現物教材 世界史10

 原始・古代・地域世界008  アラビア語コーラン                    | 目次へ

 アラビア語で書かれた、コーランです。
 タイトルでは、これまで日本で普通に使われたコーランという表現を使いましたが、以後の説明では、正式な呼称である「
クルアーン」という表現を使います。(もっと正確には、冠詞を付けて、「アル・クルアーン」です。)

 まずはその写真です。
 

これは外見です。しっかりした箱に入っています。

 第1章開扉(または開端)の章のページです。


 2001年9・11テロ事件以来、イスラーム教に対する関心が高まっています。

 そもそも一般的日本人にはあまりなじみのないイスラーム教ですが、それゆえ、教師の浅い知識のために、誤った情報に基づくステレオタイプな理解に生徒を誘導してしまう恐れも考えられます。

 それを防ぐため、教える側自身、これまでの知識をチェックして、できるだけ、正確にイスラムの世界を伝えたいものです。そう思って、教科書に書いてあることを、あらためてちょっと深く勉強し直してみました。

 次の項目について説明します。

1 クルアーン入手先
2 クルアーンは誰がつくった?
3 アザーン及びクルアーンの読誦
4 ユダヤ教・キリスト教・仏教 


写真中央の小さな白いものが穂高書店の看板です。とても地味な書店です手前の、東西に走るすずらん通に面した茶色のビルの脇に入口があります。
 クルアーン入手先   | 先頭へ |
  クルアーンの日本語訳はいくつかの版が存在します。
 しかし、アラビア語の本物のクルアーンは、本来イスラーム教徒のためのものであり、普通の日本人がそこらの本屋で購入できると行った安易なものではありません。
 これはクルアーンを、例外的に一般向け販売をやっている東京神田の穂高書店で購入しました。
 価格は、3200円。
 電話等で注文することもできます。
  ※穂高書店 
    東京都千代田区神田神保町1−15 杉山ビル4F
    03-3233-0332 ウェブサイトはこちらです。

2 クルアーンは誰がつくった?  | 先頭へ |

 高等学校の教科書には、クルアーンについてこんな説明がなされています。
「この町に生まれたクライシュ族の商人ムハンマドは、610年頃唯一神アッラーの言葉をさずけられた預言者であると自覚し、さまざまな偶像を崇拝する多神教にかわって、厳格な一神教であるイスラーム教を唱えた。(中略)

 イスラーム教の経典『コーラン』は、
ムハンマドにくだされた神の言葉の集成であり、アラビア語でしるされている。」
 ※佐藤次高・木村靖二・岸本美緒著『詳説世界史』(山川出版 2003年)P102

 このページには、ムハンマドがどういう人物であるか、また、クルアーンが何であるか説明されていますが、では、クルアーンは上記の表現でいうと誰が「
集成」したのでしょうか。
 次の選択肢の中から選んでください。
  1 ムハンマド自身
  2 ムハンマドの周囲にいた誰か
  3 死後ずっと後世になってまとめられた

クルアーンの第1章 開扉(または開端)の章

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において、
万有の主、アッラーにこそ凡ての称賛あれ、
慈悲あまねく慈愛深き方々、
最後の審(さば)きの日の主宰者に。
私たちはあなたのみ崇め仕え、あなたのみ御助けを請い願う。
私たちを正しい道に導きたまえ、
あなたが御恵みを下された人々の道に、
あなたの怒りを受けし者、また踏み迷える人々の道ではなく。

 ※赤字部分はアッラーを意味する

「日亜対訳・注解聖クルアーン」(日本ムスリム教会発行・第7刷)等より


 正解は、2です。
 教科書にも書かれているように、ムハンマド自身は、神ではありません。イエス・キリストや、仏陀のように神扱いも受けません。
 彼は、唯一絶対神アッラーのことをば人々に伝える、「預言者」(神の言葉を預かっている人)です。
 のちにクルアーンにまとめられたのは、ムハンマドを通して語られた神の言葉、啓示なのです。
 ムハンマドが神の啓示を初めてうけたのは、彼が41歳の時です。そのあと、63歳で死ぬまで、22年間にわたって啓示を受け続けました。

