現物教材 政治5

 政治005 原子力潜水艦模型                  |現物教材:目次:現代社会へ |         

 原子力潜水艦の模型(プラモデル)です。
 次の3点を学習のポイントとして説明します。

1 冷戦時代の米ソ潜水艦
2 冷戦後の米ロ核戦略と潜水艦
3 ロシアの原子力潜水艦と日本


 つまり、2隻のプラモデルをもとに、冷戦中・冷戦後の核戦略と、原子力・環境問題まで取り扱います。

<参考文献>

@

江畑謙介著『最新・アメリカの軍事力 変貌する国家戦略と兵器システム』(2002年 講談社現代新書

A

新原昭治著『「核兵器使用計画」を読み解く アメリカ新核戦略と日本』(2002年 新日本出版社)

B

仙洞田潤子著『ソ連・ロシアの核戦略形成』(2002年 慶應義塾大学出版会)

C

デビッド・ミラー著・秋山信雄訳『世界の潜水艦』(2002年 学習研究社)

D

小滝國雄ら著『現代の潜水艦』(2001年 学習研究社)

E

坂本明著『【大図鑑】世界の潜水艦』(1999年 グリーンアロー出版社)

F

読売新聞社編『兵器最先端7 ミサイルと核』(読売新聞社 1986年) 

G

池上彰著『そうだったのか現代史2』(集英社2003年)


まずは、プラモデルの紹介です。 ※白熊と原子力潜水艦の写真はこちらです。  


アメリカ弾道ミサイル原子力潜水艦オハイオ型
  ※ドラゴン社のプラモデル(05/05/15現在価格 2980円)

旧ソ連弾道ミサイル原子力潜水艦タイフーン級(NATO名、ソ連名はアクラ級)
  ※ドラゴン社のプラモデル、ドイツのレベル社にもおなじ製品有り(05/05/15現在価格 3360円)

<商品入手>
 この二つの模型は、ちょっと年代が古いものですから、現時点では簡単ではないかもしれません。最寄りの模型店や、オンラインショップでの注文ということになりますか。
 オンラインショップの一つを紹介します。
  ※ノースポート http://www.northport.co.jp/index.htm


1 冷戦時代の米ソ潜水艦                | このページの先頭へ |  

 この二つの潜水艦が作られたのは、米ソ冷戦時代の末期で、その建造は米ソの核をめぐる戦略における象徴の一つでした。
 まず、ミサイルの話からします。
 第二次世界大戦後、アメリカに続いてソ連も水爆の保有を実現します。
 しかし、今と違って1955年時点では、その核爆弾をアメリカとソ連が相手国に見舞う手段としては、長距離爆撃機による投下しかありませんでした。
 ところが、1957年8月、ソ連はアメリカに先駆けて大陸間弾道ミサイル(ICBM)の発射実験に成功し、直後の10月4日には、世界で初の人工衛星スプートニクの打ち上げにに成功しました。
 この成功に自信をもった当時のソ連首相フルシチョフは、この年秋に開かれていたモスクワにおける12カ国共産党・労働者党会議で、「ミサイル核優先主義」という新しい軍事理論を提唱し、まだICBMを保有していないアメリカに対して軍事的優位(ミサイルギャップ)を背景に、「平和共存外交」の推進と戦争の防止を呼びかけました。
 ただし、実際には、この時点でのソ連のICBMの戦力は、まだアメリカにとって脅威といえるほどのものではなく、これはたぶんにフルシチョフのハッタリ的行動といえるものでした。彼は、「平和共存」のもとで、「大砲よりもバターを」という国内経済の振興を計る必要があったのです。

 対するアメリカのアイゼンハワー政権では、U2スパイ偵察機の写真撮影などによって、軍当局にはミサイルギャップが存在しないことを認識されており、大統領自身も軍拡には積極的ではありませんでした。
 しかし、ソ連が弾道ミサイル搭載の潜水艦の建造を開始し、また、ニミッツ国務省政策企画室長らの起草した大量軍拡(ゲイサー報告)が提案されると、アメリカでもICBMやSLBM(潜水艦搭載弾道ミサイル)及びそれを搭載する原子力潜水艦の開発・大量生産がはじまりました。

