日本の文化6
<解説編>
             

1005  外国から見た日本人、日本社会3                       | 問題編へ |

 外国人から見た日本社会・文化クイズその3です。
 ここの主役は、アメリカのハーバード大学の教授、
エズラ・ヴォーゲル博士であり、リビジョニストのカルヴァン・ウォルフレン(オランダ生まれのジャーナリスト)です。


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中根千枝著『タテ社会の人間関係』               | このページの先頭へ |

 ヴォーゲル博士の書物から問題を作る前に、それ以前に日本社会の特色を明確に表現した日本人の書物を紹介します。

 東京大学の社会人類学者であった
中根千枝氏が著した『タテ社会の人間関係』(講談社新書 1967年)です。日本人による日本社会論の代表作です。(以下の引用の赤字強調、行間設定は引用者が行いました。)

「 一定の個人からなる社会集団の構成の要因を、きわめて抽象的にとらえると、二つの異なる原理−〔1〕〔2〕が設定できる。すなわち、集団構成の第一条件が、それを構成する個人の「〔1〕」の共通性にあるものと、「〔2〕」の共有によるものである。

 ここで〔1〕とよぶものは、普通使われている意味より、ずっと広〈、社会的個人の一定の属性をあらわすものである。

 たとえば、氏・素性といったように、生まれながらに個人にそなわっている属性もあれば、学歴・地位・職業などのように、生後個人が獲得したものもある。また経済的にみると、資本家・労働者、地主・小作人などというものも、それぞれ資格の種類となり、また、男・女、老・若などといった一定の社会的(生物的差から生ずる)相違によるものまで、ここでいう資格(属性) の一つとしてとりあげることができる。

 このような、一定の個人を他から区別しうる属性による基準のいずれかを使うことによって、集団が構成されている場合、「〔1〕による」という。たとえば、特定の職業集団、一定の父系血縁集団、一つのカースト集団などがその例である。

 これに対して、「〔2〕による」というのは、一定の地域とか、所属機関などのように、〔1〕の相違をとわず、一定の枠によって、一定の個人が集団を構成している場合をさす。たとえば、××村の成員というように。産業界を例にとれば、旋盤工というのは〔1〕であり、P会社の社員というのは〔2〕による設定である。同様に、教授・事務員・学生というのは、それぞれ〔1〕であり、R大学の者というのは〔2〕である。」P26−27

「 日本人が外に向かって(他人に対して)自分を社会的に位置づける場合、好んでするのは、〔1〕よりも〔2〕を優先することである。記者であるとか、エンジニアであるということよりも、まず、A社、S社の者ということである。また他人がより知りたいことも、A社、S社ということがまず第一であり、それから記者であるか、印刷工であるか、またエンジニアであるか、事務員であるか、ということである。

 実際、××テレビの者です、というので、プロデューサーか、カメラマンであると思っていたら、運転手だったりしたなどということがある(このごろの日本では、みんな背広を着ているので、一見しただけではちょっとわからない場合が多い)。
 ここで、はっきりといえることは、〔2〕、すなわち会社とか大学とか言う枠が、社会的に集団構成、集団認識に大きな役割をもっているということであって、個人のもつ〔1〕自体は第二の問題となってくるということである。

 この集団認識のあり方は、日本人が自分の属する職場、会社とか官庁、学校などを 「ウチの」、相手のそれを「オタタの」などという表現を使うことにもあらわれている。
 この表現によく象徴されているように、「会社」は、個人が一定の契約関係を結んでいる企業体であるという、自己にとって客体としての認識ではなく、私の、またわれわれの会社であって、主体化して認識されている。そして多くの場合、それは自己の社会的存在のすべてであり、全生命のよりどころというようなエモーショナルな要素が濃厚にはいってくる。
 1社は株主のものではなく、われわれのものという論法がここにあるのである。この強い素朴な論法の前には、いかなる近代法とい、えども現実に譲歩せぎるをえないという、きわめて日本的な文化的特殊性がみられる。」P30−31

 上の引用文章に示された中根千枝さんの意見の中心部分は、次のように整理できます。
  ※答えが決まったら黒板をクリックしてください。正解が現れます。(黒板一枚分、一度に全部現れます。)


