現物教材 世界史11

 原始・古代・地域世界009  羅針盤                            | 目次へ

 羅針盤というのは、大人であればかなりの人が「聞いたことがある」「覚えている」装置です。
 しかし、現代の高校の授業では、二つの問題があります。

  1. 現代の中学生は羅針盤について学習していません。

  2. いつどこで生まれたのか、当初はどんなものであったのか。高校の教科書には今ひとつ明確には書いてありません。

 そこで、現物の登場です。以下、上の二つの点について説明します。

 まずは、現代の船の実際の羅針盤(磁気コンパス)です。
 現代の船のブリッジは電子機器で一杯です。しかし、どんなに優れた機器が搭載されていても、必ずバックアップ装置として羅針盤が備えてあります。

 船のブリッジ内。
 右端の窓の下に左の写真の羅針盤が据え付けられています。この船にも、GPS等の電子装置があり、通常は羅針盤で進行方向を確認することはありません。

 この写真の船の名前は、コーラルホワイト号。私が北方領土に渡航した時に乗船した船です。この船の乗船記はこちらです。   


 船に付いている羅針盤は教室へは持ち込めません。そこで、飾り用、船から取り外された本物など、手に入る羅針盤を現物教材として持ち込みます。 
 左のものは、インターネットのオークションで6500円で入手したものです。
 ヤッフーオークションには、実際に船で使われていた羅針盤とかいろいろ出品されてきます。
 形のいい美しいものは、1万円以上もします。


1 中学校の教科書と羅針盤

 羅針盤という言葉をいつどこで習ったか、成人の方は、明確には答えられないと思います。いつ習ったかは忘れたが、別に教科書の世界だけではなく、たとえば、「人生の羅針盤」とか、普通に使う言葉として認識しているというのが、現実でしょう。
 
 しかし、現代の中学生はそうはならないかもしれません。
 なぜなら、1998(平成10)年版中学校学習指導要領(2001年施行)にしたがって、現在の教科書には、「羅針盤」という単語は、掲載されなくなりました。

 つまり、歴史分野の改訂の要点には、「イ 我が国の歴史の大きな流れをとらえる学習の重視 世界の歴史を背景に我が国の歴史を学習することは、従前と同様であるが、これまで以上に我が国の歴史を中心とすることを明確にした。」とあります。
 これは、我が国と直接関係のない世界史の事項は、極力記載分量が減らされたことを意味します。

 これによって、たとえば、以前はルネサンスについては、ルネサンスの項目が設定され、教科書にはその説明が10行以上掲載されていましたが、現行の教科書では、ルネサンスという単語はあり、1行から2行ほどの説明はありますが、項目はなくなってしまいました。
 そのために、羅針盤も消え去ったというわけです。

 具体的には、以前の教科書には、次のように記載されていました。

『新編新しい社会 歴史』(東京書籍 1998年2月)

宋の社会と高麗(P63)
「南の長江の流域の開発が進み、すぐれた陶磁器や絹織物などがつくられ、各地に都市も発達した。
火薬、羅針盤などがヨーロッパにさきがけて実用化され、活字も発明された。」

ルネサンスと科学(P106)
「建築や科学、思想にも自由で合理的な試みが広がった。中国で先に発明されていた
火薬、羅針盤、活版印刷が、このころ改良され、実用化した。」


 ところが、今時の改訂の上記の部分は次のようになりました。

『新しい社会 歴史』(東京書籍 2002年2月)

東アジアの変化と遣唐使の停止(P44)
「唐は10世紀のはじめにほろび、やがて宋が中国を統一しました。同じころ、朝鮮半島では、新羅がほろんで高麗の国ができました。日本は宋や高麗とは正式の国交は開きませんでしたが、両国の商人の活動を通じて、文物を輸入しました。」

アジアの物産を求めて(P74)
「ヨーロッパでは15世紀ごろに、ギリシア、ローマのすぐれた文明を学びなおす学問・芸術がさかんになりました(ルネサンス)。天文学や地理学も発達し、地球の球体説にもとづく世界地図もできました。」

 火薬、羅針盤は消えてしまいました。

 これは、別に東京書籍の教科書だけの話ではありません。
 かの有名な、扶桑社の「市販本 新しい歴史教科書」(2001年)にも、羅針盤は出てきません。 


2 高校での学習 いつどこで生まれたか


T教科書の記述

 教科書Aの記述にあるように、最初に「羅針盤」をつくったのは、中国です。分に説明がなされています。

 ただし、中学校で学習していない現代の高校生にとっては、これが初めての学習ですから、注意しなければなりません。
 羅針盤というものをまったく知らない生徒から、「人生の羅針盤」などという応用的な意味も含めてよく知っている生徒まで、いろいろいると考えられるからです。