前掲書B P77

どこまで真実かわかりませんが、このころ起こったソ連潜水艦での事件を元にした映画が、あのハリソン・フォード主演の「K−19」です。1961年のソ連原子力潜水艦の事故を舞台にしています。(2002年アメリカ映画)


<アメリカのSSBN オハイオ級>
 この過程で、1959年、初めて
弾道ミサイル原子力潜水艦ジョージ・ワシントンが進水し、1960年6月には、潜水状態のままポラリスA−T弾道ミサイルの発射に成功しました。
 こうして、アメリカが先に、
弾道ミサイル原子力潜水艦(または戦略ミサイル潜水艦、アメリカの略号でSSBN)を開発したのです。

 これ以後、イーサン・アレン級(ポラリスA−U搭載)、ラファイエット級(ポセイドン搭載)と続き、1976年には、
トライデントミサイルを積載するオハイオ級の建造がはじまりました。このプラモデルの潜水艦です。オハイオ級は、1981年に1号艦オハイオが完成し、以後、1997年までに合計18隻が就航しました。

 潜水艦の性能向上とともに、ミサイルの射程も飛躍的に長大化しました。
 1960年配備の最初の潜水艦搭載弾道弾(SLBM)
ポラリスは、射程が2200キロしかありませんでしたが、オハイオ級に搭載されているトライデントは、射程が8000キロもあります。
 このミサイルの発達は、SSBNの優位性を飛躍的に向上させました。

 たとえば、モスクワに弾道ミサイルを撃ち込む場合、ポラリス搭載のSSBNは、スカンジナビア半島の沖か、ムルマンスク沖合のバレンツ海にまで忍び込まなければなりません。
 しかし、射程8000キロのトライデント搭載のオハイオ級は、北東太平洋やアメリカ東海岸の大西洋からモスクワへミサイルを撃ち込むことができます。 


アメリカSSBNオハイオ級

1981年から1997年まで合計18隻完成 射程8000キロのトライデントミサイル24基搭載

全長

170.7m

最大幅

12.8m

排水量

水中 18,700トン

最高速

水中20ノット以上

乗員

157名

  ※参考文献C・D・Eより
 それまでの、ラファイエット級に比べ、ミサイル搭載数が16基から24基に増加。
このクラスのSSBNの建造に対し、アメリカ議会は当初、建設費の増加から反対していました。しかし、同時期、ソ連海軍が射程6760キロのSLBN、SS-N-8をデルタ級SSBNに搭載したことが伝わると、議会はトライデント計画を承認し、オハイオ級の建造がはじまりました。
 
 オハイオ級は、今後もアメリカの核戦略の一つの大きな柱と位置づけられ、原子炉の燃料を換装した上で、最も古い艦でも2020年を越えて、現役で使用される予定です。使用年数は40年を越える予定です。

 デンゼル・ワシントンとジーン・ハックマン出演の潜水艦映画「クリムゾン・タイド」(1995年製作)は、このオハイオ級の潜水艦アラバマ号をモデルに作られています。


<ソ連のSSBN タイフーン級> 
 一方ソ連の方も、ICBNやSLBM及びSSBNの開発を積極的に進めました。
 実は、原子力ではない通常動力の潜水艦にSLBMを搭載したのは、アメリカよりはソ連の方が先でした。
 ナチスドイツのロケットV2号を受け継いだSLBM、SS-N-4を搭載したズールー級は1956年から58年にかけて建造され、58年には、ソ連最初のSSBN、ホテル級が就航しました。