 こういう日本の社会だから、日本の企業風土は、つぎのような特色を持ちます。

  • 欧米と比べて上下の関係が強い。(タテ社会)

  • 会社においては、長く終身雇用制度・年功序列型賃金制度が行われた。

  • 会社を中心とした価値観が社会の中心的な価値観となる。例 会社人間 社員旅行 運動会

  • 家族主義が経営の常識となる。

 これらは、戦後、少なくとも高度経済成長期には日本社会や企業の特色となっていたが、むしろ、「半封建的」性格の部分が強調され、プラスの要因とは見られていませんでした。 

     
エズラ・ヴォーゲル指摘した日本の成功要因           | このページの先頭へ |

 ヴォーゲル博士は、それまで多くの場合、閉鎖的でむしろ「遅れている」と考えられていた、日本特有の社会構造及びそれから構成される企業社会の特色を再評価し、その肯定的分析によって、それこそが、日本の企業、ひいては日本企業の成功の要因だとしました。

 アメリカの工場と日本のそれとの違いを、次のように説明しています。
 ※答えが決まったら黒板をクリックしてください。正解が現れます。(黒板一枚分、一度に全部現れます。)


 その理由は次のように分析されています。

「 このように日本の労働者が企業に対して忠誠心をもち、仕事に大きな誇りをもっていることが、安くてしかも良質の製品を生み出す源泉となっているのであろう。もちろん数多い工員−とりわけ小さい工場の若い工員ーのなかには企業から疎外されている者もいるだろう。しかしアメリカに比べれは、おおかたの日本の労働者はめったなことでは仕事を休まないし、ストライキもほとんどしない。また、手当て目当てではなくて進んで残業もするし、有給休暇をすべて消化することも少ない。

 仕事の能率面では、日本の平均的労働者の働きぶりは、アメリカの勤勉な労働者のそれに匹敵する。

 日米のこの違いを、ややもすると両国の伝統の違いに原因を求めたくなるが、アメリカでは、伝統そのものは変わらないはずなのに、ここ数十年間に労働者の質が低下してきており、反対に日本では向上している。(中略)アメリカでは、種々の労働問題の原因を豊かさのせいにしているが、同じく富める日本での労働者の勤務態度は相変わらずよい。さらに注目すべきことは、アメリカに進出した日本企業が日本式経営方法をとった結果、わずか数年のうちにアメリカ人労働者の会社への忠誠心が、他のアメリカ企業の労働者たちよりずっと強くなったのである。日本の労働者の質のよさを「東洋的精神」などで説明するよりも、日本の成功の秘訣が企業の経営方法や労働者教育とどう関係しているのか、十分考えてみたほうがよさそうである。」

「 年長者が常に上に立つ制度では、優秀な後輩の上に凡庸な先輩が立つこともありうるが、このような場合にも仕事が円滑に進められるのはなぜだろうか。その答えは日本の企業では肩書きあるいは地位と仕事が切り離して考えられているということである。アメリカの企業の場合、企業を動かすのは特定の任務を負った個人とその秘書および助手であるが、日本では課が主体である。仕事は課に対して与えられ、全員一致協力してその任務を果たす。課内での仕事の分担はアメリカの企業ほど明確にされていない。肩書きに応じて仕事を分担するのではなく、むしろ個人の能力に応じて分担される。だから課の仕事の出来ばえに関して費任をもつ課長は、有能な部下に重要な仕事をまわす。優秀な部下を活用したほうが有利であることを知っているからである。
(中略)

 部下のほうもまた上司と協調して立派に課の仕事を成就することが大切であることを知っている。彼のほうが有能であることは、課内の人間も暗黙のうちに認めているし、いずれは彼のほうが、高い地位にまで出世するかもしれない。しかし当面は課の仕事をきちんとして、はじめて将来への出世の道が開かれるのである。」

