日記・随筆 2023-01

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156 2023年07月01日(木)復活の記  なぜ再開したか    

◆中断の理由
 旧「未来航路」を再開するにあたって,まず最初に今から9年数ヶ月前に突然旧「未来航路」を停止・中断することになってしまった理由を説明します。主たる理由は二つあります。
 一つ目の理由は,管理職としての仕事量が予想以上に増加し,仕事に全力投球するためには,HP作成に多くの時間を費やすことができなくなってしまったからです。
 当時の旧版「未来航路」は,自分で言うのもなんですが,これまた全力投球の優秀作品ばかりでしたから,これでは両立は不可能でしたし,下手をすれば共倒れになってしまいます。時間的に余裕がない,取材する物理的内容が薄くなる,加えて精神的ストレスも増加する等の理由から,泣く泣く,断腸の思いで旧版「未来航路」を中止することにしました。


 写真-01 2013年度の夏の高校野球岐阜県大会の開会式(撮影日 13/07/12)

 いわゆる余談,「脱線」です。
 夏の甲子園野球は我が国では壮大なイベントとなっているのはご承知のとおりです。この開会式にしても,主役の野球部員のみならず,アナウンサー役の放送部員,大会歌を歌う合唱部員,入場行進のマーチを演奏するブラスバンド部員,グランド整備役の補欠野球部員,看護師,審判員,教育長をはじめとする来賓,そしてスタンドには部員の保護者を中心とする応援団・観客。参加者は数千人から1万人規模になります。
 1万人規模のイベントを開催するにはなかなかの覚悟とできうる限りの周到な準備が必要です。その上で神のご加護も。
 2013年の開会式は記録に残るようなことは何も起こらず,無事終えることができました。ところが翌2014年の開会式は危機一髪でした。
 そもそも地方大会の開会式の日程は,甲子園大会の開会式から逆算して競技日程・審判員の割り振り、開催野球場の数などを勘案して決められますが,概ね7月上旬から中旬の開催となります。間の悪いことに,梅雨末期の一番天候が不安定な時期における開催となってしまうのです。
 2014年度の天候は微妙でした。早朝4時の段階では岐阜市近辺には雨は降っておらず開催を決断しましたが,タブレットの天気予報の雨雲予想を見ると岐阜県・三重県境には,分厚い雨雲があり,そのまま進むと正午前後に岐阜市上空に到達することが予想されました。

 開会式は午前10時に始まりました。グランド上の役員席から周囲を確認すると,ライトスタンドの向こう(西方向)は真っ黒で.その雨雲がやってくる前に開会式を終えてしまわなければ,上の写真に写っている多くの高校生をずぶ濡れにしてしまうことは容易に予想できました。
 選手の入場・整列の後,優勝旗の返還,高等学校野球連盟会長挨拶。
 この時点で空の様子はもう限界を示していました。雨はもちろんもっと怖いのは雷です.もし、「ピカ,ゴロッ」ときたら直ちに避難となってしまいます。
 次の朝日新聞社岐阜支社長挨拶が始まったとき,私は決意しました。
「次の2人の挨拶を飛ばしてしまおう」
 私は2人の挨拶者,岐阜県副知事(知事挨拶代理者)・岐阜市副市長(市長挨拶代理者)のもとに駆けより事情説明とお詫びを行い,ついで高野連事務局長にその旨を告げ,司会進行役の女子高生に事情の説明と台本にはないアナウンスをアドリブで行うことを依頼し,何事もなかったかのように迅速に場面を動かしました。
 最後の選手宣誓が終了した直後,まるで計ったかのように大粒の雨が落ち始め,数分のうちに土砂降りとなりました。
 危機一髪でした。多くの人の命を守るには正しい情報と研ぎ澄まされた感覚が必要です。 

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 旧版「未来航路」を中断したもうひとつの理由は,病気です。しかも二つも。
 これはこの次の回で詳しく話そうと思っていますので,今日は先ずは概略だけ報告します。
 病名は,➀➁脊柱管狭窄症による座骨神経痛です。
 あろうことかこの二つの病が2013年冬頃からちょうど時を同じくして発症しました。検査等の時間に自由時間が費やされたという事も事実ですが,ふたつとも,特に➀は,症状の発症から病名の確定までに時間がかかり,そのこと自体が別の病気を生み出しました。
「鬱的症状が強いようですな」と心療内科の医師に言われた時はショックでした。

 かくて二つの要因により,旧版「未来航路」は,中断のやむなきに至ったのです。


Ⅱ 復活を促す要因
 中断の二つの要因のうちはっきり言って二つ目の病気の方は,9年前と現在を比べると,比べものにならないぐらい悪化しました。それなのに何故再開できるのか?
 もうひとつの「校務の忙しさ」が退職によって”ゼロ”になったからです。昨年度「教職50年>」を無事勤め上げたのを契機に,この3月末で全ての仕事から引退し,完全な無職となりました。
 退職すると流石に自由時間が増えました。
 しかし,ただヒマだからWebページを作るのではなく,何か面白いことを他人に伝えたいという思いから,より積極的にコミュニケーションを取りたいという思いから,新しいページの創造に向かいたいと思います。
 同じ旅行に行くのでも写す写真の枚数は,あとでWebページを作ろうという場合は何もしない場合の2~3倍になります。旅行中に取るメモの量は比較できないぐらい多くなります。
 教えたいという意欲は学びたいという意欲を増幅させ,まだ見ぬ夢の完成に向かってゆっくりながら近づいていくことになるのです。 


【補足】「教職50年」の意味
 上記のⅡの部分に.「教職50年」と書きましたが,同期の友人A子先生から,
「M先生,計算が合いません。教職50年は多すぎません?」
「さすが,A子先生。実は少しまやかしがあります。本来は,38年+8年=46年です。しかしこれではインパクトが弱いので,ちょっと思いを巡らしました。大学4年間、長短こそあれ毎年,中学生相手に家庭教師をやっていました。「教師」ですから,カウントに入れても良いのではないかと勝手に思いました。音楽バンドで言うのなら,メジャー・デビューの前のインディーズの時代となるでしょう。
 かくて,「教師歴50年」となりました。  またまた余談ですが,家庭教師で教えた中学生は延ベ4人。
 そのうち,野球部員としても活躍したT君は,50年後の現在は,地元の中堅企業の2代目社長として活躍中です。
 2年間教えた私の下宿先の向かいの家のMちゃんは,無事地元京都の名門女子大学の付属女子高校に合格しました。この子の場合は.本人の実力以上の力が出たと思います。何と言っても彼女は私の教え方を気に入り,毎回の「授業」を楽しみにしていましたから。
 彼女のお母さんは,お世話になったお礼にと,京都高島屋で態々自分で蒸して食べるタイプの肉まんを買ってきてくれました。なんと5個も。ところが,私の下宿には「蒸し器」なる気の利いたものはありません。一計を巡らし,電気ポットの上部に針金で懸架装置を作ってぶら下げる方法を考案し果敢に挑戦しましたが,大方の予想のとおり肉まんは湯中に落下しました。
 毎回工夫しましたが革命的な進展はなく,30分後には肉まんの五つの「水死体」が残りました。もちろん食べました。
 
 Mちゃんはその後名門女子大に進学し,1983年には京都府の教員採用試験に合格し,中学校の教員になりました。風の便りに,「家庭教師の先生との勉強が面白かったから自分もそう教えたくて先生になった」と聞きました。
 もしかしたら,彼女は,私が「教師として」他人の人生に影響を与えた最初の人かもしれません。

 その少女も今年で定年退職となるはずです。長い時間が流れました。

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