 これ以後、ソ連はアメリカをはじめとするNATO軍のSSBNを上回るべく、ヤンキー級、デルタ級のT・U・V・W型と建造を続けました。

 そして、社会主義国ならではの、コストを無視した超巨大潜水艦が写真のモデルのタイフーン級です。これは、これまでに建造された世界最大の潜水艦です。 


ソ連SSBNタイフーン級

1981年から1989年まで6隻就役
射程8000キロのSS-N-20ミサイル20基搭載

全長

171.0m

最大幅

24.0m

排水量

水中 25,500トン

最高速

水中25ノット

乗員

150名

※参考文献C・D・Eより

 オハイオ級と比較すると、全長はほぼ同じであるが、最大幅はタイフーン級が約2倍であり、そのため排水量もオハイオ級よ7000トンも多くなっています。
 甲板上もテニスコートが作れるくらい広く、潜水艦とは思えない巨大さです。
 また、弾道ミサイルをおさめる発射塔はセイルの前方にあり、そのため全体の形は、他の潜水艦に類を見ない形となっています。
 当初は7隻目の建造も計画されていましたが、ソ連崩壊後の情勢の変化で、建造はキャンセルされました。


2 冷戦後の米ロ核戦略と潜水艦            | このページの先頭へ |  
@核軍縮
 つまり、オハイオ級とタイフーン級は、米ソ冷戦時代の核戦力競争の産物でした。

 米ソが核兵器を最大限に保有していた1980年代、その核弾頭の数は5万発以上、破壊力にするとTNT火薬8万メガトン分でした。
 広島、長崎に投下された原爆のうち、より破壊力が強い長崎型(米国名称Mk3)の方が、TNT火薬換算約23キロトンですから、単純に割り算して、米ソ両国で、長崎型の核爆弾347万8千発分を保有していました。
 これらの核兵器をすべて使用した場合、詳細な計算は省略するとして、1兆2000億人分を殺戮できるとされていました。
 驚くべき「オーバーキル」の状態でした。

 しかし、1980年代は、それ以前のような無制限の核開発競争の時代ではなく、核軍縮へと米ソ両国が歩みよりつつあった時代でもありました。
 教科書には、次のように記載されています。
「また、米ソ間の緊張が緩和され、対話が重なるに連れて、両国間では戦略兵器制限交渉
SALTT

SALTU)に続いて戦略兵器削減交渉が行われ、史上初の核軍縮条約である中距離核戦力(INF)全廃条約も締結された。(横注 米ソは1991年に戦略核兵器を削減する条約(第一次戦略兵器削減条約:STARTT)に調印、さらに、1993年には、戦略兵器の弾頭数を削減する条約(STARTU)が米ロ間で調印され、現在、STARTV交渉のための準備が行われている。)」
 ※佐々木毅他著『現代社会』(2003年東京書籍 P168−9)
 
 これでは、よくわかりませんし、ちょっと誤解している部分もありますから、もう少し詳しく、説明しましょう。

第1次戦略兵器制限交渉 SALTT

 ニクソン政権、ブレジネフ政権ですすめられた戦略兵器制限交渉のことです。1972年5月に調印されました。

 核ミサイルの戦力を、ローンチャー(発射機)の数ととらえ、その数を制限する方法をとりました。これは、実際のミサイルや核爆弾の生産数は把握しづらいですが、ICBMのサイロ、弾道ミサイル潜水艦の発射装置の数、戦略爆撃機数は比較的簡単に把握できるため、その数を規制したのです。
 ICBMのサイロ数、潜水艦のSLBMの発射装置、戦略爆撃機数をそれぞれ、1ローンチャーとして、次のように保有上限を定めました。

アメリカ

  

ソ連

1000

ICBM

1410

 710

SLBM

 950

 
 両国の数字が不揃いでソ連が多くなっています。理由は次の二つです。また、それは同時にこの交渉の問題点でもありました。 

  1. この条約が核ミサイルの削減ではなく制限のための条約であり、現状を追認する形での妥協となっていました。

  2. アメリカの方が、複数核弾頭(MIRV、例えば一つのICBMに複数の核弾頭をとりつけ、相手国上空で各目標に向かわ弾頭のこと。これだと、ミサイル発射台の数を規制しても、意味はありません。)の配備やミサイルの命中精度において、ソ連を上回っているとの自信がりました。逆に言えば、この条約では、核兵器のローンチャーの数がもっぱら問題となっており、個々の性能、つまり質的な問題は無視されていました。