 すなわち、基本的には終身雇用制度年功序列型賃金制度があり、

  • それに加えて、課(チーム)・グループによる仕事運営

  • ボトムアップ式の意思決定(アメリカはトップダウン式)
    ※いろいろな決定が社長の意思で決まるか、社員の提案で決まるか。

などが、会社への忠誠心・社員の一体感を生み、企業全体として生産性が高く、品質のいい製品を作り出すことができる。


リビジョニスト、カルヴァン・ウォルフレンの日本批判    | このページの先頭へ |

 日本経済の急成長は、ヴォーゲルのような日本再評価の動きと同時に、日本バッシングも惹起しました。すなわち、「欧米企業がいくら日本企業の成功要因をまねをしても、貿易赤字は減らない。これはやはり、日本社会の閉鎖性・異質性によるものではないか。」という批判的な考え台頭したのです。つまり、1980年代後半には、日本版経済への疑問と批判的再評価の動きが具体化してきました。
 
 その動きは、バブル経済の破綻とともに、より顕著となります。
 1990年代の日本経済の状況を文化批評家の
マークス寿子さんは、『とんでもない母親と情けない男の国日本』の中で次のように説明しています。

「 いまさかんに「第二の敗戦」という言葉が言われている。この言葉にはいくつかちがった解釈があるが、ふつうはつぎのような意味で使われている。太平洋戦争でアメリカ(正しくは連合国軍であるが)に負け、アメリカに占領され支配をうけ、アメリカの指示に従って日本が復興したというのが第一の敗戦である。そして、日本が独立し、奇跡的ともいわれた経済成長を遂げ、アメリカとの経済戦争に勝ったょうにみえたが、バブル経済の崩壊とそれにつづく不況にともなって、「グローバル・スタンダード」などの主張のもとにふたたびアメリカの支配をうけるようになった、これをふつう第二の敗戦と言っている。       

 日本に対する批判的再評価を行った一群の人々は、リビジョニストと呼ばれました。「revisionist」(再評価論者)というネーミングは、1986年にオランダ生まれのジャーナリスト(この時点で日本滞在歴24年)のカルヴァン・ウォルフレンが、アメリカの外交誌『Foreign Affairs 』に「The Japan Problem 」という論文を発表して華々しく登場してから用いられるようになりました。

 その後、彼は、
クライド・プレストヴィッツチャーマーズ・ジョンソンジェームス・ファローズらとともに、リビジョニストの代表的人物となりました。

 リビジョニストがどのような考え方であるのか?
 たとえば、ウォルフレンは次のように述べています。

カルヴァン・ウォルフレン著『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社 1994年)P24−26 (赤字と行間設定は引用者が施しました。)
この「敵意」に満ちた本の題名が、そもそもリビジョニストの姿勢の基本を示しているようです。

「 日本人が完全に市民として行動するのは難しい。それは、市民として必要な知識の多くを奪われているからだ。日本という国が官僚と経済団体の役員たちによって実際にどのように運営されているか、その内幕は〔 1 〕という見せかけの奥に隠されている。日本の市民たちの明日の生活、さらにはその先々の生活にまで影響する最も重要な決定でも、通常は公に議論されることがない。「バブル経済」の発生と終息への大蔵省の関与は、その最も顕著な例だ。
 日本の人たちは官僚からしばしば荒唐無稽のでたらめな話をきかされる。これは、官僚が面子を守りたいと思っていたり、正確な情報が世間に流れると実現のチャンスがまったくなくなるような計画を強行したいと思っていたりするからだ。

 おまけに、日本のたいていの新聞は、新聞の第一の使命は市民に情報を提供することだなどとは思っていない。だから新聞は、「純朴」だが政治的には無知な日本人の層を存続させるのに手を貸している。メディアは、日本では、政治・経済・生活上の〔 1 〕という表向きのリアリティを「管理」するための、つゆ払いの役目を果たしている。

 この管理されたリアリティは、われわれが努力すれば発見できる本当のリアリティと、たいへんちがっている。なるほど説明と実際の不一致は、すべての民主国家を含め、どの国にもある。しかし、私がここで指摘している日本のその落差は、他の先進工業国より、はるかに、はるかに大きいのだ。

 日本の市民はたいてい、何かにつけ、このリアリティにはまり込んで動けなくなっていると感じている。表向きのリアリティが、管理されたつくりものに過ぎない、と時々は気づくが、結局はそれを受け入れざるをえない。なぜなら、周りの世界はすべてそれによって動いているからだ。日本人がこうした状況にはまり込んだ時、口をついて出るセリフが「〔 2 〕」である。
 
