現物教材 日本史20

古代 013 絵巻物 複製 『伴大納言絵詞』(「えことば」と発音します)      |現物教材:目次:日本史

 高校の日本史の教科書ではおなじみの、絵巻物『伴大納言絵巻』の複製品です。
 次の項目で説明します。 


 1 入手の方法

 2 教科書と『伴大納言絵詞』

 3 授業での利用

 4 伴大納言絵巻の謎

  ※参考文献(このページは、次の書籍を参考にまとめました) 
   ○黒田日出男所『謎解き伴大納言絵巻』(小学館 2002年
   ○倉西裕子著『古代史から解く 伴大納言絵巻の謎』(勉誠出版 2009年)


 1 入手の方法                          | このページの先頭へ |

 この絵巻物の複製は、京都市中京区新町通竹屋町下ル弁財天町301番地に本社がある、株式会社便利堂の商品です。
 私自身は、この商品を東京支店(当時、現在は東京ギャラリー)で購入しましたが、京都国立博物館・東京国立博物館などの博物館のミュージアムショップや、オンラインでも購入できます。
 ○便利堂のHP        http://www.benrido.co.jp/index.html
 ○オンラインショッピング  http://www.shinise.ne.jp/options/shinise/pa_toppage.asp?temp_id=84&shp=104    

 ちなみに、同社の複製『
伴大納言絵詞』は、紙幅11.5cm、長さは第一巻310cm、第二巻316cm、第三巻342cmの大きさで、各巻税込み価格は、4,410円です。(ばら売り可、三巻合わせた価格は、13,230円です)

ちなみに、本物の『伴大納言絵巻』は次のサイズです。複製品は、縦横37%前後、縮小されています。

 

第一巻

第二巻

第三巻

合計

サイズ

31.5cm
×
839.5cm

31.5cm
×
858.7cm 

31.5cm
×
931.7cm 

31.5cm
×
2,629.9cm

黒田日出男前掲書 P26

 同社には、絵巻物・屏風など古典的文化財を商品にしたものがたくさんあります。ポストカードやブックカバーなどは比較的手に入れやすい価格ですが、屏風や絵巻物などは概して高価なものとなっています。


 2 教科書と『伴大納言絵巻』                      | このページの先頭へ |

 高校の教科書には、この絵巻物について、次のように記述されています。

「院政期の文化
 絵画では大和絵の手法が、絵と詞書を織りまぜて時間の進行を表現する絵巻物に用いられて発展した。『源氏物語絵巻』は貴族の需要に応じて描かれ、『
伴大納言絵巻』は都で起きた火事に取材した絵巻で、同じく朝廷の年中行事を描いた『年中行事絵巻』とともに、院政の舞台となった京都の姿を描いている。」 

石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本の歴史 日本史B』(山川出版 2004年)P87

 つまり、この絵巻物は、平安時代末期(12世紀後半)に描かれたもので、都の火事を題材にしたものと言うことです。絵巻物そのものには作者名などは書いてありませんが、研究者の多くは、作者を常磐源二光長(ときわげんじみつなが)としています。後白河法皇の宮廷に使えた絵師で、彼がこの絵巻物を描いた年代は、1160年代から70年代にかけてと推定されています。
 そして、絵巻物に描かれている
火事とは何かと言えば、教科書ではこの部分より前に登場する、平安宮の応天門が炎上した事件です。絵巻物の成立よりおよそ300年ほど前の866年のことです。
 これについては、教科書には、次のように記述されています。

「「藤原氏北家の発展
 9世紀の初めには、桓武天皇や嵯峨天皇が貴族たちをおさえて強い権力を握り、国政を指導した。しかし、この間に藤原氏とくに北家が天皇家との結びつきを強めて、しだいに勢力をのばした。
 北家の藤原冬嗣は嵯峨天皇のあつい信任を得て蔵人頭になり、皇室と姻戚関係を結んだ。ついでその子の藤原良房は、842(承和9)年の承和の変で北家の優位を確立する一方、伴(大伴)健岑・橘逸勢ら他氏族の勢力を退けた。
 858(天安2)年に幼少の清和天皇が即位すると、良房は天皇の外祖父として臣下ではじめて摂政の任をつとめ、
866(貞観8)応天門の変では、伴・紀両氏を没落させた。@

注@

 良房が正式に摂政の命を受けたのは、大納言伴善男が朝堂院の正門である応天門に放火し、その罪を左大臣源信に負わせようとして発覚し、流罪に処せられた応天門の変の時である。

 」 

石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦著『詳説日本の歴史 日本史B』(山川出版 2004年)P60