 ムハンマド自身は読み書きができませんでした。(これは意外です)その結果、神の啓示は、周囲にいた啓示を記録する人々によって記録されました。
 その数は24〜26人と伝えられています。彼らはナツメヤシの葉や石版、あるいは動物の皮などにクルアーンを記録しました。また預言者ムハンマドのもとには多くのハーフィズ(クルアーンの暗誦者)たちがいました。啓示の都度記録されたクルアーンは預言者の生存中は彼の家に保管されていました。

 
 そして、632年の彼の死後まもなく、それらは現在あるような形に収集され、配列されたのです。
 さらに、650年代の初めに、3代目カリフであるウスマーンのもとで学者たちが正式に編集しました。 これが現在まで続く正典とされています。


 この点は大事ですが、クルアーンには、ムハンマド自身の言葉は含まれていません。すべて、神の言葉です。ムハンマドはあくまで神の預言者なのです。


3 アザーン及びクルアーンの読誦   | 先頭へ |

 世界史の教科書には、次のように書かれています。(前掲書P102)
「イスラーム教徒の礼拝 
 イスラーム教徒は、1日に5回メッカに向かって礼拝(サラート)をおこなう。とくに金曜日正午には、町の大モスクに集まって集団礼拝がおこなわれる。」

 イスラーム教徒の信仰の厚さ、宗教と生活の強い結びつきを理解するには、この、礼拝を取り上げるのが、一番てっとりばやいでしょう。
 (以前、勤務していた学校にインドネシアからイスラム教徒の留学生が来た時は、彼女が礼拝をするための部屋を準備しました。)

 しかも、その礼拝に関する音を授業中に紹介することができます。
 
アザーンクルアーンの読誦です。

 イスラーム教国では、1日5回の礼拝の時間には、寺院(モスク)から、礼拝を呼びかける声が、スピーカーで流れてきます。これがアザーンです。
 本来は肉声でしたが、今ではスピーカーが使われています。
 その内容は、以下の通りです。 
アッラーは偉大なり(×4回)

「×2回」というのは繰り返しの回数を意味します。

アッラーのほかに神はなしと私は証言〔/告白〕する(×2回)
ムハンマドはアッラーの使徒であると私は証言〔/告白〕する(×2回)
礼拝に来たれ(×2回)
成功のために来たれ(×2回)
( 礼拝は眠りよりもよい )(×2回)
アッラーは偉大なり(×2回)

 ※参考文献 佐藤次高編『キーワードで読むイスラーム』(山川出版 2003年)

 クルアーンとは、本来、「読誦」を意味する言葉であり、この経典は、「読誦」することに神々しい価値があるのです。(これは、ある意味では、仏教の経典、お経も同じですね。)


 アザーンやクルアーンの読誦は、いくつかのサイトで、ダウンロードできます。
 私は、アラブ イスラーム学院のサイトから、ダウンロードしました。
  ※トップページはこちらです。 アザーンのダウンロードはこちらです。
  ※アラブ イスラーム学院は、サウジアラビア王国の政府予算で運営されている学校です。
    住所 〒106-0046 東京都港区元麻布3−4−18 
  ※
クルアーンのそれぞれの章の読誦は、こちらのページからダウンロードできます。
 
 また、個人のサイトですが、「イスラームの道しるべ」でも、アザーンはダウンロードできます。
  ※トップページはこちらです。  アザーンなどアーカイブのダウンロードはこちらです。
 
 また、東京の宗教法人イスラミックセンタージャパンのサイトでは、クルアーン読誦のカセットテープ、礼拝指導テープを購入できます。いずれも、500円と安価です。
 ※イスラミックセンタージャパンのサイトはこちらです。 グッズの販売はこちらです。

 
 音も重要な現物教材です。
 


4 ユダヤ教徒・キリスト教徒・仏教徒    | 先頭へ |
 

世界史の教科書には、次のように書かれています。(前掲書P102)
「ムハンマドは『旧約聖書』と『新約聖書』をイスラム教にさきだつ神の啓示の書と見なしたから、ユダヤ教徒とキリスト教徒は「啓典の民」として信仰の自由を認められた。」 