 以下は教科書の記述からの抜粋です。

『詳説 世界史』佐藤次高・木村靖二・岸本美緒著(山川出版 2004年3月)

宋代の文化(P90)
「唐代ころにはじまった木版印刷は宋代に普及し、また
活字印刷法も発明された。羅針盤や火薬の実用化もはじまり、これらの技術はイスラーム世界をつうじてヨーロッパに伝わった。」

地中海世界の交流(P151)
「また、11〜13世紀には、十字軍とムスリム群との戦争にもかかわらず、地中海を経由して先進的な知識や技術がイスラーム世界からヨーロッパにもたらされた。医学・哲学・数学・化学などのアラビア語の著作は次々とラテン語に翻訳され、ヨーロッパ近代科学の誕生に大きく貢献した。さらに、イスラーム教徒が中国から学んだ
製糸法・羅針盤・火薬なども、シチリア島やイベリア半島を経由してヨーロッパに伝えられた。」


科学と技術
「大航海時代とルネサンスの時代には、科学の新しい考え方がうまれた。16世紀の前半、ポーランド人コペルニクスは、古代の天文学に刺激されて地動説を唱え、聖書の天地創造説話にもとづく天動説を採っていた協会の世界観に挑戦した。また、技術面でも重要な改良・実用化が行われ、ヨーロッパの社会に大きな影響をあたえることになったが、それらはいずれも、もともとは中国で発明されたものであった。
 
羅針盤は中国の宋で知られていたが、14世紀のイタリアで改良され、天文学や海図製作の発達とあいまって、遠洋航海を可能にした。火薬もすでに元で実戦にもちいられていたが、その後ヨーロッパで火砲が発明されて、従来の戦術を一変させ、騎士が没落することになった。さらに、15世紀なかばごろドイツ人グーテンベルグが改良した活版印刷術は、製糸法の伝播と結びついて、書物の製作を従来の写本よりもはるかに迅速・安価なものとし、新しい思想の普及に大きく貢献した。」


 そもそも羅針盤とはどう定義されるものなのでしょうか。
 最初の中国のものと、イタリアで改良されたものとは、どう違うのでしょうか。イタリアのどこで改良されたのでしょうか。
 もう少し、羅針盤について詳しく調べてみましょう。


U中国の「羅針盤」

 以下の記述は、次の本を参考にしました。
   @アミール・D・アクゼル著鈴木主税訳『羅針盤の謎』(アーティストハウスパブリッシャーズ2004年)
   A飯島幸人著『航海技術の歴史物語−帆船から人工衛星まで−』(成山堂書店2002年)
   B樺山紘一著『世界の歴史16 ルネサンスと地中海』(中央公論社 1996年)
   Cフライエスレーベン著坂本賢三訳『航海技術の歴史 原書第2版』(岩波書店 1983年)


 教科書Aの記述にあるように、最初に「羅針盤」をつくったのは、中国です。
 ただし、ここで言う「羅針盤」は、のちの航海用の精密な「羅針盤」ではなく、簡単な磁気コンパスのことを意味し、実態は、次のようなものでした。

「天候不良の昼夜方向のわからないとき、馬を先に歩かせて道を知るか、或いは指南車、指南魚を使用する。指南車は世に伝わらない。指南魚の方法は次のようなものである。薄い鉄板を長さ二寸幅五分程に切り、頭と尾を魚のような形にする。これを炭火の中で焼き、赤くなったら、鉄のたがねで魚首を作り火から出す。尾を正しく子(注 北の方角)の方向に向け、水を入れた盆に祈祷する。尾を水に数分(長さ)入れて止める。密器にこれを収める。使用するときは、椀に水を入れ風のないところに置き、魚を平らにして水面に浮かす。首は常に南を指す。」

 ※1044年に中国で編纂された『武経総要』(編者曽公亮)の記述。参考文献AP25より

  
 つまり、「指南魚」という道具は、薄い鉄板でつくった磁石を表面張力を利用して、水の上に浮かべたものでした。ここに示された、磁石の作り方は、熱した鉄を地磁気の向きに沿って置き、そのまま冷やして固めると磁性を帯びるという、残留磁化という科学的な方法を利用したものです。磁石を麦わらや軽い木にはめ込んで水の上に浮かべる場合もあったようです。
 水に浮かべるほかに、糸でつるすものもありました。