 つまり、この絵巻物が教材として重要な理由は、単なる絵巻物としてだけではなく、これが藤原氏の権力獲得にまつわる事件を題材に描かれているという点にあります。それ故、次の「3」で示すように、「謎」も含まれたミステリアスな絵巻物なのです。ちょっと高価ですが、それに見合う「活躍」ができる教材です。
 
 本題から外れますが、この商品の名前は、『伴大納言絵詞』となっていますが、教科書表記は『伴大納言絵巻』です。中年以上の方は、高校の日本史では、『
伴大納言絵詞』と記憶された場合が多いかと思いますが、現在の教科書は、『伴大納言絵巻』です。
 先に、これについて説明します。
 学界においては、当初は『絵詞』と表記する場合が多数派でした。ところが、まず梅津次郎氏が「絵詞」とは、普通に絵巻と同義語に用いられているが、本来は「絵巻の詞」の意味であるとし、絵巻物を絵詞と呼ぶことは避けるべきであると主張しました。ついで、それを受けて、上野憲示氏が、江戸時代の表記は「絵詞」となっておりそれが踏襲されている場合が多いが、本来は『伴大納言絵』と呼ぶべきである。そして、もしも慣用として用いるのだとしたら、梅津氏の提言したがって「絵詞」という表現は避け、「絵巻」と呼ぶべきであるとしたことから、1980年代以降「絵巻」という表現が主流となり、教科書もそうなっていったというわけです。
 ※黒田前掲書 P17
 このページでは、便利堂の商品については、『伴大納言絵詞』と表現します。
 
 『源氏物語』などの書物の場合もそうですが、現在と違って、古代や中世の書物や絵画は当時は簡単に複製できるものではありません。この『伴大納言絵巻』はどうやって今日まで伝えられてきたのでしょうか。
 作成されてから300年ほどはどこをどう伝えられたかはわかりません。しかし、15世紀には若狭国(現福井県西部)松永(小浜市遠敷)にある新八幡宮という神社の宝物になっていたことは確かです。この神社では、『吉備大臣入唐絵巻』と『彦火々出見尊絵巻』(ひこほほでみのみことえまき)の二つの絵巻物も保存されていました。
 このあと江戸時代には
若狭小浜の藩主酒井家が、寛政年間(18世紀末)に家臣より召し上げて所有しました。そのまま、明治維新をこえて戦後まで酒井家の所有となり、その間の1951(昭和26)年には国宝に指定されています。
 のち、1984{昭和9)年に東京の
出光美術館の所蔵となり、今日に至っています。
  ※出光美術館のHP http://www.idemitsu.co.jp/museum/collection/index.html


 3 授業での利用                          | このページの先頭へ |

 絵巻物というのは、これ以外にも、高校の授業ではいろいろ出てきます。授業に登場する順に言えば、『北野天神縁起絵巻』・『前九年合戦絵巻』・『後三年合戦絵巻』・『平治物語絵巻』・『鳥獣人物戯画』・『伴大納言絵巻』・『源氏物語絵巻』・『一遍上人絵伝』・『蒙古襲来絵巻』などです。
 これらは副教材の資料集で写真として見ることができますが、実際に絵巻物というものがどういうものかは、資料集では分かりません。
 そこでこの複製品の登場です。
 
 本物は
紙の幅が30cm以上もある大きなものですが、この複製品はその3分の1程の11.5cmです。長さも同じく3分の1程の310cmしかありません。しかし、黒板の前でその3m余りを広げてみると、「絵巻物」というものの「風情」は、かなり実感できると思います。
 また、現代の漫画と違って「コマ割」がしてあるわけではありませんから、絵巻物というものにどのような手法でどのようにストーリーが書かれているかは、実際に見てみないと分かりません。

 授業では、生徒諸君に手伝ってもらって、まず、長さ一杯に広げたものを提示するところから始まります。(破れたりなどの破損が生じないかハラハラしますが・・・)
 細かい部分は小さくて分かりませんから、あらかじめ配布プリントに印刷しておくか、現物投影機で映し出すという手を使います。画面の構成、大和絵の独特の手法である「霞」の使い方などについて、生徒諸君の理解が進みます。
 日本の伝統文化を学習する一つのよい事例となります。

 この『伴大納言絵巻』は、院政期の文化の所で正式に登場しますが、そこでの学習は、上記の絵巻物そのものの学習と、内容的にはすでに藤原北家の発展」で学習した、藤原良房や伴善男、そして応天門の変について復習を兼ねたものになります。
 一石二鳥です。 


