現物教材 日本史11

戦後 003 「日本列島改造論」                        |現物教材:目次:日本史

 今回は、オーソドックスに、かの有名な、田中角栄著『日本列島改造論』です。

 それぞれ人の考え方はまちまちですが、私の場合、田中角栄という人物は、最初に政治家とはこういうものかということを強く意識した人物でした。

 1955年生まれの私にとって、はじめて意識した「首相」は、もちろん佐藤栄作氏でした。


 首相が短期間でころころ変わる1990年代以降と違って、小学校4年生の途中から、高校3年生の途中まで、首相はずっと佐藤栄作でした。ちなみに、昭和40年から昭和48年までの9年間、プロ野球セリーグの優勝チームはずっと巨人でした。
 その佐藤首相に代わって登場したのが、田中角栄氏です。


 小学校卒業の学歴しかないことから今太閤と呼ばれて国民の人気を博した就任時、電光石火の日中国交正常化、列島改造ブーム、そして、オイルショック、狂乱物価、田中金脈問題による辞任。その後のロッキード事件。

 1972年刊。定価500円。

 暦年

 首相

 主なできごと

 私の学齢

 1964(昭和39)

 池田→佐藤

 東京オリンピック

 小4

 1965(昭和40)

 佐藤

 米軍北ベトナム爆撃開始

 小5

 1966(昭和41)

 佐藤

 ビートルズ来日

 小6

 1967(昭和42)

 佐藤

 東京都知事美濃部氏当選

 中1

 1968(昭和43)

 佐藤

 3億円強奪事件 プラハの春 

 中2

 1969(昭和44)

 佐藤

 東大安田砦攻防戦

 中3

 1970(昭和45)

 佐藤

 大阪日本万国博覧会

 高1

 1971(昭和46)

 佐藤

 ニクソンショック

 高2

 1972(昭和47)

 佐藤→田中

 沖縄返還・日中国交正常化

 高3

 1973(昭和48)

 田中

 第一次石油ショック

 大1

 1974(昭和49)

 田中→三木

 田中金脈問題

 大2


 田中角栄氏は、私が成人へと向かう多感な時期に、あまりにもドラマティックに登場し、また予想以上の波乱に満ちた「人生」を歩んだ政治家でした。
 彼の政治家としての「業績」や「政治活動」については、これまで日本史・現代社会のいろいろな分野で多くの授業のテーマとして扱ってきました。
 特に、彼の政治家としての生き様そのものである、自分の選挙区への利益誘導型の政治については、「日本型保守政治の在り方」という視点から、避けがたい大きなテーマでした。

 その「ご本尊」ともいうべき書物、『日本列島改造論』を手に入れました。
 この本は、教師になった直後から、是非入手したいと思っており、これまでも東京に行ったりした時に古本屋で探していたのですが、なかなか見つからずにいました。
 ところが、今年になってヤッフーオークションをはじめてから、この本がたびたび出品されることに気が付きました。

 実は今回が4回目でやっと入手しました。
 1回目と3回目は、金額はそこそこの争いで、一時期私が最高入札金額者でしたが、仕事が忙しくて帰宅が遅くなり、締め切り時間前に見ることができない状態となってしまい、他者にさらわれてしまいました。
 2回目は、何人かで激しい争いとなり、金額が3000円を超える状況となって、撤退しました。

 今回は、初めから相手の希望落札金額の2500円を提示したところ、すんなり手に入れることができました。定価は500円ですから、ずいぶんと高い買い物となってしまいましたが、貴重なものであることは間違いありません。