 また、上記の『武経総要』より遅く、1250年頃までに編纂された『事林広記』という書物には、今日我々が普通にハイキングのときにもっていく「磁石」のように、支柱に上に磁針をおいた「羅針盤」も描かれています。磁針の支柱を英語で
ピボットといい、この形式の「羅針盤」をピボット式と言います。
 今日の「磁石」と違う点は、磁針がただの菱形とかではなく、なんと、海亀の形だったという点です。いかにも中国らしいデザインです。 
   ※参考文献@ P112・113

 中国でこれらの初歩的「羅針盤」がつくられたのは、そもそもは航海とか陸上移動とかの方位測定の目的ではありませんでした。
 中国では、古来、日常生活上で「方角」を考えることがことのほか重要視されていました。ここでは、風は大地自然の霊的な気で、脈と呼ぶ経路を流れています。また水は清めの水であり、大地とそこに住むものに力を与えてくれます。つまり、風と水は、宇宙の霊的な力と考えられていました。最近の日本でもブームになった、
風水の考え方です。

 風水では、方角が重要でした。
 たとえば、皇帝(天子)は南に向かって政治を行うことが理想とされ(これを「
天子南面」といいます。、このため、都は、一番北の部分に天子の住む住居や政治を行う場所があり、そこから南に向かって土地が低くなり、街路が形成されていました。
 北京の故宮と天安門もそうですし、中国の都城をまねてつくった、平城京も平安京もそうなっています。

 風水師は、いろいろな形の「羅針盤」を作り、方角を見て、人びとに気の大切さを教えました。これが、中国で初歩的「羅針盤」(磁気コンパス)が発達した理由でした。 

 では、中国においては、これらの「羅針盤」は航海用には工夫されなかったのでしょうか?
 これについて、次のような考え方が示されています。

「かつての中国は農耕社会で、今でも大部分がそうだ。中国経済は海上貿易ではなく、土地及びその利用法を基盤としている。かつては船といえば運河や河川を航行するものが大半で、そういう航海では磁気コンパスを使う必要がなかった。土地を基盤にして文化を築いた中国人は、磁気コンパスが発展した初期のころ、それを航海に活用することには興味がなかったかもしれない。」

 ※参考文献@ P115

    
 中国から学んで、これを積極的に航海に利用したのが、ヨーロッパ人というわけです。 


Vヨーロッパの「羅針盤」

 中国起源の「羅針盤」は、イスラム世界を経て、ヨーロッパに伝わります。

 ヨーロッパで「羅針盤」について書かれた最も古い本は、スコットランドの修道院の僧アレグザンダー・ネッカム(1157−1217)が残した、『自然について』について』です。
1187年に書かれました。
 それによると、イギリス海峡を渡る船は、航海中、視界が悪いときは、水を張った容器に磁石を入れたアシの一片を横たえる、するとこのアシ片は水面を泳ぐ最後には北の方を指す、とあります。
 ※参考文献C P75

 この時点、つまり、12世紀後半には、アラビアを経由して、すでに中国式の初歩的な「羅針盤」がヨーロッパにも伝わってきていました。
 これが地中海で改良されていきます。
 
 磁針を水に浮かべる不安定なものから、やがて、水を使わず、上下からピボットで支える乾式の「羅針盤」へと改良がなされました。さらに回転をスムーズにするために、ピボットがひとつになり、また、方角がすぐわかるように12または16の方位を描いた「風配図」(コンパスカード)がつけられ、さらに、持ち運びが便利なように、箱に入れられたものとなりました。
 これが、13世紀から14世紀にかけてのヨーロッパにおける「羅針盤」の改良です。

 地中海では、特に、1270年から1280年ころに普及したと考えられています。
 この改良と普及によって、例えば地中海のヴェネチアの船の航海は画期的に進歩しました。その様子は次のようなものでした。

「13世紀、地中海を航海するヴエネツイアをはじめとする諸国は、考案されたばかりの磁気コンパスを船に搭載するようになつた。もう冬が過ぎるまで陸で待機する必要はなかった。磁気コンパスが登場する以前、ヴエネツィアの船隊は東方へ行くときには冬を避けて航海の時期を設定していた。第一便は復活祭のころに出航し、九月までに帰港する。第二便は八月に出航し、目的地の港で冬を過ごして、故郷ヴエネツィァヘは五月に帰ってくるのだ。だが磁気コンパスが導入されると、ヴエネツィアの船乗りは科学にもとづいて航海するという贅沢を享受するようになり、時間を問わず方位を正確に知ることができたし、推測航法(航行した速度と時間を見積もり、磁気コンパスの磁針が示す方位にしたがって船の位置を測定する方法)を使えば、沖合でおよその船の位置を割りだすこともできた。磁気コンパスが革新をもたらした結果、ヴェネツィアの船隊は年に二度の往復が可能になつた。また、海外で越冬しなくてもすむようになつた。航海に磁気コンパスを使うようになつてからすぐ、ヴエネツィアはさらなる好景気に沸いたのである。」
 ※前掲参考文献@ P136

