ってきました。これらの人びとがのち南スラヴ人と呼ばれます。
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7
世
紀 |
イリリア地方に入った南スラヴ人は、居住した地域によって北から、スロヴェニア人・クロアチア人・セルビア人に分かれます。
セルビア人からは、のちに、モンテネグロ人が分化します。
また、最南部に入った人びとは、少し遅れてきたブルガール人(もともとは東から移住してきたアジア系民族でしたが、途中でスラヴ文化に同化し、言語・文化は南スラヴ系に属しています。)の影響を受けつつ、のちマケドニア人となります。(これで、上記の5民族はすべて登場しました。)
※ |
またまたついでにいいますと、東ヨーロッパには、いくつかのアジア系民族が東から入ってきました。時代順に、フン族(匈奴か?)、アヴァール族(モンゴル系)、マジャール族(現在のハンガリーの中心をなす民族)、ブルガール族(テュルク系、つまり広義のトルコ系)です。 |
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12
世
紀 |
12世紀の状勢 |
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右図は、12世紀の東ヨーロッパです。
太い線が当時の国の境界を示しています。
中央のセルビア人初めての王国、セルビア王国は12世紀の半ばに成立しました。
この段階ではビザンツ帝国は健在です。それ以前は、ビザンツ帝国が現在のセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナの地域を支配下に置いており、住民はコンスタンチノープルのギリシア正教会のキリスト教の影響下にありました。
北からはマジャール人のハンガリー王国が勢力を伸ばし、現在のクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの西半分も支配しています。
クロアチアには、925年にクロアチア人初の王国が誕生しました。
しかし、12世紀初頭の政治的空白期にハンガリー人の侵入を受け、これ以後、第一次世界大戦終了まで、ハンガリー(19世紀からはオーストリア・ハンガリー帝国)の支配をうけます。
現在のスロヴェニアは神聖ローマ帝国の支配をうけています。
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16
世
紀 |
16世紀の状勢 |
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上の12世紀までの状況では、まだ、この地域にイスラム勢力は入ってきていません。
この地域にイスラム教を広めたのは、現在のトルコ共和国のトルコ人です。
現在のトルコが位置する小アジア半島の西北部のアナトリア地方にオスマン・トルコが建国されたのは、13世紀の末のことです。
彼らは、ボスポラス海峡を渡ってヨーロッパに進出しました。
1389年、オスマン・トルコはセルビア人勢力をコソボの戦いで破ります。
1453年にはコンスタンチノープルを占領し、ビザンツ帝国を滅ぼしました。これにより古代ギリシア時代以来のこの主要都市は、現在の名前、イスタンブルに改称されます。
オスマン・トルコは、16世紀には中部ヨーロッパにまで進出します。
1526年にはハンガリー王国軍を破り、1529年にはオーストリアの首都ウィーンを包囲しました。最終的にはウィーンの奪取には失敗しますが、バルカン半島とハンガリーは長くオスマン・トルコの支配をうけました。
ボスニア・ヘルツェゴビナを中心にムスリム人と称されるイスラム教徒が多いのは、ここに起因します。
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1914 |
1914年の状勢 |
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オスマン・トルコの支配は長く続きますが、19世紀半ば以降は、さすがにその勢力は衰えていきます。
たとえば、看護婦ナイチンゲールの活躍したクリミア戦争(1853-56年)はトルコとロシアの戦争で、トルコが敗北しました。
その後いろいろ戦争があり、結局、バルカン半島に於いても、1914年にはオスマン・トルコ帝国は、現在のトルコとほぼ同じ領土にまで縮小します。
そのあとには、右図のように、ルーマニア、ブルガリア、アルバニア、セルビア、モンテネグロが建国されます。(ギリシアは、すでに1829年に独立していました。)
そして、この時代のバルカンといえば、ボスニアの首都サライェヴォ(サラエボ)です。
のちのユーゴスラビアのうち、西半分は、「復活」したオーストリア・ハンガリー帝国の支配下に入ります。
その支配下に入ったボスニアに対して、この地域に於けるセルビアの覇権を主張する、いわゆる大セルビア主義との対立が起き、これが、第一次世界大戦勃発の原因となった、オーストリア皇太子夫妻の暗殺事件を引き起こします。
大戦終了後、敗戦国となったオーストリア・ハンガリー帝国は崩壊し、民族自決の原則に従って、多くの民族国家が生まれます。
この時南スラブ人には、クロアチアを中心として歴史上初めて「民族大統一」の気運が起こりました。
この結果、1918年、セルブ・クロアート・スロヴェーン王国が成立したのです。
さらに、この国は、独裁政治を進めた国王アレクサンダルによって、1929年、ユーゴスラビア王国と改称されました。ユーゴスラビアという名前は、国名としてこの時初めて登場しました。