  ※参考文献 FP15〜23

第2次戦略兵器制限交渉 SALTU

 このため、SALTTの調印の半年後から開始された次の交渉(SALTU)では、戦略兵器の数と当時に、その質も問題となりました。
 ソ連のブレジネフ政権と、アメリカのニクソン、フォード、カーター政権との交渉の結果、1979年に合意されました。

 その内容は次のとおりです。
 <ローンチャーの数>

アメリカ

  

ソ連

2283

調印時

2500

2400

条約成立時

2400

2250

1981年末

2250

 
 つまり、この交渉では、SALTTの現状追認とは違って、戦略兵器の数を将来には削減するという内容が盛り込まれました。
 また、
複数核弾頭(MIRV)

については、MIRV化したローンチャーの数を双方とも1320基以下にすることも合意されました。

 しかし、この条約は、1979年末にソ連がアフガニスタン侵攻を行うと、カーター大統領自らが議会に条約の批准を求めない演説を行うなど、米ソの対立が表面化し、条約としては結局批准されずに終わりました。

 ただし、後を受けたレーガン大統領は、全体としてはタカ派的政権でしたが、SALTUの内容を遵守する意向を示し、さらに、ソ連へ向けて、戦略兵器削減交渉(START)の開始を呼びかけました。
 当初は、ソ連の方も米国への不信からこの交渉には応じませんでしたが、この動きが、次の軍縮につながっていきました。
 ※参考文献 FP15〜23

第1次戦略兵器削減交渉 STARTT

 1982年からはじまった戦略兵器削減交渉は、米(ブッシュ大統領)ソ(ゴルバチョフ書記長)両首脳によって合意に達し、ソ連崩壊の直前の1991年7月、第1次戦略兵器削減条約が調印されました。

 この間の1987年、米(レーガン大統領)ソ(ゴルバチョフ書記長)両国は、中距離核兵器(INF)全廃条約に調印し、88年発効しました。
 射程500キロ以上、5500キロ以下の「中距離」核兵器を全廃するものです。対象となるのは、ソ連のSS20ミサイル、アメリカのパーシングUミサイルで、核弾頭はミサイルから取り外して保存し、ミサイル本体と発射装置は廃棄するという処置が行われました。
 ソ連は1752基、アメリカは866基を廃棄しました。 


 内容は次のとおりです。

  • ICBM、SLBM、戦略爆撃機に搭載される核弾頭数を10年間で約6000発に削減する。目標達成年度は、2001年。

  • ローンチャーの数を7年間で1600に削減する。

 先のSALTとは違って、本格的に戦略兵器を削減する初めての条約でした。
 

 ※参考文献 GP174〜177

第2次戦略兵器削減交渉 STSRTU

 第1次条約の調印以後、ロシアのエリツィン大統領とアメリカのブッシュ大統領との間で、第2次の戦略兵器削減交渉(STARTU)

が進められました。
 1993年1月、ブッシュ大統領の退陣直前、両者は合意に達し、モスクワで調印が行われました。内容は次のとおりです。 

  • 両国の戦略兵器の核弾頭数を、3000〜3500に削減する。

  • MIRVを全廃する。

 これはSTARTT以上に、飛躍的に核兵器を削減する内容でしたが、結論的にはこの条約そのものは発効しませんでした。

 東ヨーロッパ諸国がNATOに加入するいわゆる「
NATOの東方への拡大」、アメリカの弾道ミサイル防衛計画、ロシアの国内事情などの問題が絡んで、米ロ両国の議会での批准が遅れに遅れました。(アメリカ議会の批准は1996年1月)
  ※参考文献 @P100

アメリカの弾道ミサイル防衛計画について

 1972年、ニクソン大統領とブレジネフ書記長がSALTTを調印した時、もう一つ別の条約が調印されました。
 それが、「弾道ミサイル迎撃システムの制限に関する」(ABM制限条約です。これは、「相手が自国に向けて発射したミサイルを打ち落とすのはやめましょう」というちょっと奇妙な約束です。
 これが制定された理由は、核戦力による
相互確証破壊(MAD)