 この状況を理解するためには、地理で学習する地中海地域の気候、つまり、地中海性気候の特色がわかっていなければなりません。
 右図を見てください。
 日本と違って、地中海の気候は、春から夏にかけては雨がほとんど降らず、秋から冬にかけては比較的降水量が多い気候です。(といっても、全体の降水量はにほんとは比べものにならないくらい少ないですが・・。)
  
 ということは、「羅針盤」がなく、太陽や星を見て船の位置を確認していた時代においては、雲が多く雨が降る秋から冬にかけての地中海は、とても航海しづらい海でした。
 そのため、上の引用文にあるように、夏にヴェネチアから東方へ向かった艦隊は、目的地で冬を越し、5月になってヴェネチアへ戻ってきました。
 ところが、「羅針盤」の登場によって、冬でも方位が確認できるようになったため、1年に2度の航海が可能となったのです。

Wルネサンスの3大発明

 次に、ヨーロッパに於ける羅針盤の改良の時期について確認です。
 世界史の教科書の記述では、「羅針盤」は「ルネサンス」の「科学と技術」の説明の所に記述されています。しかし、地中海における「羅針盤」の改良は、12世紀から13世紀にかけてのことです。
 初期イタリアルネサンスを代表するダンテの生没年が1265−1321で、彼がかの
『神曲』を著述を開始したのは、1305年のこととされています。したがって、「羅針盤」はいわゆるルネサンスの時期より、はやく改良(ヨーロッパ的には発明)がなされていたわけです。 

ちなみに、 ダンテの『神曲』にも、「羅針盤」のことが出てきます。
「すると新たな光の一つの中心から声が聞こえ
 私はそちらを振り返った
 まるで北極星の位置を指す針のように」
 比喩的な文章ですが、「羅針盤」を示しています。


 したがって、「羅針盤」の位置づけは、次のように、通説を修正して理解するのが、より真実です。
「 ふつう、「ルネサンスの三大発明」とよばれる技術がある。活版印刷、火薬、羅針盤である。これに、機械時計をあわせ四大発明ともいう。そう信じられてきたが、じつはグーテソベルクの印刷術をべつにすれば、それらの発明はルネサンスよりもはるか以前の十二、三世紀に、ヨーロッパ各地で野心ある職人たちによって達成されていた。しかも、確証に欠けるとはいえ、東方の
地中海イスラーム世界からのヒントによって、改良や実用化がすすんだものである。すでにルネサンス時代には、卓抜の職人がその技術をマスターしていた。火薬は、大砲に、ついで鉄砲にとりいれられた。羅針盤は地中海から、やがては大西洋に進出するだろう。時計は、もう都市の広場で公共の用に供されていた。」
  ※前掲参考文献 BP178

 ミニチュア羅針盤でも、ちゃんと取りけ面がどんな風に傾いても、磁石面は水平になるように作られています。 


Xイタリアの町アマルフィー

 ところで、ヨーロッパに於ける「羅針盤」の発達は、もちろん、一人の人物によってなされたものではなく、長い年月かけて工夫・改良され続けられたことによるものです。

 ところが、実は、ヨーロッパのある国のある都市には、どういう独断と偏見か、「羅針盤」を発明した人物というのが存在し、町の中に立派な銅像が建っています。
 その町は、
イタリアのアマルフィー(Amalfi)、発明した人物は、フラヴィオ・ジョイア(Flavio Gioia )といいいます。

アマルフィーを紹介するホームページはこちらです。

その中の photogalley の中に Flavio Gioia のブロンズ像の写真もあります。


 まず、このアマルフィーについて説明します。
 
 アマルフィーという町といわれても、よほどイタリア通でなければどこにある町かわかりません。(私もそうでした(--;))
 
 地図をご覧ください。
 アマルフィーはイタリア南部、ナポリの南にある、小さな入り江をもつ美しい港町です。現在は。町の大きさは対したことありません。高校生が地理の時間に使う地図帳でも、その存在が無視されてしまっているのが普通です。