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1945 |
第二次世界大戦がはじまると、ユーゴスラビア王国は最初は中立宣言をしましたが、ヒトラーの圧力に屈服し、1941年には、日独伊三国軍事同盟に加盟しました。
これに対してあくまでドイツに反発する民衆の支持によって、反政府派のクーデターが起こり、
新政府が樹立されました。
しかし、これを見たヒトラーは、すぐさまドイツ軍他同盟軍を派遣、新政府を倒して、軍事力によってユーゴスラビアを制圧します。
以後、大戦中ユーゴスラビアは三国同盟国軍に占領され、クロアチアだけは、新ドイツ派の傀儡政権による統治が行われました。
これに対して、共産主義者のチトーが率いるパルチザン(フランス語で武器を持って立ち上がった住民の遊撃隊という意味)がまずボスニアを解放し、のちにはアメリカ・イギリスの支持を得て次第に勢力を広げていきます。
こうして、1945年の大戦終結後には、このノートの先頭にあるように、チトーによってユーゴスラビア連邦成立が宣言されます。
チトーは、ユーゴスラビアを社会主義国として建国しましたが、ソ連の後押しを受けて誕生した他の東ヨーロッパの共産主義国とは異なり、東側陣営には属さない独自の動きを示しました。
1961年には首都ベオグラードでアジア・アフリカを中心とする25カ国によって第1回非同盟諸国首脳会議を開催するなど、国際緊張の緩和をめざす非同盟政策を進めました。ユーゴスラビアは、ソ連と対立する独自の路線を歩んだのです。
チトーの指導力と、カリスマ性さらにはソ連と対立する独自路線は、大戦後25年間、南スラブ人の国家の求心力そのものとなりました。
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1980 |
そのチトーが、1980年にはなくなりました。
チトー晩年には、6つの共和国などの指導者による集団指導体制が導入されるなど、連邦体制の維持のための努力がなされていました。
※ |
ユーゴスラビア連邦の最高行政機関は連邦幹部会。6つの共和国と2つの自治州(セルビアにはハンガリー人が多く居住するボイボジナ自治州とアルバニア人が多く居住するコソボ自治州の二つの自治州がある)の代表8人の幹部会員で構成。幹部会員の中から輪番で選出される幹部会議長(任期1年)が国家元首。 |
しかし、社会主義経済の緩和策のマイナス面としてのインフレの発生など、経済危機が表面化し、それに連れて、各民族間の争いも激しくなり始めました。
チトーの死によって求心力を失ったユーゴスラビア連邦は、解体への道を進み始めます。
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1988 |
ユーゴスラビア連邦の民族構成
(1981年調査)『平凡社大百科事典』より ※単位千人 |
1 |
セルビア人 |
8,140 |
36.3% |
2 |
クロアチア人 |
4,428 |
19.8% |
3 |
ムスリム人 |
2,000 |
8.9% |
4 |
スロヴェニア人 |
1,754 |
7.8% |
5 |
マケドニア人 |
1,340 |
6.0% |
6 |
モンテネグロ人 |
579 |
2.6% |
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アルバニア人 |
1,730 |
7.7% |
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ハンガリー人 |
427 |
1.9% |
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その他 |
2,183 |
9.0% |
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合 計 |
22,425 |
100% |
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この前の年、セルビア共和国幹部会議長となっていたミロシェヴィッチは、共和国南部にあるコソボ自治州(南隣の国アルバニアの国民であるアルバニア人が多く占め、1968年に自治権を獲得。)の自治権を否定し、セルビア民族主義を煽り、セルビア共和国内での政治基盤を固めていきました。
この結果、翌1989年、セルビア共和国大統領に就任します。このミロシェビッチが、このあと、この地域の政治的事件の主役のひとりを演じることになります。
右表にあるように、セルビア人はユーゴスラビア連邦内最大の民族です。連邦内の東部を中心に居住していて、ギリシア正教の信者が多く、ロシア語と同じキリル文字を使います。
連邦内民族比第2位がクロアチア人です。
連邦内の西部を中心に居住し、ローマカトリック教の信者が多く、セルビアと同じ系統の南スラブ系言語を話しながら、文字はラテン文字を使います。
クロアチアは、社会主義陣営にありながら西側諸国に近く、経済的にはセルビアより進んでいます。この点では、連邦内の一番西よりに位置するスロヴェニアもクロアチアと同じ利害関係にありました。
過去の歴史からユーゴスラビアの中心として大セルビア主義を維持しようとするセルビアと、独自路線を進もうとするクロアチアの対立は激化します。
そして、ご存じのように、これから以後、旧ソ連と東側陣営は急速に崩壊していきます。これは、「ソ連への対抗」という、「ユーゴスラビア連邦の団結の理由」の消滅に他なりませんでした。
いわば、「安心して連邦離脱ができる時代」となっていくのです。