を維持する目的です。相互確証破壊とは、どちらが先にミサイルを発射しようが、核戦争となった場合は、確実にお互いが破壊されてしまうという状況を生み出すことによって、戦争を抑止するという考え方です。
 もし、どちらかの国が相手国から飛来するミサイルを片っ端から打ち落とす迎撃ミサイルシステムを開発したら、この相互確証破壊が成り立たなくなり、軍縮など意味がなくなってしまうからです。
 しかし、アメリカは、レーガン大統領以来、ミサイル防衛システムの構築を計画し、実現へ向けて多額の資金を費やしてきていたのです。

クリントン大統領は、エリツィン大統領とロシアの立場を次のように回想しています。1997年3月のヘルシンキ会談の時の様子です。

「エリツィンはいまだに、NATO拡大に対する国内の反発を恐れていた。会議中ふたりだけになったとき、わたしはエリツィンに尋ねた。「ポリス、NATOがポーランドの基地からロシアを攻撃すると、本気で思うか?」「いや、わたしはそうは思っていない」とエリツィンは答えて、「しかしロシア西部に住む国民の多くが、ジユガノフの言葉を信じて、そう思っている」と言った。ロシアはアメリカと違って、二度ナポレオンとヒトラーによって侵略を受けた経験があり、そのトラウマが今も国民の集団心理や国内の政治に影を落としているという話だった。わたしはエリツィンに、NATOの拡大と、NATOとのパートナーシップに同意するなら、新加盟国の領内に当面軍隊やミサイルを配備しないことと、新G8や世界貿易機関(WTO)などの国際組織へのロシアの加盟を後押しすることを約束するという提案を述べた。この提案が受け入れられて、交渉は成立した。
」  (中略)
「ロシア経済の崩壊にともなう国防予算の大幅な削減で、STARTUは、ロシアにとって受け入れにくい条約に変わっていた。STARTUがMIRVと呼ばれる多弾頭ミサイルを全廃して、両国の保有する単弾頭ミサイルの数を同数に揃えることを求めるものだったからだ。ロシアはアメリカよりも強くMIRVに依存していた。その結果、単弾頭ミサイルの数をアメリカと揃えるためには、新規に大量の単弾ミサイルを生産しなくてはいけなかったが、経済的にそうする余裕がなかった。わたしはエリツィンに、STARTUを利用して戦略的に優位に立とうとするつもりはないことを述べて、STARTVを含む新たな軍縮計画の策定を提案した。
STARTV

は、両国の保有弾頭数を冷戦期の20パーセント、つまり2000発ないし2500発

まで減らすという内容だった。その程度の弾頭数なら、ロシアも新たにミサイルを生産せずにすんだ。国防総省からはこれほど弾頭を減らすことに対して懸念の声が出たが、シヤリカシユヴィリ将軍が国防上問題ないという考えを示し、ビル・コーエンもその考えを支持した。こののち、エリツィンとわたしはSTARTUの批准期限を2002年から2007年まで延ばすとともに、ロシアが戦略的に不利な立場に置かれないよう、批准と同じ年にSTARTVを発効させることで合意した。」

 ※ビル・クリントン著楡井浩一訳『マイライフ クリントンの回想下巻』(朝日新聞社 2004年)P436−7


 ロシア議会は2000年3月、ようやくSTARTUを批准しました。
 しかし、アメリカが本土ミサイル防衛計画(NMD)の中止を決定するという条件を付けたため、結局は、この条約は発効には至りませんでした。

 同時に、ヘルシンキ会談以降、米ロ両政府間では、戦略兵器の核弾頭数をさらに削減して1500〜2500発

とするSTARTVの予備的な折衝が行われていましたが、STARTUが発効しない以上、正式な交渉ははじまりませんでした。
 ところで、クリントン回顧録にあるヘルシンキでの首脳会談では、戦略核弾頭数を2000〜2500発とされていましたが、その後、ロシアは、1999年8月のモスクワで開催された米ロ軍縮協議で、戦略核弾頭数を1500発以下とする提案を行いました。
 これは、当初考えられていた弾頭数では、ロシアの経済を考えた場合、その維持が難しいということからの下方修正でした。
 その前年には、セルゲーエフ国防大臣が、「
経済的には、500〜600の核弾頭しかもてない」と発言していることも伝えられており、ロシアにしてみれば、核軍縮は、過去のメンツとか問題ではない、経済と国力という現実的な問題になっていました。
 ※参考文献 BP126〜138