 しかし、この町に行くと、この町とその住人のある人物の歴史上の偉大さが、町の通りのアーチの銅板に次のように刻まれているそうです。
「イタリアの全都市及びアマルフィーは、偉大な磁気コンパスの発明を尊重するべきである。これなくしては、アメリカとその他の未開の地で文明が開かれなかったに違いない。アマルフィーはこのまぎれもないイタリアの名誉を記念し、幸い磁気コンパスの発明者となった、当地にうまれた不滅の子、フラヴィオ・ジョイアに特別な栄誉を贈る。−1302年〜1902年」
 ※前掲参考文献 @P19
 
 つまり、この町の「常識」では、この町の住人フラヴィオ・ジョイアが羅針盤を「発明」し、それが、1302年の事だというのです。
 これは、どのような伝説で、またどのような事実を反映したものでしょうか。

 結論から言うと、もちろん、フラヴィオ・ジョイアなる人物が羅針盤を発明したわけではありませんし、また、その人物さえも、1302年頃にこの町に本当にいたかどうかは、疑問視されています。
 しかし、この町が、地中海地域で羅針盤の利用が広まっていくということに関しては、実際に功績があった町であることは間違いがないのです。今は世界的には知名度がほとんどないこの町が、です。

 アマルフィーという町は、 昔は大きな町だったのでしょうか?
 アマルフィーの説明の前段として、アマルフィーの北西にある有名な都市、
ナポリについて説明します。
 ナポリの歴史は古く、紀元前5世紀、当時地中海世界で隆昌を極めるギリシア都市国家群の植民都市として建設されました。当時は、ギリシア語でネアポリスといいました。同じ起源をもつ有名な都市に、ギリシア古代名でいうマッシリアがあります。地中海沿岸の町で、マッシリアという発音に近い現代の都市はというと・・・・・、フランスのマルセイユです。

 紀元前4世紀以降、ナポリはローマ領となり、ナポリ湾はローマ艦隊の停泊地の一つでした。アマルフィーは、伝説によるとローマ皇帝コンスタンティヌス1世によって、4世紀前半に建設された都市と伝えられています。

 ローマ帝国の分裂ののち、西ローマ帝国が滅ぶと、ナポリとアマルフィーは一時ゲルマン民族の東ゴート族の支配下に入り、6世紀には東ローマ帝国領となります。両都市は、コンスタンチノープルと結ぶ海上交易路の拠点として、繁栄します。

 フランク王国が北イタリアを版図に広げていた8世紀は、ナポリとアマルフィーは別々の大公が支配する都市国家となっており、やがて、ナポリが異民族に征服されると、アマルフィーはその海上支配権を受け継ぎ、北のヴェネチアと並んで、コンスタンチノープルを経由して東方と貿易をする都市国家としてさらに発展しました。

 1071年アマルフィーはノルマン人に征服され、12世紀にはノルマン人がシチリアを中心に建国した
両シチリア王国の支配下に入りますが、アマルフィーはそのもとで強力な艦隊を保有して、繁栄を続けました。
 アマルフィーでは、海洋法典が制定されましたが、その『
アマルフィー海洋法典』は、13世紀から16世紀にかけて地中海全域で通用した規範となりました。
 
 つまり、
地中海で「羅針盤」が発達していくころ、今は無名のアマルフィーが、実は、北イタリアのヴェネチア・ピサ・ジェノヴァなどと並んで、地中海の海運を支配する町だったのです。

 こういう状況が背景となって、アマルフィーで「羅針盤が発明された」という伝説がうまれ、さらに、その発明者が、のちになって、フラヴィオ・ジョイアとされてしまったわけです。
 この「事実」は長く疑問が差し挟まれず、1902年の「発明600周年記念」の年には、冒頭で紹介した、ブロンズ像も作られたのです。

 しかし、この600周年の時には、同時にフラヴィオ・ジョイアの存在に対する疑問の声もおこり、その後の調査によって現在では、実在の人物ではないとの説が多数派となっています。
 ※前掲参考文献 @P86−103

 アマルフィーの繁栄は、長くは続きませんでした。
 北イタリアの諸都市とのうち続く戦いに疲弊したアマルフィーは、14世紀前半、ペストの流行にもおびえます。そして、1343年11月24日夜、決定的な災害がやってきます。
 この時、アマルフィーは地震と嵐に見舞われたのです。これにより、港は壊滅しました。かてて加えて、1348年にはペストが猛威を振るい、アマルフィーは海運大国の地位から滑り落ちました。
 そして、「伝説」だけが残ったのです。

現在、船舶で実際に使われているコンパスを製造している会社は、こちらです。

 ○株式会社 豊國 http://www.toyo-kuni.com/products_umi.htm

 ○株式会社 トキメック TOKIMEC INC http://www.jsmea.or.jp/kaiin/tokimec