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1990 |
東ヨーロッパの国々で生じた共産主義・社会主義政権の崩壊の現象がユーゴスラビアでも起こり、この年、これまで長く政権を握ってきたユーゴスラビア共産主義者同盟が政治の独占を放棄、この国で初めて、複数政党による自由選挙が実施されました。
この結果、各共和国で、民族主義的な指導者が多く当選し、これ以後ユーゴスラビアの分裂が加速します。
※この前年、1989年にベルリンの壁崩壊
12月セルビアでミロシェビッチが大統領に再選される。
ミロシェビッチ大統領、コソボ自治州に戒厳令を発令し、州の自治権を大幅に制限。
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1991 |
5月、セルビアは、集団指導体制によるユーゴスラビア連邦幹部会議長がセルビアの幹部会員からクロアチアの幹部会員に交代することを反対。
セルビアは、幹部会議長に連邦から分離する動きを見せるクロアチア人が就任することを恐れていました。
6月、ついに、スロヴェニアとクロアチア両共和国は独立宣言を発しました。
ユーゴスラビア連邦軍の戦車隊がスロヴェニアに出動します。この戦争は10日間で終了しました。
さらに、9月、クロアチアへ連邦軍とセルビア軍が介入し、クロアチア軍との大規模武力衝突が生じました。
この事情は一層複雑でした。
クロアチアといっても、クロアチア人ばかりが住んでいるわけではありません。 実は、民族構成は、クロアチア人75%に対して、セルビア人が12%となっています。このクロアチア内少数派のセルビア人は、分離独立に反対して、クロアチア政府に対して武装蜂起します。
連邦軍やセルビア軍は、このクロアチア内セルビア人を保護するという口実でクロアチアに介入しました。ここでの戦いは長期化します。
※ |
「内線」の激化は、チトー以来のユーゴスラビアの軍事政策が影響していました。以下はユーゴの軍事事情の説明です。 |
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「それぞれの共和国は独自の警察を持つが、軍隊は連邦軍になる、という形をとります。その一方でチトーは、独力でナチス・ドイツを破った経験から、「全人民武装」を推し進めました。
高校生になると、軍事訓練をして武器の使い方を教え、自宅に銃を保管させたのです。もしソ連軍が攻めてきたら、全人民が武器を持って立ち上がる、という態勢を築いたのです。
この結果、国民のほとんどが武器を扱うことができるようになったために、国内で民族間の対立が深まると、互いに武器を持って争うことが起きやすくなるという思わぬ結果をもたらしました。」
池上彰著『そうだったのか!現代史』(集英社 2000年)P222 |
11月、マケドニアも独立宣言を発します。
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1992 |
1月、EC(現EU)諸国によって、クロアチアの独立が承認されます。
3月、今度は、ボスニア・ヘルツェゴビナが独立を宣言します。
ボスニア・ヘルツェゴビナは、ムスリム人40%、セルビア人32%、クロアチア人18%というより複雑な民族構成の国でした。
独立を進めるムスリム人・クロアチア人に対して、この地域とセルビアを合体させた「大セルビア」の実現を図るセルビア人勢力との間で内戦が始まります。これは、1995年まで続き、犠牲者は25万人以上になりました。
※ |
大セルビア実現のためにセルビア人勢力がとった方法が、「民族浄化」でした。
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「イスラム教徒の男性は皆殺しにし、女性は暴行してセルビア人の子どもを生ませる、という方法が各地で行われました。イスラム教は堕胎を認めていないため、セルビア人の子どもが必ず生まれることを見越しての行為でした。」
池上彰前掲著『そうだったのか!現代史』(集英社 2000年)P226 |
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これ以外にも、各勢力が、広義の意味での「民族浄化」を実施しました。ある地域から異民族を一方的に排除するため、強制移住・追放・住民交換・大量虐殺がなされたのです。 |
1992年の状勢 |
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4月、セルビアのミロシェビッチは、旧ユーゴスラビア連邦から残ったセルビア共和国とモンテネグロ共和国は、2国だけで新たにユーゴスラビア連邦を結成しました。これは、通称、新ユーゴスラビア連邦と呼ばれます。
上述のように、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦に対して、大セルビア主義実現のために介入し、非人道的な行為により国際的非難を浴びます。
5月、EC諸国は新ユーゴスラビアに対して輸出禁止措置をとります。戦争と経済制裁によって新ユーゴスラビアの経済は破綻していきます。
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1993. |
この年から翌年にかけて、新ユーゴスラビアでは、ハイパーインフレーションが起こります。
これだけの混乱が起こっているのですから、経済的混乱が生じないはずがありません。旧ユーゴスラビアの諸国では、すべてインフレが起こっています。上に示したように、クロアチアでも高額紙幣が発行されています。
それでは、どのくらいのインフレ率だったのでしょうか?