 この本は、1972年6月、田中角栄氏が首相となる1カ月前に日刊工業新聞社から出版されました。
 田中角栄著となっていますが、実際は、田中の意図を受けた通産省のある課長が草稿を書いたもので、内容的には、それまでに示されていた「都市政策大綱」
「第二次全国総合開発計画」 をあわせ、若干の新しい構想を盛り込んだものでした。
 ※以下の説明は、宮本憲一著『昭和の歴史10 経済大国』(1983年小学館)P227-9、P307-9を参考にしました。
 「都市政策大綱」は、1968年5月に、前年の統一地方選挙における自由民主党の敗北を受けて、田中角栄が中心となってまとめた新しい都市政策ビジョンです。
 「大都市と地方開発を同時に進め、高能率で均衡の取れた国土を建設する」とうたっているように、日本列島総都市化案ともいうべきもので、核心部分は、その開発を自治体や地主主体で行うのではなく、民間デベロッパー(民間地域開発業者)にゆだねるという点でした。具体的には、大都市の都市再開発と郊外の新住宅地建設を民間業者に任せようというものでした。

 このために、民間デベロッパーが都市計画事業の施行者となれるように法律を改正し、土地収用の請求権を持たせ、長期低利の開発資金を公的金融機関や財政資金で供給しようというものでした。

 これはのちの日本の政治の方向を次の二つの点で示しているものでした。

  •  田中角栄自らは、「これが土建屋のための政策とだけは言ってくださるな」(宮本前掲書P229)と言っていますが、これこそ、都市再開発と地方の開発の両面で公共資金をばらまき、業者も地方住民も、退潮傾向にあった自民党の支持基盤として再び取り込もうとするものでした。

  •  自治体ではなく、「民間活力」を利用する点で、のちの中曽根内閣以後の行政改革の基本理念をすでに示すものでした。

  「第二次全国総合開発計画」 は、1969年に発表された当初は「新全国総合開発計画」と呼ばれたもので、1985年を目標として、大量の資金を投入して国土を改造していうこうという計画です。
 地方にコンビナートなど巨大産業基地・巨大観光基地などの拠点を開発し、それを高速道路や新幹線網などによって結び、全国土を1日交通圏とするというもので、総投資額450兆円から550兆円に及ぶという、高度経済成長期ならではの巨大国土改造政策でした。

 『日本列島改造論』は、この二つをあわせたもで、簡単に言えば、「日本列島を一つの家のごとく考えて分業化し、それぞれの地域を巨大な交通通信網によって結合し、効率のよい国土利用をはかり、資本と人口を分散化して過密過疎を解消しようというもの」(宮本前掲書P307)でした。

 この中では、1万qの高速道路、9000qの新幹線、7500qのパイプラインの建設が計画され、年率10%の経済成長の持続が予定されていました。
 この計画どおりだと、石油の輸入量が毎年7億キロリットル(これは世界の石油輸入量の約半分)にも及び、タンカーがペルシア湾を1時間毎に出発しなければならないぐらいの荒唐無稽な計画でした。

 この計画が単なる夢に終わったのなら、よかったのですが、現実的には、その後にさまざまな影響を与えました。

 第一に、この計画が発表され、1973(昭和48)年度予算に盛り込まれると、企業は一斉に開発を当て込んで土地投機に走りはじめました。
 1973年の前半から地価の上昇が目立ちはじめ、それが物価全般に影響しました。それは、この年9月の時点で、すでに前年度に比して卸売物価は18.7%、消費者物価も14.1%の高い上昇率となって現れていました。

 そして、この直後の10月、第4次中東戦争が起き、日本は第一次石油ショックに襲われました。
 これによって、この後4カ月で卸売物価の上昇率21%という未曾有の狂乱物価状態となり、1974(昭和49)年は、GNPがマイナス成長となってしまいました。
 
 また、「1万qの高速道路、9000qの新幹線」計画は、今日でもなお、地方の人々の「夢と願望」となって生き続けており、自由民主党の地盤とからみあって、見直しが難しい問題となっていることは周知の事実です。

 長くなりました。
 田中角栄氏は去っても、『日本列島改造論』は、今なお日本の政治を呪縛し続けているのではないでしょうか。