戦略攻撃能力削減に関する条約(モスクワ条約)

 これは、この項目の最初に掲載した教科書の引用には記載されていない最新の条約です。
 2002年5月、アメリカ・ブッシュ大統領は、モスクワにロシア・プーチン大統領を訪問し、戦略攻撃能力削減に関する条約、略して戦略攻撃能力削減条約(別名モスクワ条約)に調印しました。内容は次のとおりです。 

  • 2012年12月までに、日露日露両国が保有している戦略核弾頭を、現在の5000〜6000発から、1700発〜2200発までに削減する。

 実は、アメリカは2001年12月にABM制限条約を破棄する旨をロシアに通告していました。
 これについては、ロシアはアメリカの行動を非難する立場でしたが、プーチン大統領は、米国による措置が予想外のことではなかったこと、かかる決定は「間違い」であるとしつつも、ロシアの安全保障にとって脅威とはならないとする旨を述べ、抑制的な反応を示していました。
 このあと、プーチン大統領は、戦略攻撃兵器の弾頭数を1500〜2200発の水準まで削減することに関しても、米露間の合意を目指していく考えを明らかにしていました。
 
 ロシアとしては、アメリカのABM制限条約脱退によって、米ソ冷戦時代以来の相互確証破壊に立脚した核兵器の管理の枠組みが崩れることは遺憾なことでしたが、核弾頭数に関しては、自国の経済的な状況に合わせた、現実的な条約を結ぶ道を選んだと考えられるでしょう。


A核軍縮と潜水艦
 上述のような核軍縮の動きの中で、当然ながら、SSBN(戦略ミサイル搭載原子力潜水艦)の数も制限されてきました。

 アメリカのオハイオ級は、1981年から97年まで18隻も建造されましたが、1隻のオハイオ級は、24基のトライデントミサイル(SLBM)を搭載していますから、この潜水艦群だけで、18×24=432発の核弾頭が積載されていることになります。

 このため、オハイオ級も核軍縮の対象となり、18隻あるうち、4隻は、SLBMを撤去して、トマホーク巡航ミサイルを装備する潜水艦へと改良が進んでいます。
 24基のトライデント発射筒のうち、18基〜22基がトマホーク発射用に改造され、さらに、残り、2基〜6基が、海軍の特殊部隊SEALをはじめとする特殊部隊用の装備を収納するスペースと、水中で人員の出入りを可能とする特別室に改造される予定です。
 後者は、ソ連やロシアとの核ミサイル戦争に代わって現実化してきた各地域での局地紛争に、「水中」から戦力を派遣する能力を持たせるためのものです。ここにもアメリカの世界戦略の変化がうかがえます。 


3 ロシアの原子力潜水艦と日本   | このページの先頭へ |  

 では、ロシアの潜水艦の方はどうなっているのでしょう。タイフーン級は今も健在でしょうか?

@ロシアの核戦略
 ソ連崩壊後、ロシアの核戦略は次のように推移していきました。
  ※この部分は冒頭の参考文献BのP99〜161を参考にしました。

(1)

1993年の軍事ドクトリン 「海洋戦略の重視」

 1993年1月戦略兵器制限交渉STARTUが調印されたあと、同年11月、エリツィン政権は、ロシアの「新軍事ドクトリン」を公表しました。要点は次のとおりです。

  1. 通常戦力の大幅削減。ソ連時代の地上軍、空軍、海軍、戦略軍、防空軍の5軍種を改編し、陸海空の3軍種にからなる一般任務部隊、欧州有事にウラル軍管区から派遣される戦略機動部隊、核戦争を想定した戦略核部隊とする。これにともない、300万人の兵員を150万人に削減する。