 つまり、たとえば、ユダヤ教のモーゼとか、キリスト教のイエスとか、ムハンマドに前に生きていたこれらの人々も、神から啓示を受けた人々なのです。
 イエスより、600年ほどのち、ムハンマドが現れ、彼こそが、神の最終の言葉を伝える人と言うことなのです。

 クルアーンの第2章雌牛の章の冒頭には次のように書かれています。

 慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。
 アリフ・ラーム・ミーム。(この句は、おまじないのようなもの)
 それこそは、疑いの余地のない経典である。その中には、主を畏れる者たちへの導きがある。
 主を畏れる者たちとは、幽玄界を信じ、礼拝の務めを守り、またわれが授けたものを施す者、
 またわれがあなたに啓示したもの、またあなた以前に啓示したものを信じ、また来世を固く信じる者たちである。
 これらの者は、主から導かれた者であり、また至上の幸福を成就する者である。


 

文中赤字のあなたとはムハンマドを示し、以前に啓示したものとは、ユダヤ教徒キリスト教を指します。

 したがって、クルアーンには、キリスト教の聖書と同じ出来事が登場します。
 同じく、第2章雌牛の章の第35節から39節には、次のようなくだりがあります。
 これは何の物語かわかりますか?

 われは言った。「アーダムよ、あなたとあなたの妻とはこの園に住み、何処でも望む所で、思う存分食べなさい。
 だが、この木に近付いてはならない。不義を働く者となるであろうから。」
 ところが悪魔は、二人を躓かせ、彼らが置かれていた場所から離れさせた。
われは、「あなた方は落ちてゆけ。あなたがたは、互いに敵である。
地上には、あなたがたのために住まいと、仮初の生活の生計があろう。」と言った。
 その後、アーダムは、主から御言葉を授かり、主はかれの悔悟を許された。
本当にかれは、寛大に許される慈悲深いお方であられる。
 われは言った。「あなたがたは皆ここから落ちて行け。やがてあなた方に必ずわれの導きが恵まれよう。
 そしてわれの導きに従う者は、恐れもなく憂いもないであろう。
 だが信仰を拒否し、われの印を嘘呼ばわりする者は、
業火の住人であって、永遠にその中に住むであろう。」


 これは、『旧約聖書』のアダムとイブの物語と同じものであることに気が付かれたと思います。

 したがって、イスラム教徒から見て、ユダヤ教徒とキリスト教徒は、本来、仲間内の信頼が置ける者と言うことになります。
 これが、冒頭の教科書の表現の意味する所です。

 では、我々日本人の多くが信仰する仏教はと言うと、イスラーム教徒からは次のように考えられています。

 そう言えば、昔、あるとき、敬虔なイスラム教徒と話をしていて、
「異教徒と結婚しちゃいけないの?」
 と尋ねれば、
「駄目です。ユダヤ教徒やキリスト教徒なら許されるけど」
「え?仲わるいじゃない」
 現下のパレスチナ情勢を思えば、仲の悪さは論を待たない。
「でもユダヤ教もキリスト教も同じ一神教ですから」
 と彼は鼻を蠢かしながら言うのである。
 ひとくちにイスラム教徒といっても結婚制度については時代により国柄によりいろいろな慣行があるだろうけれど、本筋は右に述べた通りらしい。
「仏教徒は?」
「いけません。多神教だし・・・・仏教は宗教じゃないのとちがいますか。あえて言えば哲学・・・。人間が考えたことです。イスラム教は神が直接伝えてことですから」
「ユダヤ教も、キリスト教も、そうなんだ」
「はい。同じ一神教です」
 ※阿刀田高著『コーランを知っていますか』(新潮社 2003年)P9

 

 大島直政氏によれば、イスラームの人々にとって、日本人とは、欧米人と同じように「異教徒」である。
 しかも、仏教徒は、キリスト教徒より、ずっと信用が低い。イスラーム教徒の一般的感情からすれば、「キリスト教徒は嫌いだが、他の連中よりずっと信頼できる。何しろ、預言者イーサーの教えを誤解しているにすぎないからだ」ということになるのである。
 ※東隆眞著『日本の仏教とイスラーム』(春秋社 2002年)P9


 イスラーム教については、他にもいろいろなポイントがありますが、ここではこのくらいにして、また項をあらためてお話しします。