 4 伴大納言絵巻の謎                          | このページの先頭へ |

 絵巻物の研究をしていくと、そこに絵として描かれた風俗や人物の表情を初め、いろいろな面白い点が発見できます。そこはまた、絵巻物学習の第一のおもしろさでもあります。
 そして、もうひとつ、過去に遺物の解釈にあたってはよくあることですが、この 『伴大納言絵巻』の中にはとりわけ多くの不可解な点があり、これまでの長い研究においては、いろいろな
謎解きがなされてきているという面白さがあります。冒頭に挙げた黒田氏や倉西氏の著書のタイトルに、「謎」「解く」といった文字があることが、そのことを雄弁に物語っています。
 
 では、『伴大納言絵巻』の学習に必要な、事件の内容の理解に進みます。いくら、教材が優れていても、学習する内容が貧弱ではいい授業はできません。
 まずは、事件の政治的な面での基本的事項の理解です。
 下の年表と系図を見て、以下の黒板の質問に答えてください。


 応天門の変の経過

 
866年

         

 閏3月10日 

 夜半、応天門炎上し全焼(現在に至も真犯人は不明)

 5月13日頃 

 大納言伴善男は右大臣藤原良相と結んで、応天門放火の犯人は左大臣源信(みなもと まこと 嵯峨源氏一族の最上位者)であるとし、この頃兵をだして、源信邸を包囲する。

時期不明 

 藤原良房は伴善男・藤原良相とは結託せず、逆に伴善男は孤立する。 

8月3日 

 左京に住む備中権史生大宅鷹取という人物が、応天門の放火犯人は伴善男とその子、中庸(なかつね)犯人と申し出る。 

8月7日 

 伴善男、取り調べを受ける。事件を否認する。

8月19日 

 朝廷、応天門炎上事件を歴代天皇陵に報告。その告示文から伴善男の有罪の確定が困難に直面していることが推定される
 この日、藤原良房に、「天下の政を摂行」の勅令がだされる。
 清和天皇は、858年に9歳で即位した時点で、外祖父の良房が摂政となったが、864年、清和天皇元服し、良房は、摂政の任を解かれていた。このまま清和天皇親政の可能性もあったが、良房が再び、成人となった清和天皇の摂政に就任。
 

8月29日 

 善男の子、中庸の命令で、善男の配下の者が、善男を真犯人と申し出た大宅鷹取の娘を殺害したことで取り調べを受ける。のち確定。 

9月22日 

 伴善男の罪状が確定。この日、伊豆へ配流される。
 同時に、紀氏・伴氏らの多くの文人派官僚が連罪して配流され、清和天皇の藤原氏に頼らない新政は実現不可能となる。
 

 

 良房の養女高子、清和天皇に入内。のち、陽成天皇となる皇子を出産する。 

12月8日 

 左近衛中将参議藤原基経が、7人抜きで、従3位中納言に出世する。良房の弟の良相の子、常行の官位を飛び越す。 

 867年   10月   藤原良相、没。
閏12月   源信、没。 



 年表は、応天門炎上以降の動きを示しています。
 系図は、良房を中心に皇室と藤原氏の関係を示したものです。赤い色の女性は藤原氏と天皇家との婚姻関係を示しています。
 以下の黒板の質問は、応天門事件当時藤原良房が抱えていたと思われる、「三つの憂い」(政界で確固たる地位を確保するために乗り越えなければならない3つの課題)をテーマとしています。年表と系図を確認しながら解いてください。


 ※例によって、黒板をクリックしてください。答が現れます。

 応天門の変は、上記のように結果的には藤原良房にとっては、政治的に大変有利な状況を生む結果となりました。
 まず、憂いのその1、嫌疑をかけられた嵯峨源氏は助けてもらった良房に強い姿勢がとれなくなり、政治的なライバルとしての勢力ではなくなりました。
 憂いその2、弟良相は伴善男の野望に手を貸して失敗したため、良相が氏の長者(藤原氏の第一人者)となる可能性をなくなりました。
 憂いその3、さらに、清和天皇の親政の芽も摘みました。いくら外祖父とはいえ、成人した清和天皇が良房の言うことを聞かなくなるということは十分に可能性はありました。しかし、応天門の変で良房が強い指導力を発揮し解決に導いたこと、そして、人脈的にも清和天皇とつながる文人は貴族が退けられてことにより、清和天皇親政の可能性はなくなりました。
 
 この年の秋の良房の娘、高子の入内や、12月8日にあった跡継ぎの基経の異例の出世は、これら憂いが良房の手腕によって解消されてことを象徴的に物語っています。

 だ
からといって、良房が放火を命令したとは考えられていません。良房にとっては、そのような乱暴なことをすることの方が、危険きわまりないからです。
 良房はたまたま起こった応天門放火事件、そしてそれを利用しようとして源信をおとしめようとした伴善男・弟藤原良相の行動を逆手にとって、逆に政治的に勝利したと考えるべきです。
 