これを数字的に示そうといろいろ数字を捜したのが、なかなか正確な資料が見つかりません。
次の表現で我慢してください。
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『DETA ATLAS ’95−’96』(同朋舎出版 1995年)P256 |
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「93年12月には、ついに1時間につき0.7%という驚異的な数字を記録し、ユーゴスラビア経済を崩壊させた。」 |
1時間で0.7%といわれても、あまりピンと来ません。1000円の商品が1時間後に1007円になったということです。
実はこれはとんでもない物価上昇率です。
1時間で1.007%の上昇ということは、1日で1.007の24乗、つまり17.4%程物価が上昇するということです。1000円の品物が、1日で1174円となります。
この割で上昇が進むと、6日で物価は3倍を越えます。ということは、そのままいくと、3か月で物価は、186万2639倍、6か月では3兆4694億2452万4544倍になります。半年前1000円の品物が、半年後には、3469兆4245億2454万円になるということです。
もちろん、こんな上昇率は最大瞬間風速みたいなものですから、こんなに長く続かないでしょうが、これで、上記の5000億ディナール紙幣が発行された理由がわかるというものです。
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1994 |
4月、NATO軍ボスニア・ヘルツェゴビナに介入し、セルビア軍に対して空爆を開始します。ソ連と対峙していた戦後の長い期間、一度も武力を発動しなかったNATO軍が、皮肉にも米ソ冷戦終結後、武力行使をするはめになりました。
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1995 |
11月、アメリカの調停でボスニア・ヘルツェゴビナ内戦終結。停戦協定締結。
ボスニア・ヘルツェゴビナは統一国家として存続したものの、国土はセルビア人が中心のセルビア人共和国、・ムスリム人・クロアチア人のボスニア連邦の2つに分割され、3勢力からなる中央機関が全土を統治するという形で妥協が成立しました。
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1996 |
9月、ボスニア・ヘルツェゴビナで、停戦後はじめての統一選挙が実施されました。
国家元首にあたる中央政府の幹部会議長には、イゼトベゴビッチ が選出されました。
10月、国際連合がユーゴスラビアに対する経済制裁を解除。
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1997 |
7月、ミロシェヴィッチが(新)ユーゴスラヴィア連邦の大統領に選出されました。
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1998 |
この年からまた再びユーゴスラビアが「紛争」主役として登場します。
舞台は、セルビアのコソボ自治州です。
セルビアの南部に位置するコソボは、全人口およそ200万人のうちアルバニア人が90%程を占めています。アルバニア人は南隣の国アルバニアの大半を占める民族です。
この地域は旧ユーゴスラビア以来、自治州となっていましたが、セルビア内部の「大セルビア主義」者からみると、自治→分離という動きは、許せないものでした。このため、すでに、1980年代に自治州を共和国に格上げするコソボ側の要求に対して、民族主義者ミロシェビッチが自治権を制限する動きに出るなどの対立が起こっていました。
2月、セルビアは、コソボの武力独立を目指すコソボ解放軍(KLA)の武力鎮圧を図りました。こうしてコソボ紛争が始まります。
10月、NATO軍、セルビアの空爆を計画。セルビアは一旦は調停案を受け入れる態度を見せましたが、結果的にKLAの制圧宣言出したあともコソボに治安部隊を残留させ、多数のアルバニア人難民が発生してしまいました。
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1999 |
3月、NATO軍、セルビアの空爆を開始。
5月、ベオグラードにある中国大使館がNATOミサイルの攻撃(誤爆)を受けました。
6月、空爆による軍事的劣勢から、ユーゴスラビアは和平案を受諾。コソボは現在は国連平和維持軍の管理下に置かれています。
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2000 |
10月、ユーゴスラビアで大統領選挙が行われ、ミロシェビッチが敗れ、新大統領にコシュトニツァが就任。
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2003 |
2月、正式な国名がユーゴスラビアから「セルビア・モンテネグロ」にかわりました。これで、新ユーゴスラビアは10年あまりで幕を閉じました。国家形態も連邦共和国からゆるやかな連合国家に移行しています。
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