 「
 2 」というのは、ある政治的主張の表明だ。おそらくほとんどの日本の人はこんなふうに考えたことはないだろう。しかし、この言葉の使われ方には、確かに重大な政治的意味がある。「〔 2 〕」と言うたびに、あなたは、あなたが口にしている変革の試みは何であれすべて失敗に終わる、と言っている。つまりあなたは、変革をもたらそうとする試みはいっさい実を結ばないと考えたはうがいいと、他人に勧めている。「この状況は正しくない、しかし受け入れざるをえない」と思うたびに「〔 2 〕 」と言う人は、政治的な無力感を社会に広めていることになる。本当は信じていないのに、信じたふりをしてあるルールに従わねばならない、という時、人はまさにこういう立場に立たされる。
 
 「〔 2 〕」という言葉を知るずっと以前、私が日本に来てまだ数カ月のころ、日本人のおとなしさ(=御しやすさ)には面くらったものだった。日本人は日常生活で必要以上の我慢を強いられているように見えた。ほかの先進国ではまず受け入れられるとは思えない生活条件を押しつけられていたからだ。

 よく通った中間階級向けの食堂で、いつも出される食事のまずさと量の少なさには驚きっぱなしだった。喫茶店で、ソフトドリンクを一びん注文したつもりなのに、びんからはちょつぴり注いだだけで、はとんどは氷で埋まったグラスが出された時は、さすがに怒ったものだ。当時の外国人仲間で、それぞれが目撃した、ひどい扱いをされても何も文句を言わない日本人の驚くべき実例を、あれこれと話題にしたものである。私たちは、顔を合わせれば、日本人の「受け身で受け入れる」態度について語り合っていた。

 後になって、この態度には自尊心がからんでいるとわかってきた。いちいち騒ぎ立てないのが大人の態度であり、私たち外国人のように文句ばかり言っているのは、子供じみていて自分勝手で、やっかい者の最たるものだと考えられているのが次第にわかってきた。成熟した大人の日本人なら、ひどい扱いもこれを許し、静かに耐えることによって、互いを安け入れ合うというわけだ。

 日本には昔から、仕方がないと言えるようになれば成熟した証拠だとみなす伝統がある。そして確かに、これは日本だけの伝統ではない。西洋でも、いや世界中どこでも、自分の能力の限界の自覚が、もはや子供ではない証拠だ。しかし、重要なちがいもある。私と友人が初めて日本にきた当時、私たち外国人は、こんな詐欺まがいの商慣行を顧客として中止させる能力が自分たちにないなどと、どうしても容認できなかった。食堂や喫茶店のはかの客も私たちの抗議に加わってくれれば、イカサマ商売はやめさせられるというのが私たちの考え方だったのだ。

 日本の市民の生活環境としては不幸なことに、徳川時代の全体主義的な政治体制が、今日もまだ幅を利かせているのである。日本が市民の国となるためには障害になるに決まっている生き方が、いまだに正しいとされている。

 徳川時代なら、「〔 2 〕」や、それに類する当時使われた言い方は、とても理に適っていただろう。なにしろあの時代には、庶民は国のいたるところで、ひどい政治に耐えなければならなかった。

 自分の人生をより自由に生きたいと思う市民は、「〔 2 〕」という一句を自分の辞書から追放した方がいい。しかし、そうするためには、まず勇気が必要だ。本書が励ましになってほしいと思う。


 アメリカの工場と日本のそれとの違いを、次のように説明しています。
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 これらリビジョニストの指摘は、ある面では日本社会の課題を鋭く指摘しているといえるでしょう。
 しかし、その発想や視点に問題も感じます。

 リビジョニスト自身の問題について、
浜口恵俊(出版当時、国際日本文化研究センター教授)教授は、「日本研究の新たなるパラダイム」で次のように説明しています。
  ※梅原猛編著『日本とは何なのか』NHKブックス、1990年9月)所収

 昨今大きな話題となったものに日米構造協議(アメリカ側はStructura Impediments lnitiative と呼ぶ)がある。またその前には、日米貿易摩擦をめぐつて、包括貿易法スーパー301条による報復措置の発動問題があった。そこでは、アメリカ側はかなりの危機感を抱いて、日本の社会=経済の構造の変革を要請してきた。日本人の貯蓄体質、排他的なビジネス慣行、経済取引の系列化など、日本文化と結びついたビジネス特性を姐上にのせて厳しく批判し、その改善を要望したわけである。もっとも、日本が実際に同意したのは、公共投資の増額、大規模小売店法の見直しなどであり、政策面での改善にとどまった。