  2. 新型のSLBMの開発により、アメリカの核戦略とのバランスをとる。

 2については、STARTによって戦略核ミサイルが削減されるため、各弾頭数を減らすと同時に、これ以後の核戦略を、地上発射の移動式ICBMまたは、潜水艦発射のSLBMのどちらにするかという議論がなされ、海洋国家アメリカとのバランスをとる上で、後者が最も望ましいと考えられました。
 つまり、この時点では、新しいSLBMの開発と、それを積載する戦略核ミサイル潜水艦(SSBN)の建造に重点を置いた核戦略が示されたのでした。

 すなわち、1991年には924基のSLBMを搭載していた62隻のSSBNが存在していましたが、1997年10月の時点では、632基のSLBMを搭載する42隻のSSBNへと縮小されました。
 この一方で、1996年11月には新しい
SSBNボーレイ級

の建造がはじまりました。この潜水艦に搭載のSLBMはタイフーン級と同じまたはそれ以上の長射程であるため、オホーツク海からではなく、北極海域のバレンツ海からアメリカ本土を攻撃することが可能です。
 これらの潜水艦群が配備されたのちには、2003年以降、オホーツク海の潜水艦基地は閉鎖される予定でした。

 

(2)

1997年の国家安全保障概念 「経済の危機」

 1997年12月、ロシアの包括的な安全保障政策の基本方針として、「国家安全保障の概念」が公表されました。
 これには次のことが示されています。

  1. 国内経済の危機的状況を前提とする安全保障政策をとる。

  2. 財政的な問題から、兵器の更新や将兵の訓練が不足し、2001年には軍備の80%が時代遅れとなると見通された。

 セルゲーエフ国防大臣は、「ロシアは『崩壊しつつある陸軍』と『沈みつつある艦隊』を維持

するか、軍隊の人員を削減し、最適規模にするか、二つの選択肢」しかないと発言しました。 

参考文献BP125

この発表の1ヶ月前には、北海で行われた新型SLBMの発射実験で、発射4秒後にミサイルが爆発するというという失敗が生じました。これは実は3回目の失敗で、これにより、新型SLBM及びそれを搭載するSSBNの開発は大幅に遅れることが確実になりました。


 この結果、翌1998年にかけて、次の政策が実行されました。

  1. SLBMの開発を延期して、核ミサイルは、地上移動式のICBM、トーポリMの開発に重点を移す。

  2. 1998年末までに、総兵力を120万人に削減。(92年以前の300万人の40%に削減)

 

(3)

1999年の新核戦略 「移動式ICBM中心の核戦力、戦術核の再認識」

 1999年4月に作成されたロシア政府のいわゆる「新核戦略」により、次の方針が決まりました。

  1. 新型ICBMトーポリMの早期配備決定

  2. 戦術核の役わり見直し、戦術核部隊の創設

 これは、これまで、旧ソ連以来とってきた核戦略の大転換でした。


 すなわち、伝統的な核戦略であった大量報復型の戦略が放棄され、戦略核はトーポリM以外は縮小し、かわって、戦術核を再認識し、拡大する方針が定められました。

 このような方針転換は、ロシア経済の現実と、また、NATO勢力の東方拡大、コソボ紛争のような地域紛争の増大に現実的に対応しようとするものでした。

 

(4)

2000年の新軍事ドクトリン 「大量報復型から柔軟反応型へ」

 2000年3月、ロシア大統領選挙が行われ、プーチン氏が大統領に当選しました。
 翌月、「新軍事ドクトリン」が承認されました。
 これは、1999年の新核戦略をうけつぐもので、次の内容が示されています。

  1. NATOの東方拡大に対する脅威を強調。

  2. 核兵器やその他の大量報復兵器による攻撃に対してだけではなく、通常兵器を用いた大規模な侵略に対しても核先制攻撃権を規程。

  3. 戦略核兵器の削減、戦術核兵器の拡大。

 これは、ロシアの軍事戦略が、従来の「政治家の考えた非現実的な「大量報復型」から軍事専門家の伝統的な考え方である「柔軟反応型」に転換した」ことを意味しました。
 ※参考文献B P157