 現段階においては、応天門に火を付けた真犯人が誰であるかは、特定できていません。それはつまり、伴善男自身の可能性も低いと言うことです。
 応天門は、内裏の朝堂院正面の重要な門ですが、ここは伴氏のゆかりの門で、それを自らが放火することは考えられないからです。やや詳しく説明すると、この伴氏は、律令制以前からのかの名族の
大伴氏のことで、平安時代初期に伴氏と改名したものです。実は大伴氏は、大和朝廷の成立時から、宮廷の門を警護する軍事の職掌をになった氏族であり、その伝統の汚すような門への放火は、自分で自分の首を絞めることになり、あり得ない行為と考えられます。

 これらを総合的に判断して、火災の原因は全くの失火か、それとも伴善男を恨む誰かの放火と考えられています。
 そもそも伴氏は、奈良時代末の
藤原種継暗殺事件の一味となったことから伴氏の祖父や父が、配流されるという厳しい状況にありました。伴善男自身も父の配流地の佐渡で生まれたと考えられますが、許されて官途に就いてからは、猛勉強によって中国の古典や法律に秀で、才覚のある人物となりました。このため事件の時の天皇、清和天皇の祖父に当たる仁明天皇の寵愛を得て異例の出世を遂げていましたが、それゆえに彼のために不遇となったライバルも多く、その誰かが恨みを持って伴氏ゆかりの応天門を放火したと言うことが考えられるのです。
 伴善男は、たまたま起こった放火事件を、政治的な陰謀事件に利用しようと考え、逆に藤原良房の逆襲にあって、自ら身を滅ぼしたとするのが自然です。 


 『伴大納言絵巻』の謎

 事件の概要が理解できたら、次は、絵巻物そのものの謎への挑戦です。
 3巻からなっている『
伴大納言絵巻』の第一巻の最後の部分に、謎の人物が登場しているのです。
 それが、下のイメージ図のA・B・Cです。
 そもそも絵巻物というのは、物語を説明する「詞書き」(ことばがき)というのが記されていて、絵はそれにしたがって理解できていくものです。しかし、この絵巻物には、いろいろな事情から謎の部分があるのです。
 そもそもこの絵巻物の第一巻部分には詞書きがありません。本来は当然ながら、冒頭部分にあったと思われますが、長い間に欠落してしまっています。ただし、『宇治拾遺物語』(13世紀前半に成立した説話集)の「伴大納言焼応天門事」にほぼ同じ文章が示されているため、内容は正確に復元できます。
 それによれば、この部分は、応天門炎上の後、伴善男が朝廷に「源信が犯人」と訴える部分、良房が天皇に「軽々しく妄説に賛成してはいけないと申し上げる部分となります。

 この部分の謎の指摘は、1933年福井利吉郎氏によります。
 それ以後、75年余の間に、いろいろな説が唱えられ、その組み合わせは、7説以上となっています。 




 たとえば、上述の黒田日出男氏は、同書(2002年出版)の中でこれまでの研究史を詳しく分析し、絵巻物そのものを精密に調査した上で、伴善男、頭中将、藤原良房と比定しておられます。
 また、倉西裕子氏は、上述書物(2009年出版)の中で、伴氏を初めとする過去、同時代、その後の状況等を連続的に分析し、その上で、源信、藤原基経、藤原良房とされています。
 比較的新しい研究でも両者の考え方はまったく別です。

 加えて、画像資料分析・絵画資料研究の専門家である黒田氏は、1986年の山根有三氏の「第13紙と第14紙との間の絵のつながりが不自然であり、その間に1紙分の脱落があるという説に基づき、どういう場面が抜けていたかを想定しておられます。(上の説明図の
←→部分のつなぎが不自然。模写図では分かりませんが、本物の写真を見ると、確かに不自然と分かります。)

 しかし、それより7年後の2009年に出版された倉西氏の書物には、氏が歴史研究の専門家であることもあって、絵巻物の脱落部分については何も述べられていません。
 その代わり、倉西氏は、後白河法皇の宮廷でこの絵巻物が書かれたのは、後白河法皇と平氏が対立に向かおうとする1170年代のことであるとし、陰謀の露見という発想は、鹿ヶ谷の変の歴史的事実に触発されてものであるという面白い推論をされています。
 さらに、源信は後白河法皇自身の姿が投影されたものであり、 後白河法皇がこの絵巻物を作らせたのは、応天門事件に自身の政治状況をダブらせ、院政の復活を願ったものであるという大胆な推論を展開されています。

 まだまだ、話題が尽きない、『伴大納言絵巻』です。