 だがこうした構造協議などにおいて、アメリカ側の主張の背後に見え隠れしている一つの見解が
ある。それは、リビジョニスト (日本についてのこれまでの通説的な見方を変えようとする論者) たちの。日本異質論・特殊性論である。日本の経済構造と社会慣習は反民主的であり、欧米のシステムとは完全に異質であるとする彼らは、外圧を加えてでも日本を封じ込まねば、そのがむしゃらな経済拡大によって欧米の経済は決定的に破壊されないと懸念する。

 クライド・プレストヴィツツ、チャーマーズ・ジョンソン、カレル・ファン・ウォルフレン、ジエームス・ファローズといったリビジョニスト四人組は、それぞれ独自の議論を展開していて、主張内容や力点の置き方は必ずしも同じではないが、日本を特殊祝する点では共通している。ジェラルド・カーチスが示唆したように、彼らは、日本側のこれまでの日本研究が、日本社会の文化的独自性(ユニークネス)を強調しすぎたことを逆手にとって、批判的視角からの日本特殊性論を展開したのである。その場合、自分たちの欧米社会がつねに普遍的である、という大前提に立っている点を見逃してはならない。この自明とされる仮定は、欧米的バラダイムの絶対視を示すものであろう。
しかしそれは世界史的に見て十分な根拠をもつものではない。

 自律的な個人の活動を基礎にして達成された欧米型の近代化とは対照的に、組織に内在するシナージー(協同化過程)の活用によって効率的に達成された日本の近代化の過程もまた、人類社会の普遍的動態だと考えられる。したがってこのタイプの近代化を判断基準にすれば、世界中で最も早く近代化・産業化を達成したとはいえ、欧米社会もまた、ある意味では一つの特殊形態であるにとどまる。文化の特性についても同様である。かくて、一方が普遍で他方が特殊であるのではなく、それぞれがともに特殊であるとする「文化相対主義」の立場からの批判が不可欠である。にもかかわらず、他社会との比較も不可能なほどに特殊な社会構造を日本は自由貿易の対象国とはなりえない、とする彼らの見解は、「文化相対主義」をまっこうから否定するものである。

 21世紀はグローバル化が一層進む時代です。
 真の意味でグローバルな視点をもつためには、異なる社会や文化を優劣の視点から論じるのではなく、
文化相対主義こそが、その重要な鍵であるといえるでしょう。

参考文献
梅原猛編著『日本とは何か 国際化のただ中で』(NHK出版 1990年)
濱口恵俊編著『日本文化は異質か』(NHK出版 1996年)



授業に向けて                             | このページの先頭へ |

 これで、外国人から見た日本社会・文化クイズその1〜3のシリーズを終わります。
 その1の導入のクイズから、その2・3の、
ルース・ベネディクトエズラ・ヴォーゲルカルヴァン・ウォルフレンと話を進めてきました。
 現代社会の授業で、これらすべてを取り扱うだけの時間はないでしょう。
 ただし、教育基本法の改正で、「伝統と文化を尊重し」となりました。うさんくさい「愛国心」より、自分たちのアイデンティティを確認する作業は大切です。そのためには、外国人の目から見た日本という視点も必要でしょう。

 シリーズでということは無理でも、現代社会で、日本史で、部分的に教えることは意義があると思います。
 以下は、私が以前ある学校で、学校設定科目「日本の文化」(1年2単位)で使用したプリントの一部です。(B5版で1ページです。)
 参考資料として提供します。

 学習内容

一太郎files

PDFfiles

「世界から見た日本」に関する導入

ルース・ベネディクトについて

中根千枝について

エズラ・ヴォーゲル『ジャパン・アズ・No1』について

カルヴァン・ウォルフレン著『人間を幸福にしない日本というシステム』について

 PDFファイルと一太郎ファイルまたはWORDファイルの両方でダウンロードができます。

<ダウンロードの方法>
  該当する教科・科目のpdf 一太郎を右クリックしてメニューを出し、「対象をファイルに保存」をクリックしてファイルを保存してください。