 
Aロシアの潜水艦 

 ソ連時代の1980年代、ソ連海軍は、合計400隻にも上る潜水艦を保有していました。
 しかし、上記のような経済状況に対応した現実的な戦略への修正の結果、各方面で旧式兵器を中心とした軍備縮小が行われ、潜水艦隊も合計約100隻へと縮小されました。

 弾道ミサイル搭載潜水艦SSBNは、2001年段階で次の艦が現役であるとされています。
  ※参考文献 DP176より作成

艦名

隻数

建造年代

デルタT型

1973 ・78

デルタV型

1976〜82

デルタW型

1985〜92

タイフーン型

1981〜89

ボーレイ型

建造中

合計

23

 ロシア海軍は、2001年春のビジョンでは、将来保有すべき潜水艦戦力を、弾道ミサイル搭載艦SSBN12〜15隻、原子力攻撃型潜水艦50隻、通常動力攻撃型潜水艦35隻としています。しかし、現在の経済力ではこれすらも実現は難しいと言われています。
 
 実は、別の最新の情報では、人員も多く維持経費がかかるタイフーン級は、現在SSBNとして活躍しているのは僅か2隻で、1隻は訓練艦の任務に就き、他の3隻は退役し、そのうち1隻はアメリカの援助で原子炉解体中とのことです。


B原子力潜水艦の廃棄処分と日本
 

米ソが核戦略に関して軍縮を進めることは、まあ、1980年代までの大量報復による抑止という不気味な時代よりは、ましになったといえるでしょう。
 しかし、これによって、また日本にも新たな課題と役目がふりかかってきました。

 経済力のないロシアが、自国の核兵器を廃棄するための経済的・技術的援助です。

 実は、旧ソ連では、1950年代から放射性廃棄物質をバレンツ海、北極海、オホーツク海などに投棄してきました。ソ連時代には秘密でしたが、ロシア時代になって明らかになりました。
 2003年段階で、ロシア海軍の原子力潜水艦で退役し解体を待っている艦が、110隻あります。そのうち極東には、48隻があり、これらのオンボロ潜水艦は、解体施設や資金の不足から多くは港に繋留されたままです。
 
 これに対して、アメリカや日本は、ロシアの核兵器の「安全な処分」に対して、1990年代から経済的・技術的な支援をしています。
 勝手に原子力潜水艦を作っておいて、解体する時に助けてくれとは、まったくばかげた話ですが、海に放射性廃棄物を投棄されることや、港につながれたオンボロ潜水艦から放射能が漏れることは防がなければなりません。

核兵器解体に関するロシアへの援助

1992年

 アメリカ議会、自由化支援法制定。
 これは旧ソ連諸国の社会体制改革を支援するもので、その中に、協調的脅威削減プログラムがあり、STARTによる核弾頭削減による核兵器解体への援助が含まれています。

1993年

 日本政府は、前年のミュンヘンサミットを受けて、旧ソ連諸国非核化支援に対して1億ドル(当時のレートで117億円)の援助を発表。

1994年

 日本政府は、ロシア・ウクライナなどと核兵器廃棄協力に関する二国間協定を締結。
 この年、グリーンピースは、ロシア海軍が原子力潜水艦の
二次冷却水を日本海に投棄したと報じました。

1997年

 日本政府、放射性廃棄物処理施設(艀に乗せたプラント)を建造。2001年完成。すずらん丸と命名。

2003年

 小泉首相訪ロ。日露行動計画採択。極東の攻撃型原子力潜水艦解体に日本の直接的援助が決定。
 ロシア極東の
退役原潜艦解体事業「希望の星」開始。ウラジヴォストークの東にある、ボリショイ・カーメン(Bolshoy Kamen)にあるズヴェズダ造船所でビクターV級の解体に着手。 


 ※詳しくは「原子力図書館げんしろう」(トップはこちら)の「ロシアの原子力潜水艦の解体」(こちらです